平安時代の年表:村上天皇の御代、天慶九年(946)4月20日から天慶十年(947)4月22日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
村上天皇時代の年表(天慶)
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天慶九年(946)
4月
4月20日 御受禅
天慶九年(946)4月20日庚辰、村上天皇の御受禅があった。(『践祚部類鈔』)
4月22日 諸社へ即位を報告
天慶九年(946)4月22日壬午、村上天皇が綾綺殿へお移りになり、建礼門の南庭にお出ましになった。伊勢大神宮へ奉幣が行われた。村上天皇の即位を報告した。宮に帰った後、藤原忠平は斎院を替えないことを賀茂社に告げた。二帝の御使がやってきた。皇太后藤原穏子が重病であるとの報告があった。加持祈祷が行われた。(『貞信公記抄』)
4月23日 斎院御禊
天慶九年(946)4月23日癸未、賀茂祭の斎院婉子内親王の御禊があった。また、賀茂祭の警固の召仰があった。(『即位部類記』)
4月25日 賀茂祭
天慶九年(946)4月25日乙酉、晴れ。賀茂祭が行われた。諸司は廃務であった。(『即位部類記』)
4月26日 諸陵墓に即位を報告
天慶九年(946)4月26日丙戌、村上天皇が即位したことを諸陵に報告した。尊号を太上皇(朱雀上皇)に上った。皇太后藤原穏子を太皇太后とした。藤原忠平は御書を給わった。夜になって忠平は詔書草を賜り、中務に下した。(『貞信公記抄』)
4月28日 即位の儀
天慶九年(946)4月28日戊子、村上天皇が大極殿にお出ましになり、即位の儀が行われた。右の四位侍従寛信は参らなかった。五位兼材は障りを申した。村蔭を以て代わりとした。左大弁が礼服を取って着させた。今日は通例とは違うことがとても多かった。右の親王は剣を帯びていなかった。(『貞信公記抄』)
5月
5月1日 開関
天慶九年(946)5月1日庚寅、藤原忠平は開関使を遣わした。尊号詔書を覆奏した。朱雀上皇の御書を村上天皇に奏上した。お許しはなかった。(『貞信公記抄』)
伊勢・近江・美濃などの国に開関使を遣わした。また、六府の陣・左右の馬・兵庫などの警固を解いた。(『即位部類記』)
5月3日 即位の慶賀/諸司・別当を定める
天慶九年(946)5月3日壬辰、僧都一人・律師五人・威儀師一人・従儀師一人が内裏に参入した。村上天皇の御即位に慶賀を申し上げるためである。(『即位部類記』)
右大将藤原師輔は御前において諸司・所々の別当を定める書を、仰せによって持ってきた。(『貞信公記抄』)
5月5日 滝口武者の人数を定める
天慶九年(946)5月5日甲午、中使随時が藤原忠平のもとに来て「女叙位を行うため右大臣(藤原実頼)を召しましたが、病を称して参りません。また、滝口の武者の人数を申させました。上皇の御報では『先帝の御時に倣うように』との事でした」と言った。(『貞信公記抄』)
女叙位は右大臣の病により、下官が行った。他の公卿は宜陽殿に候した。(『西宮記』)
5月6日 女叙位
天慶九年(946)5月6日乙未、女叙位があった。大納言藤原師輔が行った。深夜、藤原忠平は御書・下名を賜った。(『貞信公記抄』)
5月15日 祈雨/即位を報告
天慶九年(946)5月15日甲辰、卯の刻、野鹿が春華門から侵入し、宜秋門から出ていった。また、巳の刻、䳄雉が梨壺の西垣に集まっていた。村上天皇が八省院にお出ましになり、伊勢大神宮ならびに諸社へ奉幣し降雨を祈願した。また、京畿七道の明神に、前例によって即位したことを報告した。(『貞信公記抄』)
5月18日 怪異
天慶九年(946)5月18日丁未、中使公輔が、狐が御剣の緒を噛みちぎった怪異の御卜の文を持ってきた。(『貞信公記抄』)
5月19日 御修法
天慶九年(946)5月19日戊申、朱雀上皇が保世を藤原忠平のもとに遣わし「皇太后藤原穏子が午の刻からひどく具合が悪い。どうしたものか」と仰せられた。忠平は、度者60人を皇太后に奉った。(『貞信公記抄』)
5月20日 藤原忠平、関白詔書/斎宮卜定の日を勘申
天慶九年(946)5月20日己酉、藤原忠平は詔により元のように関白とされた。随身兵仗として内舎人2人、左右近衛各4人を賜った。三宮に准じられた。(『公卿補任』)
右大臣藤原実頼は外記に仰せて陰陽寮を召し、伊勢斎王を卜定する日時を勘申させた。(『北山抄』)
5月23日 朱雀上皇の御移徙が定められる
天慶九年(946)5月23日壬子、随時が藤原忠平のもとに来て「蔵人所の人数は50人と定められました。朱雀上皇のご遷宮の際、必要なことを定め申してください」と言った。(『貞信公記抄』)
5月27日 斎宮卜定/藤原安子、女御になる
天慶九年(946)5月27日丙辰、外記千桂が「今日、斎宮を卜定しました。英子内親王に決まりました。少将為善朝臣を以てかの家に告げさせました」と言った。(『貞信公記抄』)
また、右大将藤原師輔の娘藤原安子が女御に定められた。(『貞信公記抄』)
6月
6月2日 怪異
天慶九年(946)6月2日辛酉、斎王を定める状ならびに宮中の怪異により、御幣使を伊勢大神宮ならびに諸社へ遣わし奉った。(『貞信公記抄』)
6月10日 御体御卜奏
天慶九年(946)6月10日己巳、御体御卜奏が行われた。「7月上旬、慎むように」との事だった。(『貞信公記抄』同年6月12日条)
6月11日 神今食
天慶九年(946)6月11日庚午、神今食が所司に付して行われた。(『貞信公記抄』)
6月21日 紫宸殿出御
天慶九年(946)6月21日庚辰、村上天皇は初めて紫宸殿にお出ましになった。官奏・少納言・監物の奏があった。(『貞信公記抄』)
7月
7月9日 村上天皇が朱雀上皇に謁見
天慶九年(946)7月9日丁酉、村上天皇が弘徽殿において朱雀上皇に謁見した。会談が終わった後、御肴酒が供された。二、三巡した後、天皇は玉盃を捧げ、上皇に勧めた。何度が勧められて、上皇は盃を飲んだ。その後、上皇は盃を執って天皇に勧めた。天皇は盃を飲んで、拝舞を行った。上皇は座を避り、礼を受けた。次いで筥・琴・箏・和琴・御馬四疋が献上された。臣下は禄を賜った。院も同じく賜った。遷御にあたり、天皇に御剣・玉帯が献じられた。(『貞信公記抄』)
7月10日 朱雀上皇、朱雀院遷御
天慶九年(946)7月10日戊戌、戌の刻に朱雀上皇の太皇太后藤原穏子が朱雀院へお移りになった。(『日本紀略』)
7月12日 止雨奉幣使発遣
天慶九年(946)7月12日庚子、八省院において諸社へ止雨奉幣使が発遣された。大納言藤原師輔が行った。(『貞信公記抄』)
7月20日 相撲召合の宣旨
天慶九年(946)7月20日、右大将藤原師輔が藤原忠平邸の門の外に来た。忠平は軽い忌みがあったので師輔を呼び入れ、雑談した。相撲召合を28日・29日に行う宣旨が諸司に仰せられた。(『貞信公記抄』)
7月24日 諷誦/藤原有相・兼通 昇殿
天慶九年(946)7月24日壬子、太政大臣藤原忠平の病が危ないので、度者50人を給わった。勅によって、忠平の病を除くために陸奥国の絹二百疋を以て16ヶ所の寺において諷誦を修せられた。(『西宮記』)
また、藤原有相・藤原兼通が昇殿を許された。(『公卿補任』)
7月28日 相撲召合
天慶九年(946)7月28日丙辰、相撲召合があった。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
7月29日 追相撲
天慶九年(946)7月29日丁巳、追相撲が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月9日 釋奠/季御読経
天慶九年(946)8月9日丁卯、大極殿において季御読経が行われた。例年通り、王卿が参入した。その後、王卿は朱雀門に至り、それぞれ車に乗って大学寮へ向かった。釋奠の宴による。(『西宮記』)
8月10日 釋奠内論議
天慶九年(946)8月10日戊辰、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。釋奠内論議が行われた。(『貞信公記抄』)
8月11日 定考の延期
天慶九年(946)8月11日己巳、納言以上の物忌・障りにより、定考は停止となった。(『貞信公記抄』)
8月15日 定考
天慶九年(946)8月15日、定考が行われた。(『貞信公記抄』)
8月17日 朝覲行幸
天慶九年(946)8月17日乙亥、村上天皇が朱雀院へお出かけになり、朱雀上皇に謁見した。(『日本紀略』)
本院親王以下・次侍従は禄を賜った。音楽の演奏があった。遷御にあたり、鷹・馬・犬を献上された。(『貞信公記抄』)
8月27日 朱雀上皇御遊
天慶九年(946)8月27日乙酉、右大臣藤原実頼が朱雀院に参入した。朱雀上皇は池にお渡りになり、船の上で管弦の演奏があった。侍臣は禄を賜った。(『貞信公記抄』)
9月
9月1日 藤原忠平、宿侍
天慶九年(946)9月1日戊子、藤原忠平は両宰相を召し、禁中に宿侍するように仰せた。太皇太后藤原穏子の御消息による。(『貞信公記抄』)
9月3日 御燈の停止
天慶九年(946)庚寅、触穢により御燈は停止となった。(『北山抄』)
9月9日 大嘗会御禊を定める
天慶九年(946)9月9日丙申、中使公輔が藤原忠平のもとに来て「伊勢例幣は、上卿がみな穢により参りません。どうしましょう」と言った。前例により、日を延期して遣わし奉る状を奏させた。また「大嘗会御禊は大事な行事ですが、執り行う人がいません」と。(『貞信公記抄』)
9月10日 中原助信が衣を裂かれる
天慶九年(946)9月10日丁酉、詔によって蔵人右衛門尉中原助信の宿直衣を裂くことになった。前日の夕方、村上天皇は殿上にお出ましになった。その際、助信は随身していたところの嚢中の衣を披見した。とても深い紅色だった。そこで、衣を破ることになった。(『源語秘訣』)
9月11日 伊勢例幣の延期
天慶九年(946)9月11日戊戌、触穢により、伊勢例幣は延期となった。(『貞信公記抄』)
9月12日 藤原忠平、牛車を許される
天慶九年(946)9月12日己亥、右大臣藤原実頼が「昨日、官奏を見るのを停める宣旨・下官(藤原忠平)が牛車に乗って宮中を出入りしてもよい宣旨が下されました。また、大納言(藤原師輔)が官奏に候ずべき宣旨が下されました」と言った。(『貞信公記抄』)
9月17日 御遊
天慶九年(946)9月17日甲辰、朱雀上皇・太皇太后藤原穏子がともに柏梁殿にお出ましになり、遊覧の興があった。その間に除書が出てきて、これをご覧になった。急いで本殿にお帰りになった。御門は閉じられた。(『貞信公記抄』)
9月19日 一分召宣旨
天慶九年(946)9月19日丙午、大納言藤原師輔が一分召の宣旨を下した。朱雀院の御使仲陳が藤原忠平のもとに来て「伊勢斎宮が薨じられました。御服はどうしましょう。ご着用なさるべきか、簾を下ろす程か。また、在位の間、御願はとても多くありました。どのようにして果たし行うべきでしょうか。兵乱の時など、大いに多くありました」と言った。(『貞信公記抄』)
9月20日 藤原顕忠、大嘗会御禊装束司に補任
天慶九年(946)9月20日丁未、中納言従三位藤原顕忠は大嘗会御禊装束司長官を兼任することになった。(『公卿補任』)
10月
10月1日 旬
天慶九年(946)10月1日戊午、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。諸司奏はなく、番奏だけが行われた。いつも通り、音楽の演奏があった。申の刻に御出した。秉燭の後、番奏があった。(『貞信公記抄』)
10月10日 宇佐使発遣
天慶九年(946)10月10日丁卯、宇佐使雅文が発向した。中使公輔が藤原忠平のもとに来て「太宰に下す官符は、承平の例により走馬を奉る状がありました。その時は、臨時のお祈りでした。しかし、官が誤って請印してしまいました。どうしましょう。また、今日の使いは先々の跡により御前に召すべきです」と言った。(『貞信公記抄』)
10月13日 伊勢例幣・諸社奉幣
天慶九年(946)10月13日庚午、去る9月に延期となった伊勢例幣ならびに他の諸社奉幣を行った。(『貞信公記抄』)
10月20日 官奏の停止
天慶九年(946)10月20日丁丑、諸陵寮・淡路国から怪異の文があり、御衰日により官奏は行われなかった。(『北山抄』)
10月28日 大嘗会御禊
天慶九年(946)10月28日乙酉、大嘗会御禊が行われた。供奉の大臣以下は皆陪従した。ただし、親王は二人だけで奉仕した。十二・十三である。藤原忠平をはじめ皆障りを称した。また、内侍鮮木子は病を称して参入しなかった。蔵人一人が落馬してその場に留まった。(『貞信公記抄』)
11月
11月9日 春日祭
天慶九年(946)11月9日丙申、春日祭が行われた。(『西宮記』)
11月15日 鎮魂祭
天慶九年(946)11月5日壬寅、宮内省の穢により、神祇官において鎮魂祭が行われた。(『北山抄』)
11月16日 大嘗祭
天慶九年(946)11月16日癸卯、大嘗祭が行われた。(『日本紀略』)
11月29日 藤原述子入内
天慶九年(946)11月29日丙辰、右大臣藤原実頼の娘藤原述子が入内した。(『貞信公記抄』)
12月
12月11日 神今食
天慶九年(946)11月11日丁卯、村上天皇が神嘉殿にお出ましになった。神今食があった。(『貞信公記抄』)
12月25日 藤原述子、女御になる
天慶九年(946)12月25日辛巳、右大臣藤原実頼の娘藤原述子が女御となった。(『貞信公記抄』)
12月26日 荷前
天慶九年(946)12月26日壬午、荷前が行われた。(『貞信公記抄』)
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天慶十年(947)
1月
1月1日 朝賀/元日節会
天慶十年(947)1月1日丁未、村上天皇が大極殿にお出ましになり新年の挨拶を受けた。お帰りになった後、宴があった。(『日本紀略』)
寅の刻、藤原師輔が四方拝を行った。辰の刻、八省長楽門東廊の宿所に向かった。朝拝による。文武官の装束は悉く緩怠していた。師輔は外記・史に仰せて催させた。巳三刻、村上天皇が大極殿にお出ましになった。午三刻、外弁と上達部が着席した。四刻、内弁大臣が着席した。それから兵部を召し、槌をして装わせた。次いで鼓を召した。未一刻、列を引いた。師輔が奏賀を奉仕した。特に失儀はなかった。申の刻に終わり、お帰りになった。(『九暦』)
1月2日 太皇太后大饗
天慶十年(947)1月2日戊子、王卿が太上天皇朱雀院の柏梁殿に参り、拝礼した。夜、仁寿殿において太皇太后(藤原穏子)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月4日 朝覲行幸
天慶十年(947)1月4日庚寅、村上天皇が朱雀院にお出ましになった。太皇太后藤原穏子に拝謁した。次いで、朱雀上皇に拝謁した。(『日本紀略』)
1月7日 白馬節会
天慶十年(947)1月7日癸巳、白馬節会が行われた。叙位はなかった。去年叙位が多かったからである。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
天慶十年(947)1月8日甲午、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
天慶十年(947)1月14日庚子、御斎会が結願した。村上天皇の御物忌により、内論議において僧を御前に召さなかった。紫宸殿において論議があった。(『日本紀略』)
1月12日 太政大臣大饗の停止
天慶十年(947)1月12日戊戌、卯の刻、藤原師輔は藤原忠平邸に参入したが、昨夜から忠平の体調がよくなかったので、急遽中止となった。(『貞信公記抄』『九暦』)
1月14日 怪異
天慶十年(947)1月14日庚子、上空から声が聞こえた。雷鳴のような声だった。ある人が「天智天皇の山陵が鳴動しました」と言った。またある人は「山陵は鳴動していません」と言った。(『貞信公記抄』)
1月16日 踏歌節会
天慶十年(947)1月16日壬寅、踏歌節会があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。次侍従三人を補した。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
1月17日 射礼
天慶十年(947)1月17日癸卯、豊楽院において射礼が行われた。ただし、村上天皇はお出ましにならなかった。藤原元方が勅を奉り、これを行った。(『貞信公記抄』)
1月23日 内宴
天慶十年(947)1月23日己酉、村上天皇は綾綺殿において内宴を行った。式部卿敦実親王、中務卿重明親王、右大臣藤原実頼ら諸卿が殿上に候した。管弦の演奏があった。詩題は「花気染春風、鶯声聴管弦」。式部大輔大江維時ら文人12人を召した。今日は公家の御衰日だが、先例によって今回の宴が行われた。(『日本紀略』)
1月25日 外記政始/朱雀上皇、九条殿御幸
天慶十年(947)1月25日辛亥、外記政始であった。(『貞信公記抄』)
朱雀上皇が九条殿にお出かけになった。(『日本紀略』)
1月26日 朱雀上皇、大原野御幸/除目
天慶十年(947)1月26日壬子、朱雀上皇が大原野にお出かけになった。(『日本紀略』)
除目の議が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月1日 釋奠
天慶十年(947)2月1日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭・春日祭
天慶十年(947)2月4日庚申、祈年祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
2月9日 園・韓神祭
天慶十年(947)2月9日乙丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 大原野祭
天慶十年(947)2月11日丁卯、大原野祭が行われた。(『西宮記』)
2月16日 直物
天慶十年(947)2月16日壬申、右大臣藤原実頼の直物が行われた。(『日本紀略』)
2月25日 朱雀上皇、北野御幸
天慶十年(947)2月25日辛巳、朱雀上皇は北野にお出かけになり、狩りをしてお遊びになった。(『九暦抄』)
3月
3月3日 御燈/平貞盛が馬を献上
天慶十年(947)3月3日戊子、御燈により廃務であった。(『日本紀略』)
この日、平貞盛が朱雀上皇に馬を献上した。(『日本紀略』)
3月9日 朱雀院行幸
天慶十年(947)3月9日甲午、村上天皇が朱雀院にお出かけになった。朱雀上皇・太皇太后藤原穏子がともに柏殿で相謁した。式部(敦実親王)・中務(重明親王)の両卿、大臣(藤原実頼)・大納言(藤原師輔)・右金吾・宰相二人を召した。御前において管弦の演奏があった。禄を賜った。(『貞信公記抄』)
3月10日 桓武天皇皇后国忌
天慶十年(947)3月10日乙未、桓武天皇皇后藤原乙牟漏の国忌により、廃務であった。(『日本紀略』)
3月17日 桓武天皇国忌
天慶十年(947)3月17日壬寅、桓武天皇の国忌であった。(『日本紀略』)
3月20日 朱雀上皇の御禊
天慶十年(947)3月20日乙巳、朱雀上皇は桂川にお出かけになり、御禊を修した。その後、栽松院嵯峨野にお出かけになった。(『日本紀略』)
3月21日 仁明天皇国忌/季御読経
天慶十年(947)3月21日丙午、仁明天皇の国忌により廃務であった。この日、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月24日 結願
天慶十年(947)3月24日己酉、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
4月
4月1日 旬
天慶十年(947)4月1日丙寅、村上天皇が紫宸殿にお出ましになり、旬のことがあった。大臣(藤原実頼)は参らなかった。大納言藤原師輔が官奏を候した。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
天慶十年(947)4月4日己未、広瀬・龍田祭が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
4月5日 平野祭
天慶十年(947)4月5日庚申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
天慶十年(947)4月7日壬戌、右大臣藤原実頼は擬階奏文を奏した。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
天慶十年(947)4月8日癸亥、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月10日 盗人
天慶十年(947)4月10日乙丑、盗人が兵庫寮に侵入した。盗失物を調べたところ、数点あった。(『日本紀略』)
4月13日 法性寺僧房焼亡
天慶十年(947)4月13日戊辰、法性寺北野僧房一字が焼亡した。(『日本紀略』)
4月15日 朱雀院行幸
天慶十年(947)4月15日庚午、村上天皇は朱雀院にお出かけになった。太皇太后藤原穏子のご病気によるものである。皇輦が宮中を出る間、雨が止まなかった。夜になってお帰りになった。(『日本紀略』)
4月16日 賀茂祭の警固
天慶十年(947)4月16日辛未、賀茂祭の警固召仰があった。(『日本紀略』)
4月18日 賀茂祭
天慶十年(947)4月18日癸酉、賀茂祭が行われた。中納言藤原元方が斎院に著し行った。(『日本紀略』)
4月22日 改元
天慶十年(947)4月22日丁丑、詔によって天慶十年から天暦元年へ改元が行われた。(『日本紀略』)
他の年表を見る
年表一覧
朱雀天皇時代
参考平安時代の年表―朱雀天皇時代(天慶年間)
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村上天皇時代
参考平安時代の年表―村上天皇時代に起きた出来事(天徳年間)
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参考平安時代の年表―村上天皇時代に起きた出来事②(応和年間)
平安時代の年表:村上天皇の御代、応和元年(961)2月16日から応和四年(964)7月10日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。 村上 ...
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平安時代の年表:冷泉天皇の御代、康保四年(967)5月25日から安和二年(969)8月13日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。 冷泉 ...
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花山天皇時代
参考平安時代の年表―花山天皇時代
平安時代の年表:花山天皇の御代、永観二年(984)8月27日から寛和二年(986)6月23日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。 花山 ...
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