平安時代の年表:村上天皇の御代、応和元年(961)2月16日から応和四年(964)7月10日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
村上天皇時代の年表(応和)
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応和元年(961)
2月
2月16日 改元/大赦/内裏殿舎の柱立
応和元年(961)2月16日庚辰、詔により、天徳五年から応和元年に改元が行われた。皇居における火災(天徳四年9月23日)ならびに辛酉革命の御慎みによるものである。大赦があった。(『日本紀略』)文章博士兼大内記藤原後生が詔書を作成した。右中弁兼大学頭文章博士菅原文時が元号を選んだ。(『改元部類』)
また、内裏殿舎の柱が立てられた。(『日本紀略』)
2月27日 彗星
応和元年(961)2月27日辛卯、酉の刻、坤の方角に野火の気のような彗星が見られた。(『扶桑略記』)
3月
3月2日 直物
応和元年(961)3月2日乙未、直物があった。(『日本紀略』)
3月3日 御燈/曲水宴
応和元年(961)3月3日丙申、御燈のため廃務であった。御遊があった。詩題は「花水落桃源」。(『日本紀略』)王卿・侍臣が詩を献じた。(『北山抄』)
3月13日 射礼
応和元年(961)3月13日丙午、建礼門において射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月14日 賭弓
応和元年(961)3月14日丁未、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
3月20日 殿上賭弓
応和元年(961)3月20日癸丑、村上天皇は射場殿にお出ましになり、左右近衛官人以下東宮帯刀以上を召して賭弓を行わせた。(『日本紀略』)左右近衛は各6人、帯刀は10人であった。(『西宮記』)
3月23日 除目
応和元年(961)3月23日丙辰、除目が始められた。(『日本紀略』)
3月25日 季御読経
応和元年(961)3月25日戊午、季御読経が始められた。(『西宮記』)
3月28日 結願
応和元年(961)3月28日辛酉、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月28日 小野道風が内裏殿舎諸門の額を書く
応和元年(961)3月28日辛酉、内蔵権頭小野道風が殿上において承明門の額を書いた。この日から、内裏殿舎諸門の額を書くことになった。(『扶桑略記』)
5月14日 諸門の額を書き終える
応和元年(961)5月14日丙子、小野道風は内裏殿舎の諸門の額を書き終えた。ただし、紫宸殿・仁寿殿・安福殿・清涼殿の四ヶ所を除く。旧い額があったことによる。道風は禄を賜った。下襲・表袴である。(『扶桑略記』)
3月30日 曳網御覧
応和元年(961)3月30日癸亥、村上天皇は釣殿において曳網をご覧になった。(『河海抄』)
閏3月
閏3月1日 官奏
応和元年(961)閏3月1日甲子、右大臣藤原顕忠が官奏に候した。(『西宮記』)
閏3月7日 宇佐使発遣
応和元年(961)閏3月7日庚午、宇佐宮香椎廟において神宝を奉った。去年の内裏焼亡ならびに天変革命によるものである。左少将源伊陟が使者を務めた。(『日本紀略』)
閏3月11日 藤花宴
応和元年(961)閏3月11日甲戌、村上天皇は釣殿において藤花宴を行った。船の上で音楽の演奏があった。(『日本紀略』)竜頭鷁首の船が各一艘で、童舞があった。藤原実頼が箏を弾き、源高明が琵琶を弾き、源雅信が笙を吹いた。それぞれ御衣を賜った。(『扶桑略記』)
閏3月17日 直物/小除目
応和元年(961)閏3月17日庚辰、直物・小除目が行われた。(『日本紀略』)
閏3月22日 宇佐使御卜
応和元年(961)閏3月22日乙酉、宇佐使源伊陟が備後国において発病したので、改めて宇佐使を定めることになった。神祇官・陰陽寮(天文博士賀茂保憲)が御卜を行い、平時経が務めることになった。(『西宮記』『北山抄』)
閏3月27日 臨時御読経
応和元年(961)閏3月27日庚寅、御殿において御読経が行われた。(『日本紀略』)
閏3月27日 結願
応和元年(961)閏3月27日癸巳、臨時御読経が結願した。(『日本紀略』)
4月
4月1日 日食
応和元年(961)4月1日癸巳、日食があった。廃務になった。(『日本紀略』)
4月2日 旬平座
応和元年(961)4月2日甲午、旬平座が行われた。大納言藤原在衡・参議好古らが侍従殿に参入した。(『西宮記』)村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。昨日の日食と有明親王の薨去による。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
応和元年(961)4月7日己亥、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
応和元年(961)4月8日庚子、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月13日 山科祭
応和元年(961)4月13日乙巳、山科祭が行われた。前の巳の日は有明深奥の錫紵の期間に当たっていたので、この日に延期されていた。(『西宮記』)
4月14日 斎院御禊
応和元年(961)4月14日丙午、賀茂祭の斎院御禊が行われた。(『日本紀略』)
4月15日 警固
応和元年(961)4月15日丁未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月17日 賀茂祭
応和元年(961)4月17日己酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
4月18日 解陣
応和元年(961)4月18日庚戌、解陣が行われた。(『日本紀略』)
4月23日 読経
応和元年(961)4月23日乙卯、勅により、天下の疫疾を患っている者がたくさんいるので、五畿七道諸国に官符を給わり災いを除くための奉幣・転経・祈祷を行わせた。また、七大寺及び諸寺にも同様に疫病を止めるための転経・祈祷を行わせた。(『扶桑略記』)
4月25日 除目
応和元年(961)4月25日丁巳、除目が行われた。(『日本紀略』)
5月
5月6日 競渡御覧
応和元年(961)5月6日戊辰、村上天皇は釣殿にお出ましになり、侍臣に競渡をさせた。(『日本紀略』)
5月10日 盗人
応和元年(961)5月10日壬申の夜、強盗が前武蔵権守源満仲の邸宅に侵入した。満仲は類人倉橋弘重を射留めた。弘重、中務卿親王(式明親王)の第二男(親繁王)及び宮内丞中臣良材、土佐権守蕃基男らの所為であると指し申した。検非違使左衛門尉志錦文明が参内してこのことを奏聞した。中務卿親王の家人は「件の孫王(親繁王)は日頃から重く痢病を患っており、家におりました。起き上がることができないので、体調がよくなったら身柄を差し出します」と申した。宣旨により使の官人らに同類の輩を捜索させたが、とうとう捕えることはできなかった。親王家において紀近輔を捕えた。近輔は「親繁王が首領として満仲の家に侵入したのは事実です。臓物はかの親繁王のもとにあります」と申した。「男を差し出さないことにより、親王を罪科に処す。引き続き親繁王の外出を伺い、捉えよ」との勅が下された。(『扶桑略記』)
『古事談』では天徳四年(960)5月10日の出来事とされている。また、紀近輔を捕えたのは成子内親王の邸内となっている。
5月22日 雷鳴
応和元年(961)5月22日甲申、暴風と雷鳴により、右京で童一人が落命した。(『扶桑略記』)
6月
6月3日 皇后遷御
応和元年(961)6月3日乙未、皇后藤原安子は東院から冷泉院へお移りになった。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食/祈雨奉幣
応和元年(961)6月11日癸卯、月次祭・神今食が行われた。村上天皇は神祇官にお出ましになった。
この日、祈雨のために諸社奉幣使を発遣することになり、伊勢使が定められた。(『日本紀略』)
6月12日 祈雨
応和元年(961)6月12日甲辰、祈雨のため石清水以下15社(賀茂・松尾・稲荷・平野・大原野・春日・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉・丹生・貴船)に諸社奉幣使が発遣された。夜になって雨が降った。(『祈雨記』)
6月13日 雷鳴・降雨
応和元年(961)6月13日乙巳、未の刻に雷鳴・降雨があった。(『扶桑略記』)
6月14日 納涼
応和元年(961)6月14日丙午、晩頭の釣殿で納涼があった。雲雨を起こすために侍臣が舟に乗って舟乱聲を奏したが、晴れており陰気はなかった。(『祈雨記』)
6月15日 祈雨
応和元年(961)6月15日丁未、諸社奉幣を行った後も未だに快雨はない。例によって、七大寺僧が東大寺大仏殿において祈雨の読経を行うことになった。源延光は陰陽寮に東大寺祈雨御読経の日時を勘申させた。申して曰く「天暦十年は六ヶ寺及び新薬師寺の僧がこれを修しました。経名は初見がありません。天暦十年の例によって19日に修し始めるべきです。六大寺・新薬師寺の僧は共に大仏殿に向かい五日間修するべきです」ということだった。また、先例の読経名を勘申させた。(『祈雨記』)
6月17日 祈雨読経
応和元年(961)6月17日己酉、大和室生龍穴が19日から祈雨読経を行うことになった。(『祈雨記』)
6月21日 御卜
応和元年(961)6月21日癸丑、神祇官・陰陽寮は干ばつの祟りについて御卜を行った。(『祈雨記』)
6月25日 祈雨読経
応和元年(961)6月25日丁巳、大極殿において祈雨読経が修された。28日に結願した。(『日本紀略』)
6月28日 五龍祭
応和元年(961)6月28日庚申、陰陽寮は五龍祭を奉仕した。(『日本紀略』)
6月29日 降雨
応和元年(961)6月29日辛酉、雨が降った。御読経の効果が見られた。(『日本紀略』)
6月20日 広瀬・龍田祭
応和元年(961)6月20日壬子、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
6月28日 霊剣鋳造の祈祷
応和元年(961)6月28日、天文博士賀茂保憲は神護寺において三方五帝祭を務めた。これは、霊剣を鋳造するための祈祷である。備前国鍛治白根安生が鋳造して進めた。焼け失せた代わりに新造したのだ。(『塵袋』)
参考天徳四年の内裏焼亡と安倍晴明の霊剣鋳造
天徳四年(960)、内裏で大火事があり宝物として安置されていた御剣が消失した。陰陽寮の太一式盤も焼失した。天徳四年は安倍晴明が初めて史料に登場した年。この年、晴明は40歳になる。翌年に神護寺で五帝祭が ...
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7月
7月3日 小除目
応和元年(961)7月3日甲子、小除目が行われた。(『日本紀略』)
7月4日 広瀬・龍田祭
応和元年(961)7月4日乙丑、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月8日 降雨
応和元年(961)7月8日己見、雨が降った。(『祈雨記』)
7月9日 降雨
応和元年(961)7月9日庚午、雨が降った。(『祈雨記』)
7月12日 降雨
応和元年(961)7月12日癸酉、雨が降った。(『祈雨記』)
7月13日 降雨/止雨奉幣
応和元年(961)7月13日甲戌、雨が降った。藤原国光が右大臣藤原顕忠に仰せて曰く、頻りに雨が降っているので丹生・貴船両社に止雨奉幣を行うことになった。(『祈雨記』)
7月17日 降雨
応和元年(961)7月17日戊寅、雨が降った。民部卿藤原在衡が雅材に申して曰く、明日止雨奉幣使を発遣するとのことだった。(『祈雨記』)
7月18日 止雨奉幣
応和元年(961)7月18日己卯、丹生・貴船両社に止雨奉幣が行われた。(『日本紀略』)
7月23日 祈晴雑事の勘申
応和元年(961)7月23日甲申、終日雨が降っていた。霖雨の祟りがあるのではないかということになり、祈晴雑事の例の勘申が行われた。(『東大寺要録』)
7月26日 止雨奉幣
応和元年(961)7月26日丁亥、伊勢大神宮以下16社に止雨奉幣が行われた。(『日本紀略』)
8月24日 山科陵使を発遣
応和元年(961)8月24日乙卯、霖雨により山科陵使が発遣された。(『日本紀略』)
7月13日 小除目/直物
応和元年(961)7月13日甲戌、小除目・直物が行われた。(『日本紀略』)
7月27日 相撲召合
応和元年(961)7月27日戊子、相撲召合があった。ただし、雨儀であった。(『日本紀略』)
7月28日 相撲召合
応和元年(961)7月28日己丑、雨が降った。相撲召合であった。(『日本紀略』)
7月29日 追相撲の延期
応和元年(961)7月29日庚寅、村上天皇の御物忌により追相撲は延期となった。(『日本紀略』)
8月1日 追相撲
応和元年(961)8月1日壬辰、雨が降った。追相撲であった。(『日本紀略』)
8月
8月6日 釋奠
応和元年(961)8月6日丁酉、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月7日 内論議
応和元年(961)8月7日戊戌、内論議が行われた。(『日本紀略』)
8月7日 小除目
応和元年(961)8月7日戊戌、小除目があった。(『日本紀略』)
8月9日 季御読経
応和元年(961)8月9日庚子、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月12日 結願
応和元年(961)8月12日癸卯、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月13日 定考/石清水放生会試楽
応和元年(961)8月13日甲辰、定考が行われた。
この日、中宮藤原安子は南庭で音楽を調えた。石清水宮の試楽である。(『日本紀略』)
8月14日 龍穴神に正四位下を授ける
応和元年(961)8月14日乙巳、大和国従四位下室生龍穴神に正四位下を授けた。(『日本紀略』)
8月17日 神位記請印
応和元年(961)8月17日戊申、室生龍穴神の神位記請印が行われた。(『日本紀略』)
8月15日 石清水放生会
応和元年(961)8月15日丙午、中宮藤原安子は音楽・走馬を石清水放生会に奉った。(『日本紀略』)
右馬寮の頭・助は病を申して参らなかった。(『西宮記』)
8月16日 守平親王御着袴の儀
応和元年(961)8月16日丁未、守平親王の御着袴の儀があった。村上天皇がお出ましになった。管弦の演奏があった。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈
応和元年(961)9月3日甲子、御燈があった。(『日本紀略』)
9月11日 伊勢例幣の延期
応和元年(961)9月11日壬申、左近衛陣の触穢により、伊勢例幣は延期となった。(『日本紀略』)
9月23日 伊勢例幣使発遣
応和元年(961)9月23日甲申、伊勢例幣使が発遣された。村上天皇は小安殿にお出かけになった。(『日本紀略』)
9月19日 仁王経転読
応和元年(961)9月19日庚辰、新造内裏綾綺殿において十口の名僧が仁王経・天地八陽経・理趣般若経の転読を行った。(『日本紀略』)
10月
10月1日 旬平座
応和元年(961)10月1日辛卯、旬平座が行われた。(『日本紀略』)
10月2日 五節舞姫献上
応和元年(961)10月2日壬辰、中納言藤原師氏が五節の舞姫を献上した。(『西宮記』)
10月13日 火災祭/小除目
応和元年(961)10月13日癸卯、内裏において火災祭が行われた。また、小除目が行われた。(『日本紀略』)
10月14日 諸社奉幣使発遣
応和元年(961)10月14日甲辰、伊勢大神宮以下11社に諸社奉幣使が発見された。村上天皇は小安殿にお出かけになった。(『日本紀略』)
10月18日 大祓
応和元年(961)10月18日戊申、建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
10月26日 陰陽寮が版位造進の日時を勘申する
応和元年(961)10月26日丙辰、大納言藤原在衡、参議好古が左近陣座に著し、陰陽頭秦宿禰具瞻・権允文道を召して版位造進の日時を勘申させた。(『園太暦』)
11月
11月1日 御暦奏
応和元年(961)11月1日辛酉、村上天皇は御物忌により紫宸殿にお出ましにならなかった。陰陽寮は明年の暦を内侍所に奏した。(『西宮記』)
11月5日 直物
応和元年(961)11月5日乙丑、直物が行われた。(『日本紀略』)
11月7日 初雪
応和元年(961)11月7日丁卯の朝、初雪が降った。殿上の侍臣が諸陣・帯刀陣に遣わされた。(『西宮記』)
11月9日 触穢
応和元年(961)11月9日己巳、内裏において犬の死穢があった。(『日本紀略』)
11月10日 平野祭・春日祭の延期
応和元年(961)11月10日庚午、犬の死穢により平野祭・春日祭が延期となった。(『日本紀略』)
11月16日 平野祭
応和元年(961)11月16日丙子、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月23日 春日祭使発遣
応和元年(961)11月23日癸未、春日祭使右少将藤原高光が参入し、内侍所に発向の由を申した。(『西宮記』)
11月14日 官奏
応和元年(961)11月14日甲戌、官奏が行われた。(『日本紀略』)
11月16日 大原野祭
応和元年(961)11月16日丙子、左大臣藤原実頼は太宰府の貢綿を祭庭積に充てた。(『北山抄』)
11月17日 園・韓神祭
応和元年(961)11月17日丁丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
11月18日 鎮魂祭・中宮鎮魂祭/五節舞姫御前試
応和元年(961)11月18日戊寅、鎮魂祭・中宮(藤原安子)鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
この日の朝は御物忌であった。中殿南廂において五節試があった。亥の刻に舞姫が参上した。次いで、歌人が召された。丑の刻に及んで退出した。舞姫も退出した。(『西宮記』)
11月19日 新嘗祭
応和元年(961)11月19日己卯、新嘗祭が行われた。(『西宮記』)
11月20日 豊明節会/新造内裏遷御
応和元年(961)11月20日庚辰、豊明節会が行われた。村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。
亥二刻、村上天皇は冷泉院から新造内裏にお移りになった。(『日本紀略』)
11月22日 政始/紫宸殿の版位紛失
応和元年(961)11月22日壬午、政始であった。この日、左大臣藤原実頼は初めて輦車に乗って参内した。去年10月2日に宣旨を蒙っていた。春華門前下において左仗座に著し、諸卿も参った。饗膳があった。(『日本紀略』)
酉の刻、左近将監尾張安居が紫宸殿の版位を置いた。去る20日に遷御なさった夜に中務丞がこれを置いたが紛失してしまったので、改めて作らせた。(『日本紀略』)
11月23日 賀茂臨時祭試楽
応和元年(961)11月23日癸未、酉の刻に東庭において賀茂臨時祭試楽が行われた。公卿は酒肴を賜り、管弦の演奏があった。数曲演奏した後、公卿は禄を賜った。(『西宮記』)
11月25日 賀茂臨時祭
応和元年(961)11月25日乙酉、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
12月
12月1日 新所旬
応和元年(961)12月1日庚寅、村上天皇は初めて紫宸殿にお出ましになった。承明門を開け、官奏があった。音楽と御遊があった。(『日本紀略』)
12月2日 叙位
応和元年(961)12月2日辛卯、叙位があった。大納言藤原在衡らに内裏造営の功績を賞した。(『日本紀略』)
12月5日 藤原高光 出家
応和元年(961)12月5日甲午、右近衛少将従五位上藤原高光が出家した。(『多武峯略記』)
多武峰の少将(高光)が出家したときは様々なことがあった。中でも、村上天皇がお手紙を遣わしたことは少将の心も乱れただろうと噂された。天皇からの御製には「都より雲の上まで山の井の横河の水はすみよかるらん(雲の上までそびえる山の井から流れてくる横河の水は澄み渡っているが、そなたにとっても住み心地がよいだろう)」とあった。そのご返歌は「九重のうちのみつねに恋しくて雲の八重立つ山は住み憂し(私は出家した身でありながらも、常に都を恋しく思っております。雲が幾重にも立ち込める山は住みづらいものです)」であった。少将は、最初は横河に住んでいたが、その後多武峰に移ったという(『大鏡』)
12月10日 御体御卜奏
応和元年(961)12月10日己亥、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食
応和元年(961)12月11日庚子、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
12月13日 元日擬侍従
応和元年(961)12月13日壬寅、大納言藤原在衡は元日侍従を定めた。(『西宮記』)
12月14日 大神祭/臨時除目
応和元年(961)12月14日癸卯、大神祭が行われた。また、臨時除目が行われた。(『日本紀略』)
12月17日 中宮・東宮新造内裏遷御/昌子内親王御着裳の儀
応和元年(961)12月17日丙午、中宮(藤原安子)、東宮(憲平親王)が新造内裏にお移りになった。
昌子内親王が承香殿において御着裳の儀を行った。村上天皇は三品の位記を給わった。侍臣による管弦の演奏があった。(『日本紀略』)
12月21日 荷前
応和元年(961)12月21日庚戌、荷前使が発遣された。(『日本紀略』)
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応和二年(962)
1月
1月1日 東宮参観
応和二年(962)1月1日庚申、朝賀はなかった。憲平親王の参観があった。(『日本紀略』)
1月2日 中宮大饗
応和二年(962)1月2日辛酉、中宮(藤原安子)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月3日 東宮大饗
応和二年(962)1月3日壬戌、東宮(憲平親王)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月6日 叙位
応和二年(962)1月6日乙丑、叙位の儀があった。(『日本紀略』)
1月7日 節会
応和二年(962)1月7日丙寅、節会があった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会/女叙位
応和二年(962)1月8日丁卯、御斎会が始められた。また、女叙位があった。(『日本紀略』)
1月14日 結願
応和二年(962)1月14日癸酉、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月10日 左大臣大饗
応和二年(962)1月10日己巳、左大臣(藤原実頼)の大饗があった。(『日本紀略』)例年通りであった。管弦の演奏があった。尊者右大臣藤原顕忠は妹の喪により軽服を著した。(『西宮記』)
1月15日 右大臣大饗
応和二年(962)1月15日甲戌、右大臣(藤原顕忠)の大饗があった。(『日本紀略』)
1月19日 除目
応和二年(962)1月19日戊寅、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月3日 大原野祭
応和二年(962)2月3日辛卯、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月4日 祈年祭
応和二年(962)2月4日壬辰、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月8日 春日祭
応和二年(962)2月8日丙申、春日祭が行われた。(『西宮記』)
2月9日 釋奠
応和二年(962)2月9日丁酉、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月10日 直物
応和二年(962)2月10日戊戌、直物が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見
応和二年(962)2月11日己亥、列見があった。(『日本紀略』)
2月13日 園・韓神祭
応和二年(962)2月13日辛丑、園・韓神祭が行われた。内侍が候していなかったので、女史が内侍の代わりを務めた。(『西宮記』)
2月19日 封事
応和二年(962)2月19日丁未、封事を定めた。(『日本紀略』)
2月21日 内宴
応和二年(962)2月21日己酉、内宴が行われた。詩題は「風柳散軽糸」。(『日本紀略』)
2月28日 平野・春日奉幣
応和二年(962)2月28日丙辰、平野・春日両社に奉幣を行った。平野使は右近中将藤原元輔、春日使は散位藤原惟賢が務めた。件の惟賢は前日に定められた。藤原助信が急に障りを申したからである。(『日本紀略』)
3月
3月3日 曲水宴
応和二年(962)3月3日庚申、村上天皇は侍臣に詩を献じさせた。詩題は「仙桃来岸開」。(『日本紀略』)中宮藤原安子が女装束の絹を侍臣に給わった。(『西宮記』)
3月5日 封事
応和二年(962)3月5日壬戌、封事を定めた。(『日本紀略』)
3月14日 射礼
応和二年(962)3月14日辛未、建礼門において射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月15日 賭弓
応和二年(962)3月15日壬申、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
3月16日 季御読経
応和二年(962)3月16日癸酉、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月19日 結願
応和二年(962)3月19日丙子、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
3月21日 革令勘文
応和二年(962)3月21日戊寅、算博士小槻糸平が革令勘文を上った。(『応和四年甲子革令勘文』)
3月22日 宇佐神宝使発遣
応和二年(962)3月22日己卯、宇佐神宝使が発遣された。(『日本紀略』)
3月25日 臨時仁王会
応和二年(962)3月25日壬午、臨時仁王会が行われた。(『日本紀略』)
3月28日 殿上賭弓
応和二年(962)3月28日乙酉、殿上賭弓が行われた。(『西宮記』)
4月
4月1日 旬平座
応和二年(962)4月1日戊戌、村上天皇は御物忌により、紫宸殿の旬平座にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
応和二年(962)4月4日辛卯、広瀬・龍田祭が行われた。よって、廃務であった。(『日本紀略』)
4月6日 山科祭
応和二年(962)4月6日癸巳、山科祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
応和二年(962)4月7日甲午、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
応和二年(962)4月8日乙未、灌仏が行われた。(『日本紀略』)
4月9日 平野祭
応和二年(962)4月9日丙申、平野祭が行われた。(『日本紀略』)
4月11日 賦詩
応和二年(962)4月11日戊戌、村上天皇は侍臣に詩を作らせた。詩題は「夢吐白鳳詩」。
4月13日 天文密奏
応和二年(962)4月13日庚子、「12日の戌の刻に月と歳星が同宿していた」との天文密奏があった。(『日本紀略』)
4月19日 官奏/斎院御禊
応和二年(962)4月19日丙午、午の刻に右大臣藤原顕忠が参上し、官奏が行われた。(『西宮記』)
また、賀茂祭の斎院(婉子内親王)の御禊が行われた。(『日本紀略』)
4月20日 警固
応和二年(962)4月20日丁未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月22日 賀茂祭
応和二年(962)4月22日己酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
4月20日 五月節の停止
応和二年(962)4月20日丁未、仰せによって五月節が停止となった。(『日本紀略』)
4月25日 保子内親王御着裳の儀
応和二年(962)4月25日壬子、内裏において保子内親王の御着裳の儀が行われた。(『日本紀略』)
4月28日 直物/蹴鞠
応和二年(962)4月28日乙卯、直物が行われた。
また、仁寿殿において侍臣が蹴鞠を行った。昌子内親王は禄として侍臣に汗巾を給わった。(『西宮記』)
5月
5月4日 内裏歌合
応和二年(962)5月4日庚申の夜、男房と女房の和歌が献じられた。男方が負けた。(『日本紀略』)
5月3日 菖蒲興
応和二年(962)5月3日辛酉、諸衛が菖蒲興を献じた。(『日本紀略』)
5月5日 典薬寮が菖蒲興を献上
応和二年(962)5月5日辛酉、典薬寮が菖蒲興を献じた。(『日本紀略』)
5月12日 賦詩
応和二年(962)5月12日戊辰、村上天皇は侍臣に詩を作らせた。詩題は「五月水聲寒」。(『日本紀略』)
5月16日 藤原兼家が兵部大輔に任ぜられる
応和二年(962)5月16日壬申、従三位藤原兼家が兵部大輔に任ぜられた。(『公卿補任』)
5月26日 怪異
応和二年(962)5月26日壬午、僧百口が大極殿において読経を行った。大極殿で頻りに怪異があったことによる。(『日本紀略』)
5月29日 洪水/臨時御読経
応和二年(962)5月29日乙酉、洪水により、鴨川堤が破壊された。この日、臨時御読経が行われた。(『日本紀略』)
6月
6月10日 御体御卜奏
応和二年(962)6月10日丙申、御体御卜奏が行われた。(『類聚苻宣抄』)
6月11日 月次祭・神今食/止雨奉幣
応和二年(962)6月11日丁酉、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)村上天皇は御物忌であったが、大神宮を遥拝なさった。(『西宮記』)
伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・大和・石上・広瀬・龍田・住吉・丹生・貴船の16社に奉幣を行い、霖雨を止めるよう祈願が行われた。(『日本紀略』)
6月17日 田邑山陵使発遣
応和二年(962)6月17日癸卯、田邑山陵使が発遣された。霖雨の祟りによる。(『日本紀略』)
6月18日 仁王経転読
応和二年(962)6月18日甲辰、僧四十口が清涼殿において仁王経の転読を行った。物の怪の祟りを消し去るためである。(『日本紀略』)
6月19日 雷鳴
応和二年(962)6月19日乙巳、雷鳴が一度鳴った。侍臣が「右兵衛府の辺りに雷が落ちました」と申した。(『日本紀略』)
6月21日 季御読経
応和二年(962)6月21日丁未、季御読経が行われた。(『日本紀略』)
6月24日 天文密奏
応和二年(962)6月24日庚戌、「去る21日に歳星が亢星を犯しました」との天文密奏があった。(『日本紀略』)
6月25日 火災
応和二年(962)6月25日辛亥の夜、左近衛府長倉一字及び曹司屋で火災があった。(『日本紀略』)
7月
7月1日 旬平座
応和二年(962)7月1日丙辰、旬平座であった。村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
7月4日 広瀬・龍田祭
応和二年(962)7月4日己未、広瀬・龍田祭が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
7月7日 乞巧奠
応和二年(962)7月7日壬戌、触穢期間であったが、乞巧奠は行われた。(『江次第』)村上天皇は侍臣に詩を作らせた。詩題は「織女渡天河」。(『日本紀略』)
また、致平親王が小弓負態を供ぜられた。天皇が殿上にお出ましになり、公卿が候した。禄を給わった。(『西宮記』)
7月10日 天文密奏
応和二年(962)7月10日乙丑、天文博士賀茂保憲、助教以忠が「9日に月が心前星を犯しました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)
8月4日 天文密奏
応和二年(962)8月4日己丑、天文博士賀茂保憲は「7月30日に黒雲気一条、広さ三尺程で坤の方角から艮の方角へ渡っておりました。戌の刻に消えていきました。また、戌の刻に鎮星が守星を犯す天変がありました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)
7月27日 相撲内取
応和二年(962)7月27日壬午、仁寿殿において左右の相撲内取があった。(『日本紀略』)
7月28日 相撲召合
応和二年(962)7月28日癸未、相撲召合が行われた。(『日本紀略』)
7月29日 相撲御覧
応和二年(962)7月29日甲申、相撲御覧があった。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
8月
8月2日 釋奠
応和二年(962)8月2日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月3日 内論議
応和二年(962)8月3日戊子、内論議が行われた。博士に禄を給わった。(『日本紀略』)
8月7日 小除目
応和二年(962)8月7日壬辰、小除目が行われた。(『日本紀略』)
8月11日 定考
応和二年(962)8月11日丙申、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月13日 賦詩
応和二年(962)8月13日戊辰、村上天皇は侍臣に詩を作らせた。詩題は「秋色寄高樹」。
8月17日 季御読経
応和二年(962)8月17日季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月20日 結願
応和二年(962)8月20日乙巳、季御読経が結願した。(『日本紀略』)
8月18日 賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝する
応和二年(962)8月18日癸卯、天文博士賀茂保憲が補多楽堂の地を鎮謝した。(『日本紀略』)
8月20日 内裏歌合負態
応和二年(962)8月20日乙巳、殿上侍臣が和歌負態を設けた。去る5月の庚申の夜、男房と女房が和歌を詠みあったが、男方が負けたことによる。(『日本紀略』)
8月22日 触穢
応和二年(962)8月22日丁未、内裏で触穢があった。穢の札を陣に立てた。伊勢大神宮遷宮が触穢によって延期された例はあるか、大外記傅説に勘申させた。天慶六年の大神宮遷宮、同八年豊受宮遷宮の例が出された。(『日本紀略』)
8月30日 大風雨
応和二年(962)8月30日乙卯、激しい風が吹き、雨が降った。大和・近江などの国の官舎及び神社仏寺が損壊した。東大寺の扉三間、力士、大門など、弘福寺維摩堂一字、幢一基、新薬師寺七仏薬師堂一字ならびに敷字雑舎、西大寺食堂一字、調寺講堂一字及びその他の諸寺ならびに人家などが多数顛倒した。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈の停止
応和二年(962)9月3日戊午、内裏の触穢によって御祓が行われた。御燈は奉らなかった。(『日本紀略』)
9月11日 伊勢例幣の延期
応和二年(962)9月11日丙寅、内裏の触穢により伊勢例幣が延期となった。よって、建礼門において大祓を修した。(『日本紀略』)
9月21日 御修法
応和二年(962)9月21日丙子、中宮藤原安子が19日から体調がすぐれないため、常寧殿において御修法が行われた。(『延喜天暦御記抄』)
9月24日 天文密奏
応和二年(962)9月24日己卯、助教十市以忠は「去る23日の夜明け、月が軒轅夫人を犯しました」と天文密奏を行った。(『日本紀略』)
10月
10月5日 残菊宴
応和二年(962)10月5日己丑、残菊宴が行われた。(『日本紀略』)
10月7日 藤原実頼、大原野社参詣
応和二年(962)10月7日神戸卯、左大臣藤原実頼が大原野社に参詣し東庭を奉った。(『日本紀略』)
10月20日 職曹司移御
応和二年(962)10月20日甲辰、中宮藤原安子が弘徽殿から職曹司へお移りになった。(『日本紀略』)
11月
11月6日 春日祭・平野祭
応和二年(962)11月6日庚申、春日祭・平野祭があった。(『日本紀略』)
11月12日 鎮魂祭・中宮鎮魂祭/五節御前試
応和二年(962)11月12日丙寅、鎮魂祭・中宮鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
夜、五節試が行われた。村上天皇の御物忌により、大歌人は内に籠もった。(『江次第』)
11月13日 新嘗祭
応和二年(962)11月13日丁卯、神祇官において新嘗祭が行われた。物忌によって親祭はなかった。(『西宮記』)
11月14日 豊明節会
応和二年(962)11月14日戊辰、豊明節会が行われた。(『日本紀略』)
11月15日 東宮鎮魂祭の延期
応和二年(962)11月15日己巳、東宮(憲平親王)鎮魂祭が延期となった。桂芳坊で犬の死穢があったことによる。(『日本紀略』)
11月27日 東宮鎮魂祭
応和二年(962)11月27日辛巳、宮内省において東宮鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月16日 直物
応和二年(962)11月16日庚午、小除目が行われた。(『日本紀略』)
11月19日 直物
応和二年(962)11月19日癸酉、直物が行われた。(『日本紀略』)
11月18日 仁寿殿観音供の停止
応和二年(962)11月18日壬申、この日は観音供を行わなかった。神事の前だからである。(『延喜天暦御記抄』)
11月22日 大原野祭
応和二年(962)11月22日丙子、大原野祭があった。(『日本紀略』)
11月25日 伊勢・石清水奉幣
応和二年(962)11月25日己卯、伊勢大神宮及び石清水八幡宮へ奉幣が行われた。(『日本紀略』)
11月26日 賀茂臨時祭
応和二年(962)11月26日庚辰、賀茂臨時祭があった。(『日本紀略』)
12月
12月11日 月次祭・神今食
応和二年(962)12月11日乙未、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
12月13日 仁王経読経
応和二年(962)12月13日丁酉、天変により、清涼殿において僧二十口が仁王経を読経した。(『西宮記』)
12月19日 御仏名
応和二年(962)12月19日癸卯、御仏名が始められた。(『日本紀略』)
12月21日 結願
応和二年(962)12月21日乙巳、御仏名が結願した。(『日本紀略』)
12月22日 荷前/革令勘文
応和二年(962)12月22日丙午、荷前使が発遣された。(『日本紀略』)
この日、天文博士賀茂保憲が再来年は甲子の年であり、革令期にあたると勘申した。(『革暦之事』)
12月25日 皇女誕生
応和二年(962)12月25日己酉、酉の刻に皇后藤原安子が職曹司において皇女をお産みになった。(『日本紀略』)
12月28日 皇女薨去
応和二年(962)12月28日壬子、辰の刻、去る25日にお生まれになった皇女が薨じられた。薨奏はなかった。(『日本紀略』)
12月29日 追儺
応和二年(962)12月29日癸丑、追儺が行われた。(『北山抄』)
+ 応和三年(963)の年表を見る
応和三年(963)
1月
1月1日 四方拝/朝賀の停止
応和三年(963)1月1日甲寅、内裏の触穢期間であったが、例年通り四方拝が行われた。雨が降っていたので、朝賀は行われなかった。(『日本紀略』)
1月2日 卯杖・東宮卯杖/中宮大饗の停止/東宮大饗/堀川第遷御
応和三年(963)1月2日乙卯、卯杖が内侍所に託された。同じ時、東宮卯杖が南廊の小板敷上で行われた。(『西宮記』)
去年12月に生まれた皇女が薨じられたことにより、中宮(藤原安子)の大饗はなかった。
また、東宮(憲平親王)の大饗については、皇女が薨じられたので大饗は停止すべきか議論がなされたが、例年通り行う事になった。(『日本紀略』『西宮記』)
この日、中宮が職曹司から権大夫藤原兼通の堀川第にお移りになった。(『日本紀略』)
1月3日 東宮朝観/藤原兼家 昇殿
応和三年(963)1月3日丙辰、東宮朝観が行われた。(『西宮記』)
この日、従三位藤原兼家が昇殿を許された。(『公卿補任』)
1月5日 叙位
応和三年(963)1月5日戊午、叙位の儀が行われた。(『日本紀略』)
1月7日 節会
応和三年(963)1月7日庚申、節会が行われた。村上天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
1月8日 御斎会
応和三年(963)1月8日辛酉、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月9日 左大臣大饗
応和三年(963)1月9日壬戌、左大臣(藤原実頼)の大饗があった。精進料理が供された。音楽の演奏があった。(『日本紀略』)
1月10日 右大臣大饗
応和三年(963)1月10日癸位、右大臣(藤原顕忠)の大饗があった。音楽の演奏があった。(『日本紀略」)
1月11日 東宮御元服の日時を定める
応和三年(963)1月11日甲子、左大臣藤原実頼は憲平親王の御元服の日時を選び申した。(『西宮記』)
1月13日 仁寿殿念誦堂出御
応和三年(963)1月13日丙寅、夜になって村上天皇は仁寿殿念誦堂にお出ましになった。(『延喜天暦御記抄』)
1月16日 政始
応和三年(963)1月16日己巳、政始であった。(『日本紀略』)
1月20日 陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申する/正座移動の吉凶を占う
応和三年(963)1月20日癸酉、陰陽寮が石清水八幡宮正殿造立の日時を勘申し、正座移動の吉凶を占った。(『石清水文書』『小右記』)
1月23日 除目
応和三年(963)1月23日丙子、除目が行われた。(『日本紀略』)
2月
2月2日 藤原為光が禁色を許される/藤原兼家が雑袍を許される
応和三年(963)2月2日乙酉、蔵人右近衛少将藤原為光が禁色を許された。また、兵部大輔藤原兼家が雑袍を許された。(『元亨四年具注暦裏書』)
2月4日 祈年祭
応和三年(963)2月4日丁亥、祈年祭が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見/孔雀経法・熾盛光法
応和三年(963)2月11日甲午、列見が行われた。(『日本紀略』)
夜、仁寿殿において権僧正寛空が番僧二十口を伴い孔雀経法を修した。また、大日寺において僧正延昌が番僧二十口を伴い熾盛光法を修した。天変によるものである。七日間行われた。(『延喜天暦御記抄』)
2月14日 釋奠
応和三年(963)2月14日丁酉、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月21日 東宮御元服の習礼
応和三年(963)2月21日甲辰の夜、憲平親王が紫宸殿に参上し御元服の習礼が行われた。藤原師尹が候した。(『西宮記』)
2月22日 直物
応和三年(963)2月22日乙巳、直物が行われた。(『日本紀略』)
2月23日 内裏入御
応和三年(963)2月23日丙午、皇后藤原安子は藤原兼通の堀川宅から内裏へお入りになった。(『日本紀略』)
2月28日 東宮御元服/昌子内親王が東宮妃になる
応和三年(963)2月28日辛亥、紫宸殿において皇太子(憲平親王)の御元服の儀が行われた。村上天皇も紫宸殿にお出ましになった。左大臣藤原実頼が加冠、参議藤原朝忠が理髪を務めた。紫宸殿において宴が開かれた。
夜、故朱雀院皇女三品昌子内親王が東宮妃となった。(『日本紀略』)
3月
3月3日 御燈
応和三年(963)3月3日乙卯、御燈が行われた。(『日本紀略』)
3月8日 御製
応和三年(963)3月8日庚申、御製が行われた。(『日本紀略』)
3月13日 射礼
応和三年(963)3月13日乙丑、建礼門において射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月15日 賭弓
応和三年(963)3月15日丁卯、賭弓が行われた。(『日本紀略』)
3月19日 善秀才宅詩合
応和三年(963)3月19日、三善道統が慶滋保胤らを自宅に招き詩合を行った。
4月
4月1日 旬
応和三年(963)4月1日壬午、旬があった。酒番侍従は一人だけであった。(『西宮記』)
4月3日 平野祭・松尾祭
応和三年(963)4月3日甲申、平野祭・松尾祭が行われた。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
応和三年(963)4月4日乙酉、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
応和三年(963)4月7日戊子、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏の停止
応和三年(963)4月8日己丑、大神祭使を発遣したので、灌仏はなかった。(『日本紀略』)
4月13日 賀茂祭斎院御禊
応和三年(963)4月13日甲午、賀茂祭の斎院御禊が行われた。(『日本紀略』)
4月16日 賀茂祭
応和三年(963)4月16日丁酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)女蔵人が蔵司使に宣命を給わった。(『西宮記』)
4月21日 五月節の停止
応和三年(963)4月21日壬寅、五月節が停止されることになった。(『日本紀略』)
4月26日 御製
応和三年(963)4月26日丁未、御製があった。御題は「風雲夏景新」。(『日本紀略』)
5月
5月5日 御製
応和三年(963)5月5日丙辰、御製があった。御題は菖蒲の詩であった。(『日本紀略』)
5月14日 競馬御覧
応和三年(963)5月14日乙丑、村上天皇は朱雀院にお出ましになり、競馬をご覧になった。(『日本紀略』)
5月15日 御馬御覧
応和三年(963)5月15日丙寅、村上天皇は左馬寮の十七栗毛を東庭においてご覧になった。(『西宮記』)
6月
6月9日 諸社奉幣
応和三年(963)6月9日己丑、伊勢大神宮以下16社へ奉幣が行われた。年穀を祈るためである。ただし、伊勢奉幣使は11日に付された。そこで、今日の諸司は廃務になった。月次祭の前に奉幣が行われた例は、延長七年6月7日、天慶六年6月5日の例がある。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏
応和三年(963)6月10日庚寅、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食
応和三年(963)6月11日辛卯、月次祭があった。八省院において上卿が月次祭使を召した。去る9日に伊勢奉幣に祈年穀幣を加えられた。夜に入って村上天皇が中和院にお出ましになり、神今食が行われた。明日は御物忌だからである。子の刻にお帰りになった。(『日本紀略』)
6月19日 小除目
応和三年(963)6月19日己亥、小除目が行われた。(『日本紀略』)
6月22日 祈雨御読経
応和三年(963)6月22日壬寅、この日から三日間、大極殿において御読経が行われた。降雨を祈願するためである。(『日本紀略』)
6月24日 御読経延引
応和三年(963)6月24日甲辰、大極殿の御読経が二日間引き延ばされた。(『日本紀略』)
6月26日 雷鳴陣
応和三年(963)6月26日丙午、雷雨であった。御物忌であったが、雷鳴陣を行った。雨が晴れて、解陣が行われた。(『西宮記』)
7月
7月1日 祈雨
応和三年(963)7月1日辛亥、丹生・貴船両社に幣馬が奉られた。降雨を祈願するためである。(『祈雨記』)
7月4日 広瀬・龍田祭
応和三年(963)7月4日甲寅、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
7月5日 軒廊御卜
応和三年(963)7月5日乙卯、炎旱により神祇官と陰陽寮による軒廊御卜が行われた。(『日本紀略』)
7月9日 請雨経法
応和三年(963)7月9日己未、神泉苑において請雨経法が始められた。権律師救世が行った。番僧は二十口であった。この日から三日間、東大寺大仏殿において七大寺の僧が仁王経を転読した。(『日本紀略』)
7月10日 五龍祭の宣下
応和三年(963)7月10日庚申、炎旱が久しく続いており、人々の愁いも盛んになっている。そこで、五龍祭を行うことになった。(『祈雨記』)
7月13日 五龍祭
応和三年(963)7月13日癸亥、天文博士賀茂保憲が五龍祭を修した。(『祈雨日記』)
7月15日 諸社奉幣
応和三年(963)7月15日乙丑、八省院において伊勢大神宮以下28社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大和・石上・大神・広瀬・龍田・住吉・丹生・貴船・木嶋・乙訓・水主・火雷・平岡・恩智・広田・生田・長田・坐摩・垂水・龍穴)へ奉幣が行われた。降雨を祈願するためである。(『祈雨記』)
7月28日 臨時仁王会
応和三年(963)7月28日戊寅、この日、清涼殿において臨時仁王会が修された。炎旱及び天変・地震による。権少僧都光智が清涼殿の講師を務めた。(『祈雨記』)
7月29日 降雨
応和三年(963)7月29日己卯、酉の刻に雨が降った。(『祈雨記』)
7月14日 盂蘭盆
応和三年(963)7月14日甲子、御拝はなく、内蔵寮から遣わされた。(『権記』長保二年7月13日条、『小右記』長和二年7月3日条)
7月21日 御祓物
応和三年(963)7月21日辛未、蔵人式部丞藤原雅材が御祓物を供された。明日、天文博士賀茂保憲が難波湖及び七瀬に赴き、河臨祓を修することによる。(『河海抄』)
7月26日 相撲召合
応和三年(963)7月26日丙子、相撲召合があった。(『日本紀略』)炎旱により音楽はなかった。(『西宮記』)
7月27日 追相撲
応和三年(963)7月27日丁丑、追相撲が行われた。(『日本紀略』)
8月
8月8日 釋奠
応和三年(963)8月8日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
8月9日 内論議
応和三年(963)8月9日戊子、内論議が行われた。博士が参入した。村上天皇は御物忌のためお出ましにならなかった。禄を給わった。(『日本紀略』)
8月11日 季御読経/定考の延期
応和三年(963)8月11日庚寅、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
8月17日 定考
応和三年(963)8月17日丙申、定考が行われた。(『日本紀略』)
8月20日 廣平親王御元服の儀
応和三年(963)8月20日己亥、清涼殿において廣平親王の御元服の儀が行われた。御年14歳。三品に叙された。その後、中宮藤原安子の拝賀があった。(『日本紀略』)
8月23日 空也上人の万燈会
応和三年(963)8月23日壬寅、空也上人は鴨川原において大般若経を供養し、夜に万燈会を行った。(『日本紀略』)舞と音楽があった。(『扶桑略記』)
9月
9月3日 御燈
応和三年(963)9月3日壬子、御燈が行われた。(『日本紀略』)
9月4日 除目
応和三年(963)9月4日癸丑、除目が行われた。(『日本紀略』)
9月5日 賀茂社神殿修理
応和三年(963)9月5日甲寅、神座を斎王の住所に移し、修理を加えた。(『西宮記』)
9月11日 伊勢例幣の延期
応和三年(963)9月11日庚申、触穢により伊勢例幣が延期となった。建礼門の前で大祓があった。(『西宮記』)
10月
10月1日 旬平座
応和三年(963)10月1日己卯、旬平座であった。村上天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
10月2日 皇后御修法
応和三年(963)10月2日庚辰、中宮藤原安子が常寧殿において御修法を行った。(『延喜天暦御記抄』)
10月4日 御製
応和三年(963)10月4日壬午、御製があった。御題は、「菊花色浅深」「無風葉自飛」。(『日本紀略』)
10月7日 左大臣石清水参詣
応和三年(963)10月7日乙酉、左大臣藤原実頼は石清水八幡宮に参詣した。(『日本紀略』)
11月
11月9日 山科祭
応和三年(963)11月9日丁巳、山科祭が行われた。(『日本紀略』)
11月12日 平野祭・春日祭
応和三年(963)11月12日庚申、平野祭・春日祭が行われた。中納言藤原師氏が春日社に参った。(『日本紀略』)
11月16日 大原野祭
応和三年(963)11月16日甲子、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
11月18日 鎮魂祭/五節舞姫御前試
応和三年(963)11月18日丙寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)五節舞姫御前試が行われたが、舞姫が不足していた。(『江次第』)
11月19日 新嘗祭
応和三年(963)11月19日丁卯、新嘗祭が行われた。村上天皇が中院にお出ましになった。(『日本紀略』)
11月20日 豊明節会
応和三年(963)11月20日戊辰、豊明節会が行われた。(『日本紀略』)
11月21日 東宮鎮魂祭
応和三年(963)11月21日己巳、東宮(憲平親王)鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月25日 賀茂臨時祭
応和三年(963)11月25日癸酉、賀茂臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
12月
12月10日 御体御卜奏
応和三年(963)12月10日戊子、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食の延期
応和三年(963)12月11日己丑、月次祭・神今食が延期された。よって、大祓が行われた。(『日本紀略』)
12月14日 月次祭・神今食
応和三年(963)12月14日壬辰、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
閏12月
閏12月12日 荷前
応和三年(963)閏12月12日、荷前使が発遣された。(『日本紀略』)
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応和四年/康保元年(964)
1月
1月1日 元日節会
応和四年(964)1月1日戊寅、御忌月により紫宸殿にお出ましにならなかった。(『西宮記』)
1月2日 東宮・親王参観/為平親王 帯剣
応和四年(964)1月2日己卯、東宮(憲平親王)の参観があった。また、為平親王の拝観があった。勅により、剣を賜った。(『日本紀略』)
1月5日 叙位
応和四年(964)1月5日壬午、叙位の儀があった。左大臣藤原実頼が従一位に叙された。(『公卿補任』)
1月7日 節会
応和四年(964)1月7日甲申、節会が行われた。村上天皇は御忌月によりお出ましにならなかった。(『江次第』)
1月8日 御斎会
応和四年(964)1月8日乙酉、御斎会が始められた。(『日本紀略』)
1月14日 結願
応和四年(964)1月14日辛卯、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月23日 春日祭の延期/除目
応和四年(964)1月23日庚子、内裏の丙穢によって春日祭の日程を改めることになった。
この日、除目が始められた。(『日本紀略』)
2月
2月4日 祈年祭の延期
応和四年(964)2月4日辛亥、触穢により祈年祭が延期された。よって、八省院の東廊において大祓が行われた。(『日本紀略』)陰陽寮が日時を勘申した。(『西宮記』)
2月5日 為平親王、子の日御遊
応和四年(964)2月5日壬子、為平親王が内裏から北野へ出かけ、子の日御遊が行われた。中納言藤原師氏をはじめ大勢が付き従った。鷹・犬が供された。(『日本紀略』)
為平親王が子の日御遊をなさった当時、弟宮たちはまだ幼かったので、親王は周囲の人々から期待されていた。その日は上達部・殿上人や馬鞍も内裏に召したが、かつてないことだっだという。(『大鏡』)
2月11日 列見
応和四年(964)2月11日戊午、列見が行われた。(『日本紀略』)
2月12日 男踏歌試楽
応和四年(964)2月12日己未、男踏歌試楽があった。(『日本紀略』)
2月17日 男踏歌
応和四年(964)2月17日甲子、村上天皇は清涼殿前において男踏歌をご覧になった。(『日本紀略』)
2月18日 園・韓神祭
応和四年(964)2月18日乙丑、園・韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
2月20日 大原野祭
応和四年(964)2月20日丁卯、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
2月23日 御修法/大祓
応和四年(964)2月23日庚午、去る17日から中宮藤原安子の体調がすぐれないため、弘徽殿において四日間に渡る御修法が行われた。(『延喜天暦御記抄』)
この日、建礼門において大祓が行われた。仁王会があるからである。(『日本紀略』)
2月26日 臨時仁王会
応和四年(964)2月26日癸酉、臨時仁王会が行われた。(『日本紀略』)
2月28日 諸社奉幣
応和四年(964)2月28日乙亥、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日の七社へ奉幣が行われた。村上天皇が小安殿にお出ましになり、お帰りになった後に左衛門陣において石清水以下の諸社奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
3月
3月3日 御燈
応和四年(964)3月3日己卯、御燈が行われた。(『日本紀略』)
3月9日 陰陽寮が日本記を講じる日時を勘申する
応和四年(964)3月9日乙酉、陰陽寮は日本記を講じる日時を勘申した。4月20日乙丑、4月28日癸酉になった。(『日本紀略』)
3月13日 射礼
応和四年(964)3月13日己丑、建礼門において射礼が行われた。(『日本紀略』)
3月14日 賭弓
応和四年(964)3月14日庚寅、賭弓が行われた。村上天皇が弓場殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
3月18日 季御読経
応和四年(964)3月18日甲午、季御読経が始められた。(『日本紀略』)
3月28日 除目
応和四年(964)3月28日甲辰、除目が行われた。(『公卿補任』)
4月
4月1日 旬
応和四年(964)4月1日丙午、村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。旬があった。(『日本紀略』)
4月2日 周防正二位玉祖神に従一位を授ける
応和四年(964)4月2日丁未、周防国正二位玉祖神に従一位を授けた。(『日本紀略』)
4月3日 平野祭の延期
応和四年(964)4月3日戊申、触穢により平野祭が延期された。(『日本紀略』)
4月15日 平野祭
応和四年(964)4月15日庚申、平野祭が行われた。前回の申の日は触穢のため延期となっていた。(『日本紀略』)
4月4日 広瀬・龍田祭
応和四年(964)4月4日己酉、広瀬・龍田祭が行われた。(『日本紀略』)
4月7日 擬階奏
応和四年(964)4月7日壬子、擬階奏が行われた。(『日本紀略』)
4月8日 灌仏
応和四年(964)4月8日癸丑、灌仏が行われた。(『江次第』)
4月13日 五月節の停止
応和四年(964)4月13日戊午、来月5日の節を停止するとの宣下があった。(『日本紀略』)
4月14日 賀茂祭の警固
応和四年(964)4月14日己未、賀茂祭の警固が行われた。(『日本紀略』)
4月16日 賀茂祭
応和四年(964)4月16日辛酉、賀茂祭があった。この日、内裏で犬の死穢があった。(『日本紀略』)
4月17日 解陣
応和四年(964)4月17日壬戌、解陣があった。(『日本紀略』)
4月15日 天文密奏
応和四年(964)4月15日庚申、主税頭十市以忠が「去る14日戌の刻に月が心前星を犯しました」との天文密奏を行った。(『西宮記』)
4月24日 皇女御誕生
応和四年(964)4月24日己巳、中宮藤原安子が皇女選子をお産みになった。(『日本紀略』)
4月29日 藤原安子 崩御
応和四年(964)4月29日甲戌、中宮藤原安子が主殿寮において崩御された。享年38歳。(『日本紀略』)
皇后藤原安子は第十皇女選子を出産した際にお亡くなりになったとき、村上天皇の御嘆きは甚だしかった。(『大鏡』)
5月
5月3日 故皇后の葬官を定める
応和四年(964)5月3日戊寅の早朝、右大臣藤原顕忠らが仗座に参った。故皇后藤原安子の葬官が定められた。(『日本紀略』)
5月7日 洪水により逗留
応和四年(964)5月7日壬午、大雨が降り、洪水になった。この日、故皇后を山城国愛宕郡巽方野に火葬することになっていた。しかし、鴨川が氾濫し渡れなくなり、行き来できなくなった。(『日本紀略』)
5月8日 故皇后の葬儀
応和四年(964)5月8日癸未、去る夕方に皇后の葬送が行われたが、洪水により荘厳寺に逗留していた。今日の卯の刻に渡り奉り、巳の刻に葬儀が始められた。未の刻に終えた。(『日本紀略』)
5月7日 故皇后初七日諷誦
応和四年(964)5月7日壬子、故皇后の初七日の諷誦が修された。(『日本紀略』)
5月10日 故皇后二七日諷誦
応和四年(964)5月10日乙酉、故皇后の二七日の諷誦が修された。(『日本紀略』)
5月19日 故皇后三七日諷誦
応和四年(964)5月19日甲午、故皇后の三七日の諷誦が修された。(『日本紀略』)
6月17日 故皇后七七日御法会
応和四年(964)6月17日辛酉、法性寺において故皇后の七七日御法会が修された。(『日本紀略』)
6月
6月10日 御体御卜奏の延期
応和四年(964)6月10日甲寅、皇后崩御の穢限により御体御卜奏が延期された。(『日本紀略』)
6月15日 御体御卜奏
応和四年(964)6月15日己未、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食
応和四年(964)6月11日乙卯、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)
6月19日 皇子誕生
応和四年(964)6月19日癸亥、村上天皇の女御庄子が民部大輔源保光坊城第において皇子をお産みになった。後の具平親王である。(『日本紀略』)
6月23日 属星祭
応和四年(964)6月23日丁卯、八省院において天文博士賀茂保憲が三日三晩に渡り属星祭を修した。(『革暦類』)
6月27日 大歳祭
応和四年(964)6月27日辛未、天文博士賀茂保憲は大歳祭を修した。(『革暦類』)
6月28日 諸社奉幣
応和四年(964)6月27日壬申、伊勢大神宮以下16社へ奉幣使が発遣された。(『日本紀略』)
7月
7月7日 御読経の日時を勘申
応和四年(964)7月7日庚辰、民部卿藤原在衡が申して曰く、陰陽寮属保遠一人を召して御読経の日時を勘申させた。(『西宮記』)
7月9日 東宮、凝華舎還啓
応和四年(964)7月9日壬午の夜、東宮(憲平親王)が左近衛府から凝華舎にお帰りになった。(『日本紀略』)
7月10日 改元
応和四年(964)7月10日癸未、応和四年から康保元年へ改元が行われた。文章博士藤原後生が元号を選び申した。(『日本紀略』)