平安時代の年表:花山天皇の御代、永観二年(984)8月27日から寛和二年(986)6月23日までの出来事を年表にまとめました。通常の記録に加え、説話も追記。陰陽寮の活動は色付きで紹介しています。
花山天皇時代の年表
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永観二年(984)
8月
8月27日 譲位
永観二年(984)8月27日甲辰、堀河院において円融天皇から師貞親王への譲位の儀が行われた。
師貞親王は即位して花山天皇となった。御年十七歳であった。儀式が終わった後、新造内裏への入御が行われた。先帝は堀河院に留まった。(『日本紀略』)
この日は、同年7月28日丙子に安倍晴明が文道光とともに勘申した吉日である。勘文では「8月27日の巳の刻・未申刻」となっていた。(『小右記』)
参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
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9月
9月3日 御燈/御馬御覧
永観二年(984)9月3日庚戌、御燈のため廃務であった。(『日本紀略』)
御馬御覧があった。(『小記目録』)
9月4日 大祓
永観二年(984)9月4日辛亥、建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
9月5日 伊勢・賀茂奉幣/建礼門行幸
永観二年(984)9月5日壬子、伊勢大神宮に奉幣し、花山天皇御即位の旨を報告した。また、建礼門への行幸のことがあった。(『小記目録』)また、賀茂社へ奉幣が行われ斎院選子内親王は改めない由を報告した。賀茂使は参議藤原公季・宮内大輔源公貞らであった。(『日本紀略』)
9月8日 院印/院庁事始の延引
永観二年(984)9月8日乙卯の早朝、藤原実資は円融上皇のもとへ参った。上皇は「院印と勅旨田のことについては左府(源雅信)に問うように」と仰せになった。実資はすぐに雅信のもとに参って事情を説明した。院印は朱雀院のものを用いるべきか、勅旨田については早く官符を諸国の国司たちに請求させるようにとのことだった。
この日は院庁事始が行われる予定だったが、院印がなかったので始められなかった。仰せによって停止となった。(『小右記』)
9月9日 重陽の節句/太上天皇の尊号/壺切御剣
永観二年(984)9月9日丙辰、重用の節句が行われた。円融上皇に太上天皇の尊号が奏上された。また、右近少将藤原信輔を使者として東宮(懐仁親王)のもとに壺切御剣が授けられた。(『小右記』)
9月11日 伊勢例幣
永観二年(984)9月11日戊午、伊勢大神宮へ例幣が行われた。(『小記目録』)
9月17日 御即位擬侍従等を定める
永観二年(984)9月17日甲子、10月17日に予定されている花山天皇御即位の侍従が定められた。(『日本紀略』)
9月18日 円融上皇、太上天皇の尊号を辞す
永観二年(984)9月18日乙丑、円融上皇は太上天皇の尊号を辞退する旨の御書状を奉った。書状は、右大弁大江斉光が作成した。左大将藤原朝光が使者を務めた。(『小右記』)
9月22日 政始
永観二年(984)9月22日己巳、政始であった。(『日本紀略』)
9月23日 除目
永観二年(984)9月23日庚午、除目の儀が行われた。(『小記目録』)
10月
10月1日 旬平座
永観二年(984)10月1日丁丑、宜陽殿において侍従らは御酒を賜った。右大臣藤原兼家が上卿を務めた。蔵人藤原道兼によって見参簿が奏上され、文挟みに挿んで返給した。陪膳のとき、花山天皇が「左近衛陣の官人が伺候していない。事情を確認せよ」と咎めた。(『小右記』)
10月4日 花山天皇御即位の旨を諸陵に報告
永観二年(984)10月4日庚辰、山陵使を七陵に立てられ、御即位の由を報告された。(『小右記』)
10月5日 円融上皇朱雀院渡御
永観二年(984)10月5日辛巳、円融上皇は朱雀院へ渡御された。堀河院の東門から出発した。左大将藤原朝光・右大将藤原済時・右大弁大江斉光・藤宰相佐理・三位中将と侍臣が同行した。
朱雀院渡御の際、文道光が反閇を奉仕した。(『小右記』)
10月6日 御馬御覧
永観二年(984)10月6日壬午、未の刻に花山天皇が仁寿殿にお出ましになり、左右馬寮の馬をご覧になった。
権中将藤原公任が御剣を持って伺候した。その後、犬狩が行われた。(『小右記』)
夕方、花山天皇は公任を介して「即位の儀が近づいているので、側に仕えて雑事を行うように」と仰った。(『小右記』同年10月7日条)
10月8日 叙位の儀
永観二年(984)10月8日甲申、叙位の儀が行われた。(『小右記』)
10月9日 村上山陵御幸の日を勘申/天皇の歯病
永観二年(984)10月9日乙酉、花山天皇は歯が痛いと仰られたので、加持が行われた。
また、位記請印は藤中納言藤原顕光が上卿を務めることになった。昌子内親王の位記が作成された。(『小右記』)
10月14日は村上山陵にお出かけになる予定だったが、物忌に当たる日だったので、藤原実資は陰陽師を召して他の吉日を勘申させた。
10月10日 即位の儀
永観二年(984)10月10日丙戌、花山天皇即位の儀が行われた。天皇は「王冠が重すぎて気分が悪い」と仰って王冠を脱ごうとした。(『小右記』)
即位のとき、馬内侍が高御座の帳を上げ下げする係の命婦として参上すると、花山天皇は馬内侍を高御座の内側に引き入れてすぐさま行為に及んだという。(『古事談』)
10月13日 解陣・開関
永観二年(984)10月13日己丑、午の刻に天地が鳴動した。また、解陣・開関が行われた。左大将藤原朝光が上卿を務めた。(『小右記』)
10月14日 五節の禁止事項/女叙位
永観二年(984)10月14日庚寅、花山天皇は五節の舞姫について過差を禁じた。
また、女叙位の儀が行われた。(『小右記』)
10月17日 院庁事始
永観二年(984)10月17日癸巳、堀河院庁事始であった。申の刻に、花山天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『小右記』)また、帯刀試が右近馬場において行われた。(『小右記』同年10月18日条)
10月21日 御馬御覧/堀河院所充
永観二年(984)10月21日丁酉、仁寿殿において花山天皇は十列の御馬をご覧になった。源時中が申し行ったという。また、堀河院の所充が行われた。饗宴があった。(『小右記』)
10月24日 賀茂臨時祭使・舞人の選定/射場始
永観二年(984)10月24日庚子、御所において賀茂臨時祭使と舞人が定められた。
また、射場始が行われた。申の終刻になって花山天皇がお出ましになった。(『小右記』)
10月27日 円融上皇、村上山陵へ御幸
永観二年(984)10月27日癸卯、巳の刻に円融上皇は村上山陵へ出かけた。公卿らも騎乗して同行した。
村上山陵へ出かける際、御所において文道光が反閇を奉仕した。(『小右記』)
10月28日 円融上皇御所で触穢/賀茂臨時祭調楽/藤原忯子入内
永観二年(984)10月28日甲辰、円融上皇の御所において犬の死穢があった。(『小右記』同年10月30日条)
夜になって、賀茂臨時祭の調楽が行われた。(『小右記』)
同じ夜、大納言藤原為光の娘忯子か徒歩で入内した。車を免されなかったことによる。藤原実資は左少将藤原実方を介して御書状の箱を忯子のもとに届けた。装束の被物があった。(『小右記』同年10月29日条)
10月30日 除目/東宮年給
永観二年(984)10月30日丙午、除目の儀が行われた。亥四刻に終わった。
また、朱雀院(円融上皇)と東宮(懐仁親王)の年給があった。受領の兼官は停止となった。(『小右記』)
11月
11月3日 平野・春日祭/円融上皇触穢
永観二年(984)11月2日戊申、平野祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)右近少将藤原信輔が春日使を務めた。(『小右記』同年11月1日条)
また、堀河院(円融上皇御所)に触穢の疑いがあったので河原において解除を行った。上皇は平野・春日使を立てなかった。夜、降雨と雷鳴があった。(『小右記』)
11月4日 伊勢斎宮卜定
永観二年(984)11月4日庚戌、弾正尹親王(章明親王)の娘済子が伊勢斎宮に卜定された。『日本紀略』花山天皇はお出ましにならなかった。(『小右記』)
11月5日 御遊
永観二年(984)11月5日辛亥の夜、御遊が行われた。(『小右記』同年11月6日条)
11月7日 藤原忯子が女御になる/雨の祟り/賀茂臨時祭調楽
永観二年(984)11月7日癸丑、大納言藤原為光の娘藤原忯子が女御となった。
また、賀茂臨時祭の調楽が行われた。(『小右記』)
陰陽寮は神祇官とともに、陣頭において連日に渡る雨の祟りについて御卜を奉仕した。理運の災いということだった。(『小右記』)
11月13日 天変怪異による奉幣
永観二年(984)11月13日己未、天変怪異によって、伊勢大神宮などの十社へ奉幣が行われた。(『小右記』)
建礼門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
11月16日 堀河院触穢
永観二年(984)11月16日壬戌、堀河院(円融上皇御所)において犬の死穢があった。(『小右記』)
11月18日 侍従厨倉焼亡/大原野祭/五節の舞姫
永観二年(984)11月18日甲子、大原野祭が行われた。(『日本紀略』)辰の刻に侍従厨の倉で火災があった。夜になって、藤原景舒の娘が五節の舞姫として参入した。(『小右記』)
11月19日 園韓神祭/五節帳台試/諸神奉幣
永観二年(984)11月19日乙丑、園・韓神祭が行われた。藤原朝光・藤原佐理らの出した五節の舞姫が参入した。常寧殿において、帳台試が行われた。花山天皇もお出ましになり、その様子をご覧になった。ただ、物忌に当たる日だったので諷誦が修された。強引に来たようであった。
また、京内・諸国の諸神に奉幣使が立てられた。神祇官の者が使者となった。(『小右記』)
11月20日 鎮魂祭/五節御前試
永観二年(984)11月20日丙寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
夜になって、五節御前試が行われた。亥の終刻に五節の舞姫が参上した。(『小右記』)
11月21日 新嘗祭
永観二年(984)11月21日丁卯、新嘗祭が行われた。(『日本紀略』)
夜、花山天皇が密かに常寧殿にお出ましになった。往古にも聞いたことのないことであった。(『小右記』)
11月22日 豊明節会/諷誦
永観二年(984)11月22日戊辰、花山天皇の物忌に当たる日のため十五ヶ所の寺に諷誦が修され、天皇が紫宸殿にお出ましになった。天皇は、五節の舞姫が参入する前にお移りになった。(『小右記』)
11月23日 河内国司濫行
永観二年(984)11月23日己巳、樟葉御牧司藤原頼忠が河内国司のせいで住宅で火災が起こり、財物を奪われたと報告した。(『小右記』)
11月24日 検非違使を樟葉牧に派遣
永観二年(984)11月24日庚午、検非違使を樟葉牧に派遣することになった。(『小右記』)
12月6日 樟葉牧のことを奏上
永観二年(984)12月6日辛巳、樟葉牧のことが重ねて奏上された。(『小右記』)
12月7日 検非違使を樟葉牧に派遣
永観二年(984)12月7日壬午、国司の申請によって検非違使を樟葉牧に派遣することになった。(『小右記』)
12月10日 検非違使が帰還
永観二年(984)12月10日乙酉、検非違使が樟葉牧から帰ってきて、日記三通を提出した。(『小右記』)
11月25日 賀茂臨時祭試楽
永観二年(984)11月25日辛未、未の刻に賀茂臨時祭の試楽が始まった。左大臣源雅信・右大臣藤原兼家・藤大納言(藤原為光)・藤中納言(藤原顕光)・左衛門督源重光・左大弁藤原為輔・三位中将藤原義懐・源宰相(源伊陟)が御前に伺候した。(『小右記』)
11月27日 賀茂臨時祭
永観二年(984)11月27日癸酉、賀茂臨時祭が行われた。侍従藤原斉信・源時叙・蔵人左衛門尉藤原宣孝は御禊の際に馬を牽かなかったので、花山天皇のご機嫌はよろしくなかった。天皇は「御馬を牽かなかった者は神楽の座に伺候させないように」と仰った。(『小右記』)
11月29日 藤原宣孝が召問される
永観二年(984)11月29日乙亥、藤原宣孝が藤原実資によって陣腋に召され、賀茂臨時祭のとき御馬を牽かなかったことについて事情を問われた。弁解の余地はなかった。この日は花山天皇の御物忌の日だったので報告はできなかった。(『小右記』)
12月1日 藤原宣孝らが処分される
永観二年(984)12月1日丙子、藤原実資は藤原宣孝の件を花山天皇に奏上した。さらに、藤原斉信と源時叙のことも申し上げた。天皇は「藤原斉信と源時叙を特に注意し、源雅信と藤原為光にも伝えるように。藤原宣孝については特に注意せよ」と仰った。(『小右記』)
11月28日 資子内親王遷御/直物/藤原懐子に贈皇太后
永観二年(984)11月28日甲戌、直物が行われた。(『小右記』『日本紀略』)
夜、資子内親王が初めて三条宮にお移りになった。(『小右記』)
この日、故藤原懐子に皇太后の尊号を贈る宣旨が下された。(『小右記』同年12月3日条)
12月
12月1日 恵子女王に年官年爵/堀河院触穢
永観二年(984)12月1日丙子、故一条摂政藤原伊尹の北の方恵子女王に年爵と内外官三分一人を給わることになった。(『小右記』同年12月3日条)
また、堀河院において犬の死穢があったので、讃岐講師のことを奏上された。(『小右記』)
12月5日 藤原姫子入内/宗子内親王退出
永観二年(984)12月5日庚辰、藤原朝光の娘姫子が入内した。宗子内親王が退出された。(『小右記』)
右大臣藤原兼家は姫子の着裳所に向かい、被物と引出物があった。右大将藤原済時にも引出物があった。(『小右記』同年12月6日条)
藤原姫子は入内して初めの一ヶ月は花山天皇に深く寵愛されていたが、やがて天皇のもとへ参ることもなくなり、天皇が姫子を訪ねることもなく、手紙のやりとりもなくなった。一、二ヶ月したところで姫子はとうとう堪えられなくなり、退出してしまった。美しい容貌だったにもかかわらずこのようなことになってしまったのを嘆いているのを、父朝光や御兄弟はどのように思っていたのだろう。(『大鏡』)
12月8日 内御書衆を定める
永観二年(984)12月8日癸未、御前において内御書所のことが定められた。
内御書所に伺候する学生12人の中に大内記慶滋保胤がいた。覆勘であった。(『小右記』)
12月10日 触穢/御体御卜
永観二年(984)12月10日乙酉、8日に一条大納言藤原為光の邸宅であった犬の死穢が宮中に及んだ。穢により、御体御卜が行われた。(『小右記』)
12月11日 月次祭・神今食/御馬御覧
永観二年(984)12月11日丙戌、月次祭・神今食が行われた。(『日本紀略』)しかし、公卿は参上しなかった。右少弁源時通が上卿を務めた。(『小右記』同年12月12条)
この日、花山天皇は仁寿殿にお出ましになり、御馬を御覧になった。(『小右記』同年12月12日条)
12月15日 藤原諟子入内
永観二年(984)12月15日庚寅、亥の刻、関白太政大臣藤原頼忠が入内した。朔平門の陣の辺りで源中納言(源保光)と三位中将藤原義懐が出迎えた。(『小右記』)
12月17日 藤原諟子、御寝所へ
永観二年(984)12月17日壬辰の夜、藤原諟子が御寝所に参上した。三日の餅が銀盤四枚に盛られて供された。(『小右記』)
12月21日 荷前
永観二年(984)12月21日丙申の夜、荷前使が立てられた。(『小右記』)
12月25日 藤原諟子・姫子が女御になる
永観二年(984)12月25日庚子、藤原諟子・藤原姫子に女御宣旨が下った。藤原諟子が承香殿、藤原姫子が麗景殿である。(『小右記』)
12月26日 季御読経
永観二年(984)12月26日辛丑、内裏において季御読経が行われた。(『小右記』)
12月29日 季御読経結願
永観二年(984)12月29日甲辰、季御読経が結願した。(『小右記』)
12月27日 円融上皇が宜陽殿の物を献上
永観二年(984)12月27日壬寅、宜陽殿の物は度重なる火災によってみな焼失したということで、円融上皇は調備したものを献上した。花山天皇も鬼の間において献上された物をご覧になった。
12月30日 節折/追儺
永観二年(984)12月30日乙巳、節折が行われた。亥の刻、追儺が行われた。花山天皇は密かに紫宸殿にお出ましになり、追儺の儀をご覧になった。(『小右記』)
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永観三年/寛和元年(985)
1月
1月1日 供御薬/元日節会
永観三年(985)1月1日丙午、未の刻に花山天皇へ御薬が供された。申の刻、花山天皇は紫宸殿にお出ましになった。雅楽寮による音楽の演奏があった。小朝拝はなかった。理由は不明。(『小右記』)
1月2日 堀河院拝礼
永観三年(985)1月2日丁未の晩、侍所において左丞相源雅信・右丞相藤原兼家ら公卿に盃酒があった。円融上皇が寝殿にお出ましになり、大臣以下の侍臣が舞った。音楽の演奏があり、左大臣左大臣源雅信が笙、大納言藤原為光が笛、右大将藤原済時が箏、源時中が和琴、兵衛命婦が琵琶を演奏した。(『小右記』)
1月3日 蔵人所衆饗宴/弘徽殿御遊
永観三年(985)1月3日戊申、蔵人頭藤原実資は飲食物を準備し、饗宴を開いた。近衛府の官人が大勢やって来た。酔いが回って、実資は衣を脱いで近衛府の官人に給わった。雑色4人、所衆12人、小舎人22人、垣下は四位9人、五位37人だった。(『小右記』)
また、弘徽殿において藤原忯子が御遊を行った。源致方が衣を賜った。(『小右記』同年1月4日条)
1月4日 藤原穏子国忌
永観三年(985)1月4日己酉、藤原穏子の国忌であった。(『小右記』)
1月5日 東宮大饗/居貞・為尊・敦道親王が宗子内親王を訪ねる
永観三年(985)1月5日庚戌、北廊において東宮(懐仁親王)の大饗が行われた。
また、冷泉院の皇子居貞親王・為尊親王・敦道親王が宗子内親王を訪ねに飛香舎に参られた。(『小右記』)
1月6日 大江匡衡が賊に襲撃される
永観三年(985)1月6日辛亥の夜、弾正少弼大江匡衡が西洞院大路・土御門大路の辺りで賊に襲撃された。(『小右記』)
1月7日 白馬節会
永観三年(985)1月7日壬子、午三刻に花山天皇が紫宸殿にお出ましになった。申の刻に白馬節会が行われた。花山天皇も密かに清涼殿にお出ましになって白馬をご覧になった。
1月9日 侍所御遊/左近衛府荒手結
永観三年(985)1月9日甲寅、花山天皇が侍所にお出ましになり、御遊が行われた。
この日、左近衛府の歩射の荒手結があった。(『小右記』)
1月10日 小弓/卯杖
永観三年(985)1月10日乙卯、花山天皇が弘徽殿にお出ましになり、小弓が行われた。儀式の後、天皇は本殿にお帰りになった。その後、後涼殿南壺に雪山を作り、侍臣に詩を作らせた。
また、東宮と作物所が卯杖を献上した。(『小右記』)
1月13日 円融上皇、円融寺で諷誦を修する
永観三年(985)1月13日戊午、申の刻に円融上皇が円融寺に参った。左大将藤原朝光・藤中納言(藤原顕光)・両三位中将(藤原義懐・藤原道隆)が付き従った。両丞相(源雅信・藤原兼家)は車に乗って同行した。寺において、御諷誦を修された。(『小右記』)
1月14日 円融上皇還御/内給所奉仕/藤原諟子参入
永観三年(985)1月14日己未、寛朝僧正が饗宴の準備をして、上皇から御衣を賜った。午の刻、円融上皇はお帰りになった。
大納言藤原朝光が内給所の奉仕を行うことになった。また、承香殿(藤原諟子)が参入した。(『小右記』)
1月15日 庚申待ち
永観三年(985)1月15日庚申、庚申待ちが行われた。
この日は兵部省の手結が行われる予定だったが、公卿が参らなかったので中止になった。(『小右記』)
参考庚申信仰
庚申信仰は中国の道教における習俗が平安時代に陰陽道の一種として伝わったもので、干支の一つである庚申の日の夜に社寺の庚申社や庚申堂に集まり、お神酒や精進料理を供えて祭事を行い、一晩を過ごした習俗である。 ...
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1月16日 女踏歌/東宮帯刀手結
永観三年(985)1月16日辛酉、申の刻に花山天皇が紫宸殿にお出ましになり女踏歌が行われた。雅楽寮の演奏があった。亥四刻に踏歌が終わり、天皇は本殿にお帰りになった。
また、左近府において帯刀手結が行われた。(『小右記』)
1月17日 賭弓
永観三年(985)1月18日癸亥、賭弓が行われたが、左大将藤原朝光は治病・右大将藤原済時は触穢により假文を提出して参らなかった。申の刻、花山天皇が射場殿にお出ましになった。寅二刻に終わり、天皇はお帰りになった。(『小右記』)
1月20日 左大臣大饗/藤原季孝刃傷/外記政始
永観三年(985)1月20日乙丑、左大臣源雅信が大饗を行った。また、外記政始があった。(『小右記』)
大饗の際、中門の内で下総守藤原季孝が顔を刃傷された。諸国へ追捕の官符が下された。(『小右記』同年1月21日条)
3月22日 藤原季孝を刃傷した者を追捕
永観三年(985)3月22日丙寅の朝、検非違使別当源重光が「左兵衛尉藤原斉明の従者二人が藤原季孝を刃傷した疑いがある」と奏上した。(『小右記』)
1月22日 楽所始
永観三年(985)1月22日丁卯、楽所始があり、音楽と穀倉院の饗宴が行われた。(『小右記』)
1月25日 右大臣大饗/受領任官の書状/除目召仰
永観三年(985)1月25日庚午、右大臣藤原兼家が大饗を行った。
また、花山天皇は受領任官についての御書状を円融上皇に奉った。
この日、除目召仰があった。(『小右記』)
1月26日 除目
永観三年(985)1月26日辛未、除目の儀が行われた。(『小右記』)
1月27日 除目
永観三年(985)1月27日壬申、除目の儀が行われた。(『小右記』)
1月28日 除目
永観三年(985)1月28日癸酉、除目の儀が終わった。(『小右記』)
2月
2月1日 宗子内親王、子の日
永観三年(985)2月1日丙子、飛香舎において、宗子内親王が子の日の儀を行った。(『小右記』)
2月2日 釋奠/御馬御覧
永観三年(985)2月2日丁丑、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
また、花山天皇は清涼殿において左右馬寮の馬をご覧になった。(『小右記』)
2月3日 地震
永観三年(985)2月3日戊寅、丑の刻に地震があった。(『小右記』)
2月4日 祈年祭/大原野祭
永観三年(985)2月4日己卯、祈年祭・大原野祭が行われた。(『日本紀略』)
円融上皇が走馬を大原野社に奉った。大原野使は右近将監小野為信が務めた。(『小右記』)
2月9日 春日斉/円融上皇は朱雀・淳和院を御覧になる
永観三年(985)2月9日甲申、春日祭が行われた。(『日本紀略』)
また、円融上皇が朱雀院に移られ、馬に乗って淳和院をご覧になった。その後、朱雀院にお帰りになった。(『小右記』)
2月13日 円融上皇の子の日御遊
永観三年(985)2月13日戊子、紫野で子の日御遊があった。
左丞相源雅信・右丞相藤原兼家・大納言藤原為光・藤原朝光・藤原済時・中納言藤原文範・藤原顕光・源重光・源保光・右近権中将藤原義懐・参議源忠清・藤原公季・右近中将藤原道隆が付き従った。
歌人として平兼盛・紀時文・清原元輔真人・源重之・曽禰好忠・中原重節が御前に召された。しかし、公卿たちは好忠と重節に対して召されていないと追い立てた。源時通が「好忠は召人である」と述べた。
円融上皇の子の日御遊のとき、歌人として召されなかったにもかかわらず、曽禰好忠は強引に歌人の座に着席した。藤原実資・藤原朝光が好忠をつまみ出すように命じました。躬恒がすばらしい和歌を読んで褒美を賜ったのに対し、好忠の和歌はひどいものであった。いくら和歌に優れていても、時と場合を選ぶべきである。(『大鏡』)
円融上皇の子の日御遊のとき、歌人として大中臣能宣・源兼盛・清原元輔・源滋之・紀時文などが御前に召された。彼らは前もって上皇から仰せがあった人たちであった。歌人たちの着席が終わってからしばらくして、末席に粗末な衣服を着た曽禰好忠が着席した。殿上人たちが判官代に召しがあったのか問うと、判官代は召されていないと答えた。しかし、好忠はお召しがあったと言った。判官代は好忠を追い出そうとしたが、好忠は席から動こうとしない。これを聞いた藤原兼家・藤原朝光らが好忠をつまみ出すように命じると、若い貴族や殿上人たちが好忠の衣服をつかんで引きずり出し、踏みつけた。好忠は逃げ出したので、その場にいた人々は大いに笑った。(『今昔物語集』)
2月14日 園韓神祭/御射
永観三年(985)2月14日己丑、園韓神祭が行われた。(『日本紀略』)
また、花山天皇が射場にお出ましになり、御射が行われた。(『小右記』)
2月17日 祈年穀奉幣
永観三年(985)2月17日壬辰、十六社への祈年穀御幣使が立てられた。未の刻、花山天皇は八省院にお出ましになった。(『小右記』)
2月20日 円融上皇、東三条第へ渡御
永観三年(985)2月20日乙未、円融上皇が藤原詮子の東三条第南院にお渡りになった。(『小右記』)
2月21日 堀河院御遊
永観三年(985)2月21日丙申、堀河院において御遊が行われた。引出物として馬四疋があり、左馬頭藤原正光・左近少将実方・藤原道綱・右兵衛権佐藤原道長が馬を牽いた。さらに、通綱と道長は馬に乗った。(『小右記』)
2月23日 直物
永観三年(985)2月23日戊戌、直物が行われた。(『小右記』)
2月27日 官奏
永観三年(985)2月27日壬寅、官奏が行われた。(『小右記』)
2月29日 殿上賭弓
永観三年(985)2月29日甲辰、未の刻に花山天皇が射場殿にお出ましになり殿上賭弓が行われた。(『小右記』)
3月
3月1日 河臨祓
永観三年(985)3月1日乙巳、河臨祓が行われた。(『小右記』)
3月3日 御燈/御禊
永観三年(985)3月3日丁未、御禊が行われた。御卜によって、花山天皇は御燈を奉らなかった。(『小右記』)
3月5日 季御読経/童楽の予定
永観三年(985)3月5日己酉、未の刻に季御読経の発願が行われた。
花山天皇は、25日に童楽をご覧になって詩を献上させる予定を仰せになった。(『小右記』)
3月8日 季御読経結願
永観三年(985)3月8日壬子、未二刻に季御読経が結願した。(『小右記』)
3月7日 円融上皇の花見
永観三年(985)3月7日辛亥、円融上皇は東山で花見をした。右大将藤原済時と藤中納言(藤原顕光)が付き従った。(『小右記』)
3月10日 石清水臨時祭の延期
永観三年(985)3月10日甲寅、石清水臨時祭使源時中が触穢を申してきた。
また、堀河院において犬の死穢があり、穢は宮中に及んだ。
慶滋保遠が御卜を行った結果「不浄の気があるので、石清水臨時祭を行うのはよくない」と申した。そこで、26日に改めて行うことになった。
3月13日 円融上皇の花見
永観三年(985)3月13日丁巳の早朝、円融上皇は東山の辺りで花見をした。(『小右記』)
3月14日 御禊
永観三年(985)3月14日戊午、石清水臨時祭延期により、内裏において御禊が行われた。(『小右記』)
3月16日 円融上皇の花見/庚申
永観三年(985)3月16日庚申の早朝、円融上皇は西山において花見をした。寛朝僧正の広沢山荘で朝食が提供された。
夜、内裏において庚申待ちがあった。(『小右記』)
3月18日 宮城四角鬼気祭
永観三年(985)3月18日壬戌、陰陽道の勘文曰く、宮城四角鬼気祭を行い疫病を防ぐべきだということだった。(『朝野群載』)
3月24日 石清水臨時祭試楽
永観三年(985)3月24日戊辰、石清水臨時祭試楽が行われた。(『小右記』)
3月26日 石清水臨時祭
永観三年(985)3月26日庚午、辰の刻に御禊が行われた。左少将藤原実方と侍従藤原斉信が舞を進上した。
花山天皇の御代の石清水臨時祭は、とても趣深いものであった。手の空いた藤原実資が円融上皇の様子を見に行ったところ、円融上皇の御前には院の蔵人や判官代が仕えているだけで、とても寂しそうにしていた。円融上皇は実資が来たことを喜び、実資は上皇に臨時祭の行列を見物するよう勧めた。突然上皇がやってきたので、人々はみな驚き戸惑った。源時中は上皇の乗っていた車の側まで来て舞った。その様子は、とても優雅なものであった。(『大鏡』)
4月
この月、源信が『往生要集』を撰した。永観二年(984)11月に始めたという説がある。
4月3日 藤原懐子国忌
永観三年(985)4月3日丁丑、藤原懐子の国忌であった。(『小右記』)
4月4日 広瀬龍田祭
永観三年(985)4月4日戊寅、広瀬龍田祭が行われた。(『小右記』)
4月10日 平野祭
永観三年(985)4月10日甲申、平野祭が行われた。(『小右記』)
4月11日 海賊追捕
永観三年(985)4月11日乙酉、右衛門尉源忠良・左衛門府生錦文保・右衛門府生安茂兼は海賊を追捕した功によって、禄として疋絹を賜った。(『小右記』)
4月14日 円融上皇病悩により、御卜・御禊を行う
永観三年(985)4月14日戊子、辰の刻頃から円融上皇の体調が悪くなったので、御卜や御禊が行われた。(『小右記』)
4月18日 賀茂光栄が藤原実資室の解除を行う
永観三年(985)4月18日壬辰、賀茂光栄は藤原実資室の解除を行った。出産が遅れていることによる。(『小右記』)
4月19日 安倍晴明が藤原実資室の解除を行う
永観三年(985)4月19日癸巳、安倍晴明は藤原実資室の解除を行った。出産が予定時期より遅れていることによる。(『小右記』)
4月23日 賀茂祭
永観三年(985)4月23日丁酉、賀茂祭が行われた。賀茂祭使右近衛府中将源時中は突然障りを申した。平親信が代わりを務めた。(『日本紀略』)
4月24日 怪異
永観三年(985)4月24日戊戌、酉の刻に承香殿の壇上から大きな蟹が出てきた。(『日本紀略』)
4月27日 怪異/改元
永観三年(985)4月27日辛丑、卯の刻に水鳥が宜秋門の陣前の桜の木に集まったので、陰陽師(詳細不明)が御卜を奉仕した。盗み・兵・火事・疫癘ということだった。(『小右記』)
また、永観から寛和へ改元が行われた。(『小右記』)
4月29日 藤原安子国忌
寛和元年(985)4月29日癸卯、藤原安子の国忌であった。(『小右記』)
5月
5月2日 武徳殿造営/尊子内親王薨去
寛和元年(985)5月2日丙午、武徳殿を造営するよう宣旨が下された。(『日本紀略』)
また、円融上皇の女御尊子内親王が薨去された。(『小右記』)
5月7日 県奉平が反閇を奉仕する
寛和元年(985)5月7日辛亥、陰陽允県奉平は藤原実資に招請されて反閇を奉仕した。(『小右記』)
5月8日 官奏
寛和元年(985)5月8日壬子、官奏が行われた。大納言藤原為光が上卿を務めた。(『小右記』)
5月9日 郡司読奏
寛和元年(985)5月9日癸丑、郡司読奏が行われた。左大臣源雅信が上卿を務めた。(『小右記』)
5月10日 女御藤原忯子の御修法
寛和元年(985)5月10日甲寅、弘徽殿女御(藤原忯子)が桂芳坊において御修法を行わせた。前例のないことであった。(『小右記』同年5月11日条)
5月11日 競馬
寛和元年(985)5月11日乙卯、競馬が行われた。(『小右記』)
5月16日 信濃国が白雉を献上
寛和元年(985)5月16日庚申、信濃国が生きている白雉を献上した。(『小右記』)
5月21日 白雉が放たれる
寛和元年(985)5月21日乙丑、信濃国が献上した白雉が、北野の奥山に放たれた。(『小右記』)
5月24日 御馬御覧
寛和元年(985)5月24日戊辰、清涼殿において花山天皇が左右馬寮の馬をご覧になった。(『小右記』)
5月25日 村上天皇国忌
寛和元年(985)5月25日己巳、村上天皇の国忌であった。(『小右記』)
5月27日 尊子内親王の薨奏
寛和元年(985)5月27日辛未、尊子内親王の薨奏が行われた。(『小右記』)
5月29日 花山天皇の錫紵を除く
寛和元年(985)5月29日癸酉、花山天皇の錫紵を除くことになっていた。安倍晴明は天皇の錫紵を除く吉時を勘申した。
→戌の刻となったが、この日は復日にあたるため明日の卯の刻の方がよいということだった。
藤原実資がこの旨を天皇に奏聞したところ、天皇から実資が決めるように命じられた。
実資は「明日(6月1日)は忌日の御膳を供する日であり、斎月である。また、日数を過ぎても問題ないのだろうか」と尋ねると、藤原宣孝が延喜の頃、日数を過ぎて錫紵を除いた例を挙げた。実資がその例を探したところ、延喜九年(909)にあった。
しかし、実資はその例は今回のことに適用できないと思い、半夜に除かせてはどうか提案したところ、天皇は晴明に尋ねるように言った。晴明は「明日の寅の初刻がよい」と申した。実資は感心しなかった。(『小右記』)
6月
6月1日 忌火御膳
寛和元年(985)6月1日甲戌、忌火御膳が供された。(『小右記』同年5月29日条)
6月2日 藤原為光室 入滅
寛和元年(985)6月2日乙亥、戌の刻に藤原為光の妻が入滅した。藤原伊尹の子孫にあたる人物だったので、世間の人々は「伊尹の子孫が次々に亡くなっている」と噂した。(『小右記』)
5月には尊子内親王も薨去されている。
6月4日 競馬の延期
寛和元年(985)6月4日丁丑、藤原為光室の入滅に伴い、競馬が延期された。(『小右記』)
6月10日 御体御卜
寛和元年(985)6月10日癸未、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
6月11日 月次祭・神今食
寛和元年(985)6月11日甲申、月次祭・神今食が行われた。(『小右記』)
6月17日 尊子内親王七々日忌法会
寛和元年(985)6月17日庚寅、法性寺において故尊子内親王の七々日法会が行われた。(『小右記』)
6月22日 源時叙・藤原斉信、昇殿
寛和元年(985)6月22日乙未、侍従源時叙・藤原斉信が昇殿を許された。(『小右記』)
6月25日 大井川の納涼
寛和元年(985)6月25日戊戌、大井川において納涼が行われた。(『小右記』)
6月28日 請雨経法
寛和元年(985)6月28日辛丑、炎旱により、この日から神泉苑において請雨経法が修された。(『小右記』)
6月29日 軒廊御卜
寛和元年(985)6月29日壬寅、出羽国が蛇が吠える怪異を言上したのと、この頃炎旱が盛んだったので、軒廊御卜が行われた。(『日本紀略』)
7月
7月6日 御読経
寛和元年(985)7月6日己酉、炎旱により、大極殿において祈雨のための御読経が修された。(『小記目録』『日本紀略』)
7月10日 炎旱により軽犯者を免ずる
寛和元年(985)7月10日癸丑、炎旱により左右獄の軽犯者33人を免じた。その中には式部丞西市令史奈癸忠雅もいた。(『小記目録』『日本紀略』)
7月13日 祈雨
寛和元年(985)7月13日丙辰、十六社へ祈雨奉幣が行われた。また、方忌により八省院への行幸が停止された。(『日本紀略』)
7月14日 盂蘭盆
寛和元年(985)7月14日丁巳、盂蘭盆があった。(『小記目録』)
7月18日 藤原忯子 卒去/藤原宣孝の従者が陵轢される
寛和元年(985)7月18日辛酉、午の刻に弘徽殿女御(藤原忯子)が卒去した。懐妊七ヶ月であった。
『月刈藻集』では、花山天皇の寵愛に嫉妬した他の女御たちの呪詛によって亡くなったとされている。
藤原忯子は、花山天皇から深い寵愛を受けていた。(『大鏡』)
また、丹生使左衛門尉藤原宣孝は小舎人及び従者が陵轢された旨の解文を言上した。(『小右記』)
7月23日 相撲節の停止
寛和元年(985)7月23日丙寅、旱ばつ及び藤原忯子の卒去によって、相撲節が停止となった。(『小記目録』)
7月21日 造春日社使が作料を奪われる
寛和元年(985)7月21日甲子、造春日社使藤原忠廉が大和国司のために造作料を奪われたので、検非違使が遣わされた。(『小右記』)
8月
8月3日 陸奥守赴任
寛和元年(985)8月3日乙亥、陸奥守藤原為長が赴任の由を奏した。(『小記目録』)
8月5日 釋奠
寛和元年(985)8月5日丁丑、釋奠が行われた。上卿藤原顕光は、急に胸病を患って宴座を行わなかった。(『小記目録』『日本紀略』)
8月7日 小除目
寛和元年(985)8月7日己卯、臨時除目のことがあった。(『小記目録』)
8月10日 内裏歌合
寛和元年(985)8月10日壬午、花山天皇が突然お出ましになって歌合を行った。
藤原公任を召して番わせた。判者は藤原惟成が務めた。(『歌合』)
8月11日 定考の延期
寛和元年(985)8月11日癸未、厨家の穢によって定考が延期となった。(『日本紀略』)
8月21日 祈年穀奉幣
寛和元年(985)8月21日癸巳、祈年穀奉幣のことを定めた。(『小記目録』)
8月27日 祈雨奉幣使/円融上皇の病気
寛和元年(985)8月27日己亥、伊勢大神宮などの諸社へ祈雨奉幣使が発遣された。丙穢により、花山天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
丑の刻頃から、円融上皇は体調がすぐれなかった。普通の病気ではないようだった。上皇が言うには、藤原元方の怨霊によるものだという。(『小右記』)さらに、良源僧正の霊による祟りであるという。(『百錬抄』)
8月29日 円融上皇出家
寛和元年(985)8月29日辛丑、円融上皇が出家した。急なことであった。寛朝僧正が戒師を務め、大僧都余慶が三聚浄戒を授け奉った。(『小右記』)
閏8月
閏8月2日 藤原忯子七々日法忌
寛和元年(985)閏8月2日癸卯、大納言藤原為光は故藤原忯子のために法性寺において七々日忌の法会を修した。(『日本紀略』)
閏8月6日 円融法皇に度者を奉る
寛和元年(985)閏8月6日丁未、円融法皇に度者百人が奉られた。(『小記目録』)
閏8月20日 季御読経
寛和元年(985)閏8月20日辛酉、季御読経が始められた。(『小記目録』)
閏8月23日 季御読経結願
寛和元年(985)8月23日甲子、季御読経が結願した。(『小記目録』)
閏8月30日 大祓
寛和元年(985)閏8月30日辛未、大嘗会により、朱雀門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
9月
9月3日 御燈の停止
寛和元年(985)9月3日甲戌、大嘗会によって、御燈が停止となった。しかし、廃務であった。(『日本紀略』)
9月7日 御射
寛和元年(985)9月7日戊寅、射場始以前に御射があった。(『小記目録』)
9月9日 重陽平座
寛和元年(985)9月9日庚辰、重陽平座があった。(『日本紀略』)
9月14日 大嘗会御禊/小除目
寛和元年(985)9月14日乙酉、大嘗会の御禊の日時が定められた。(『日本紀略』)
また、小除目が行われた。三位藤原義懐が参議に任ぜられた。右衛門権佐平親信が近江介に任ぜられた。勘解由次官長清が右衛門権佐に任ぜられた。史綾文信が大炊助に任ぜられた。主殿允海近澄が史に任ぜられた。内匠頭算が木工権頭に任ぜられた。皇太后宮大進輔義が内匠頭に任ぜられた。(『小右記』)
9月19日 円融法皇遷御
寛和元年(985)9月19日庚寅、円融法皇が堀河院から円融寺にお移りになった。(『日本紀略』)
法皇は唐車に乗った。寛朝僧正が車の後ろに付いた。
9月23日 五節定
寛和元年(985)9月23日甲午、五節のことが定められた。(『小記目録』)
9月25日 怪異
寛和元年(985)9月25日丙申、仁寿殿において怪異があった。(『小記目録』)
9月29日 醍醐天皇国忌/大祓
寛和元年(985)9月29日庚子、醍醐天皇の国忌であった。また、大嘗会により、朱雀門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
10月
10月5日 女官除目/射場始
寛和元年(985)10月5日乙巳、女官除目が行われた。また、射場始があった。(『日本紀略』)
10月13日 直物/小除目
寛和元年(985)10月13日癸丑、直物と小除目があった。(『日本紀略』)
10月14日 大嘗会御禊装束司
寛和元年(985)10月14日甲寅、大嘗会御禊装束司が定められた。(『日本紀略』)
10月15日 大嘗会御禊の点地
寛和元年(985)10月15日乙卯、右近少将藤原信輔が大嘗会御禊の点地処に遣わされた。(『小右記』)
10月25日 大嘗会御禊
寛和元年(985)10月25日乙丑、大嘗会御禊が行われた。神祇官が御禊を奉仕した。(『小右記』)
10月30日 大祓
寛和元年(985)10月30日庚午、大嘗会によって、朱雀門において大祓が行われた。(『日本紀略』)
11月
11月2日 平野祭・春日祭
寛和元年(985)11月2日壬申、平野祭・春日祭が行われた。(『日本紀略』)
11月9日 直物
寛和元年(985)11月9日己卯、直物が行われた。(『日本紀略』)
11月15日 神宝を七道諸神へ奉る
寛和元年(985)11月15日乙酉、石清水・賀茂・松尾・平野・園韓神・春日・稲荷の七道諸神に神宝を奉った。みな侍臣が遣わされた。(『小右記』)
11月19日 五節舞姫参入
寛和元年(985)11月19日己丑、五節の舞姫が参入した。(『小記目録』)
11月21日 位記入眼/大嘗会
寛和元年(985)11月21日辛卯、藤原実資は位記の入眼を奏上した。また、大嘗会が行われた。(『小右記』)
11月22日 辰日節会
寛和元年(985)11月22日壬辰、丑の刻に花山天皇が大極殿にお出ましになった。辰の刻に儀式が終わり、天皇は小安殿にお帰りになった。(『小右記』)
11月23日 巳日節会
寛和元年(985)11月23日癸巳、亥の刻に花山天皇が悠紀の御帳にお出ましになった。儀式は前日と同様であった。寅の刻頃、天皇は本殿にお帰りになった。(『小右記』)
11月24日 豊明節会/午日節会/安倍晴明、吉志舞を奉る
寛和元年(985)11月24日甲午、豊明節会が行われた。(『小右記』)
大嘗会の吉志舞は、あまりに幽玄であった。寛和の時代に安倍晴明が奉って以後、安倍氏の当主が沙汰することになった。(『園田暦』)
12月
12月1日 女叙位
寛和元年(985)12月1日庚子、女叙位が行われた。(『日本紀略』)
12月5日 為平親王の娘婉子が女御になる
寛和元年(985)12月5日甲辰、式部卿為平親王の娘婉子女王が女御となった。(『日本紀略』)
12月7日 為平親王昇殿
寛和元年(985)12月7日丙午、式部卿為平親王が昇殿を許された。(『日本紀略』)
12月10日 御体御卜奏
寛和元年(985)12月10日己酉、御体御卜が行われた。(『日本紀略』)
12月11日 月次祭・神今食/中和院行幸
寛和元年(985)12月11日庚戌、月次祭・神今食が行われた。また、花山天皇が中和院にお出かけになった。(『日本紀略』)
12月14日 賀茂臨時祭試楽
寛和元年(985)12月14日癸丑、賀茂臨時祭試楽が行われた。(『小記目録』)
12月16日 賀茂臨時祭
寛和元年(985)12月16日乙卯、賀茂臨時祭が行われた。(『小記目録』)
12月23日 光仁天皇国忌
寛和元年(985)12月23日壬戌、光仁天皇の国忌であった。(『小記目録』)
12月30日 追儺
寛和元年(985)12月30日己巳、追儺が行われた。(『小記目録』)
+ 寛和二年(986)の年表を見る
寛和二年(986)
1月
1月1日 元日節会
寛和二年(986)1月1日庚午、元日節会が行われた。節会が終わる前に花山天皇は本殿にお帰りになった。(『小記目録』)
1月2日 東宮大饗
寛和二年(986)1月2日辛未、東宮(懐仁親王)が大饗を行った。(『小記目録』)
1月7日 白馬節会
寛和二年(986)1月7日丙子、白馬節会が行われた。白馬奏の前に版位及び標を執った。(『小記目録』)
1月8日 御斎会
寛和二年(986)1月8日丁丑、御斎会が始まった。(『日本紀略』)
1月14日 御斎会結願
寛和二年(986)1月14日癸未、御斎会が結願した。(『日本紀略』)
1月13日 資子内親王 出家
寛和二年(986)1月13日壬午、資子内親王が出家した。(『小記目録』『日本紀略』)
1月16日 女踏歌
寛和二年(986)1月16日乙酉、女踏歌が行われた。花山天皇が紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
1月17日 射礼
寛和二年(986)1月17日丙戌、射礼が行われた。権中納言藤原義懐・中納言藤原文範・権中納言藤原顕光は左仗座に著し、申二刻に射礼のために大庭座に移った。(『本朝世紀』)
1月18日 左京火災
寛和二年(986)1月18日丁亥、左京で大きな火災があった。一条大路南、中御門北の敷町だった。(『日本紀略』)
火は二十四町に及んだ。火災により、賭弓が停止となった。(『小記目録』)
2月2日 十七社奉幣
寛和二年(986)2月2日庚子、火災によって十七社へ奉幣しが発遣された。(『小記目録』)
1月19日 枇杷殿焼亡
寛和二年(986)1月19日戊子、枇杷殿で火災があった。よって、内宴が停止となった。(『小記目録』)
1月25日 外記政
寛和二年(986)1月25日甲午、外記政があった。(『本朝世紀』)
1月26日 源雅信、輦車宣旨
寛和二年(986)1月26日乙未、左大臣源雅信が輦車に乗って待賢門を出入りすることを許された。(『小記目録』『日本紀略』)大納言源重信が勅旨を奉った。(『日本紀略』)
1月28日 除目
寛和二年(986)1月28日丁酉、除目が行われた。(『小記目録』)
2月
2月8日 藤原道長・行成 昇殿
寛和二年(986)2月8日丙午、右兵衛権佐藤原道長・侍従藤原行成が昇殿を許された。(『公卿補任』)
2月16日 列見/怪異
寛和二年(986)2月16日甲寅、列見が行われた。(『日本紀略』)
この日、天文博士正五位下安倍晴明は未の刻に太政官の政庁に現れた蛇について吉凶を占った。(『本朝世紀』)
参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
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2月20日 陣定
寛和二年(986)2月20日戊午、陣定が行われた。(『本朝世紀』)
2月24日 火災
寛和二年(986)2月24日壬戌、亥二刻に火災があった。(『本朝世紀』)
2月25日 賭弓の停止
寛和二年(986)2月25日癸亥、火災によって賭弓が停止となった。また、火災によって中納言藤原義懐に御衣が遣わされた。(『小記目録』)
2月27日 怪異
寛和二年(986)2月27日乙丑、天文博士安倍晴明は政庁の母屋に入ってきた鳩について占った。(『本朝世紀』)
参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
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3月
3月1日 御燈
寛和二年(986)3月3日辛未、御燈のため廃務であった。(『本朝世紀』)
3月5日 直物/除目/火災
寛和二年(986)3月5日癸酉、直物、除目が行われた。(『本朝世紀』)
右京の火災によって播磨和頼の邸宅が焼亡し、左京の火災によって菅原輔正の邸宅が焼亡した。東西の京で火災が起こるのは、奇異なことである。(『本朝世紀』)
3月8日 火災
寛和二年(986)3月8日丙午、二条第で火災があった。(『小記目録』)
3月12日 怪異
寛和二年(986)3月12日庚辰、鷺が校書殿上に集まる怪異があったので、御卜が行われた。(『小記目録』)
3月13日 怪異
寛和二年(986)3月13日辛巳、弘徽殿において怪異があったので、御卜が行われた。(『小記目録』)
3月14日 石清水臨時祭/藤原道綱 昇殿
寛和二年(986)3月14日壬午、石清水臨時祭が行われた。(『小記目録』)
この日、藤原道綱が昇殿を許された。(『公卿補任』)
また、従三位藤原暁子が出家した。浄土寺において剃髪した。(『日本紀略』)
3月17日 桓武天皇国忌/内蔵寮蔵に物を移す
寛和二年(986)3月17日乙酉、桓武天皇の国忌であった。(『本朝世紀』)
また、火災を恐れて御物を内蔵寮の蔵に運び入れた。(『小記目録』)
3月19日 外記政
寛和二年(986)3月19日丁亥、外記政が行われた。(『本朝世紀』)
3月21日 仁明天皇国忌/藤原邦明出家
寛和二年(986)3月21日己丑、仁明天皇の国忌であった。この日、左馬権助藤原邦明が石蔵寺において出家した。(『本朝世紀』)
3月25日 藤原相中出家
寛和二年(986)3月25日癸巳、侍従藤原相中が天台山において出家した。(『日本紀略』)
3月26日 東宮朝覲/藤原詮子叙位
寛和二年(986)3月26日甲午、東宮(懐仁親王)の初めての朝覲があった。御年七歳。(『日本紀略』)
また、藤原詮子が正三位に叙された。(『院號定部類記』)
3月27日 地震
寛和二年(986)3月27日乙未、地震があった。大いに揺れた。(『小記目録』)
4月
4月1日 旬平座
寛和二年(986)4月1日己亥、旬平座が行われた。(『日本紀略』)
4月3日 贈皇太后藤原懐子国忌
寛和二年(986)4月3日辛丑、藤原懐子の国忌であった。(『本朝世紀』)
4月4日 広瀬龍田祭
寛和二年(986)4月4日壬寅、広瀬龍田祭が行われた。(『日本紀略』)廃務であった。(『本朝世紀』)
4月5日 外記政/官奏
寛和二年(986)4月5日癸卯、外記政、官奏が行われた。(『本朝世紀』)
4月8日 灌仏の停止/御馬御覧
寛和二年(986)4月8日丙午、杜本使の発遣によって灌仏が停止となった。(『小記目録』)
また、花山天皇が紫宸殿にお出ましになり、左右馬寮の御馬をご覧になった。(『本朝世紀』)
4月9日 五月節の停止
寛和二年(986)4月9日丁未、仰せによって、五月節が停止となった。(『日本紀略』)
4月10日 平野臨時祭
寛和二年(986)4月10日戊申、平野臨時祭が行われた。(『日本紀略』)
4月14日 官奏
寛和二年(986)4月14日壬子、官奏が行われた。(『本朝世紀』)
4月22日 慶滋保胤出家
寛和二年(986)4月22日庚申、大内記従五位下慶滋保胤が出家した。(『日本紀略』)法名は寂心(『一代要記』)
4月23日 賀茂祭
寛和二年(986)4月23日辛酉、賀茂祭が行われた。(『日本紀略』)
4月28日 盛明親王出家
寛和二年(986)4月28日丙寅、盛明親王が出家した。(『日本紀略』)
4月29日 藤原安子国忌/藤原済時が藤原信通を陵轢
寛和二年(986)4月29日丁卯、藤原安子の国忌であった。(『本朝世紀』)
また、右大将藤原済時が見物の間に左京進藤原信通を陵轢した。(『小記目録』)
5月
5月5日 官奏
寛和二年(986)5月5日壬申、官奏が行われた。(『本朝世紀』)
5月13日 文道光の邸宅焼亡
寛和二年(986)5月13日庚辰、前主計権助文道光の邸宅が悉く焼亡した。(『本朝世紀』)
5月14日 藤原懐遠叙位
寛和二年(986)5月14日辛巳、武徳殿造営の功によって、修理大夫藤原懐遠が正四位下に叙された。(『公卿補任』)
5月18日 大仁王会
寛和二年(986)5月18日乙酉、宮中及び五畿七道の諸国に一代一度の大仁王会を修させた。(『日本紀略』)
5月30日 打毬
寛和二年(986)5月30日丁酉、花山天皇が紫宸殿にお出ましになり、打毬をご覧になった。(『日本紀略』)
6月
6月1日 御卜
寛和二年(986)6月1日戊戌、霖雨によって、権中納言藤原為輔が左仗座に著し、神祇官・陰陽寮の官人を召して御卜を行わせた。勘申して曰く、辰巳・戌亥の方角に大神の祟りがあるということだった。(『本朝世紀』)
6月5日 外記政
寛和二年(986)6月5日壬寅、外記政が行われた。(『本朝世紀』)
6月6日 競馬・打毬御覧
寛和二年(986)6月6日癸卯、円融法皇が仁和寺において競馬及び打毬をご覧になった。(『日本紀略』)
6月10日 御体御卜奏/内裏歌合
寛和二年(986)6月10日丁未、御体御卜奏が行われた。(『日本紀略』)
また、内裏において歌合が行われた。(『歌合』)
6月11日 月次祭・神今食
寛和二年(986)6月11日戊申、戌二刻に花山天皇が中院にお出ましになり、諸司が供奉した。しかし、大忌によって上卿が参らず、小忌の中納言藤原顕光・参議左兵衛督藤原時光が参った。(『本朝世紀』)
6月18日 法華八講
寛和二年(986)6月18日乙卯、この日から21日までの四日間、右近衛大将藤原済時が白河において法華八講を修された。(『本朝世紀』)
6月22日 火災
寛和二年(986)6月22日己未、円融寺の御随身所で火災があった。(『小記目録』)
6月23日 譲位
寛和二年(986)6月23日庚申、花山天皇は密かに清涼殿を出て縫殿陣にある車に乗り、藤原道兼と相乗りして東山花山寺へ向かい、出家した。(『本朝世紀』)
懐仁親王が一条天皇となった。(『日本紀略』)
参考寛和の変(花山天皇の退位・出家)~出家の途中で安倍晴明の家の前を通りかかる
寛和かんなの変とは、寛和二年(986)6月23日に起こった花山天皇の退位・出家事件である。『古事談』では、寵愛していた弘徽殿の女御の死を悲しんでいたところへ藤原道兼が出家を勧めてきたとされている。しか ...
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参考【現代語訳】大鏡『花山天皇』―花山院の出家
『大鏡』より「花山天皇」の現代語訳。 寛和二年(986)6月の夜、花山天皇は人知れず宮中を抜け出し出家に向かった。その途中で天皇は安倍晴明の屋敷の前を通りかかった。晴明は天変の兆しによって天皇の退位を ...
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参考安倍晴明と花山天皇―花山院出家を目撃、熊野参詣へ同行
花山天皇の御代、安倍晴明は天皇の前世を見抜き、病気を治した。花山天皇が出家する際にはいち早く退位を察知して式神に参内させた。天皇の出家後は熊野参詣に同行し、花山院の修行の妨げとならないよう結界を張って ...
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