※陰陽道に関係のありそうなものだけ
天禄元年(970)の年表
天禄元年(970)
3月
3月29日 触穢
天禄元年(970)3月29日庚午、右大臣藤原伊尹以下が参内し外記に仰って言われたことには「冷然院で死穢があった。賀茂祭を延期すべきか否か」と。外記は不分明の由を申し、諸卿は延引すべきではないことを定められた。件の穢は内裏・斎院に及んでいないことによる。(『園太暦』)
4月
4月1日 日食
天禄元年(970)4月1日辛未、日食があった。(『日本紀略』)
3月27日の外記によると、中務省の申すところでは来月一日に日食が起こるとの状を奏上した。28日に廃務奏状を作成し内侍に託して奏上させた。(『西宮記』)
4月2日 冷泉院焼亡
天禄元年(970)4月2日壬申の夜半、冷泉院が焼亡した。冷泉院は朱雀院へお移りになった。(『日本紀略』『扶桑略記』)
5月
5月12日 藤原実頼が度者を賜る
天禄元年(970)5月12日壬子、度者四十人を太政大臣藤原実頼に賜った。病のためである。蔵人頭右大弁源保光に召しがあり、禄物として白い大褂を給わった。(『日本紀略』)
5月18日 大赦/藤原実頼 薨去
天禄元年(970)5月18日戊午、天下に大赦が行われた。太政大臣藤原実頼を病から救うためである。
しかし、申の刻に藤原実頼は薨じられた。子の刻、法性寺の艮の方角にある松林寺に移した。(『日本紀略』)
5月20日 藤原伊尹 摂政就任
天禄元年(970)5月20日庚申、詔により右大臣藤原伊尹が摂政に任じられた。(『日本紀略』)
7月
7月13日 藤原伊尹が従二位に叙される
天禄元年(970)7月13日壬子、勅を以て摂政右大臣藤原伊尹を従二位に叙した。内舎人。左右近衛の随身を給わった。(『日本紀略』)
7月14日 藤原師氏 薨去
天禄元年(970)7月14日癸丑、大納言正三位皇太子傅藤原師氏が薨じられた。享年58歳。(『日本紀略』)
病に臥せった藤原師氏が一生を振り返ると、善い行いをしてこなかったので、なんとか善行を積もうと思っているうちに空しく時が過ぎてしまった。今更悔やんでも仕方がないと思い、自らの名前を書いた名籍を空也上人に奉り「多忙なゆえ未だ善行を修することができずにいたところへ病を患ってしまい、あの世に行くのを待つばかりです。地獄で報いを受けるのを逃れる術もありません。上人、どうかお助けください、哀れみになってください」と言った。上人が手紙を開くと「なんということだ。恐ろしいことを言っておられる。閻魔王にお頼みしてみよう」と手紙を書き、立文にして「お亡くなりになったら、葬儀のときにこの手紙を棺の上に置いて葬りなさい。お許しがあれば、この手紙は焼けないでしょう。お許しがなければ、この手紙を焼けてなくなるでしょう」と言って遣わした。その後、師氏が亡くなったので空也上人に言われたとおりに葬儀を行った。翌朝、灰の中を見ると、手紙は少しも焼けていなかった。それで、空也上人の導きによって師氏は極楽浄土に行くことができたのだとわかった。(『古事談』)
8月
8月10日 藤原伊尹 法性寺供養
天禄元年(970)8月10日己卯、摂政右大臣藤原伊尹が法性寺において、貞信公(藤原忠平)を奉るために法華八講を修した。(『日本紀略』)
9月
9月8日 隆子女王 斎院に入る
天禄元年(970)9月8日丙午、伊勢斎王(隆子女王)が東河で御禊を行い、主水司に入った。(『日本紀略』)
9月30日 隆子女王 野宮に入る
天禄元年(970)9月30日戊辰、伊勢斎王(隆子女王)が主水司より野の宮へ入った。(『日本紀略』)
10月
10月10日 藤原在衡 薨去
天禄元年(970)10月10日戊寅、左大臣藤原在衡が薨じられた。(『扶桑略記』)
10月16日 大嘗祭御禊の点地
天禄元年(970)10月16日甲申、大嘗祭の御禊を行う場所を選び定めた。(『日本紀略』)
10月20日 藤原伊尹 蔵人所別当に補任
天禄元年(970)10月20日戊子、摂政正三位藤原伊尹が蔵人所別当に補任した。(『公卿補任』)
10月26日 大嘗祭御禊
天禄元年(970)10月26日甲午、円融天皇が鴨川で大嘗祭の御禊を行った。(『日本紀略』)
10月28日 藤原兼通 帯剣
天禄元年(970)10月28日丙申、参議従三位藤原兼通に帯剣勅授があった。(『公卿補任』)
11月
11月8日 安倍吉昌が天文得業生になる
天禄元年(970)11月8日丙午、安倍吉昌は賀茂保憲の推挙で天文得業生となった。(『類聚符宣抄』)
陰陽寮解曰く、正五位下行主計頭兼天文博士賀茂保憲の牒に「件の(安倍)吉昌は、聡明で勉学に勤めることを怠りません。望んで願うことは、天文得業生竹野親富が満九年になるので、替わりとして補任していただきたいです」と。陰陽寮が牒状により申し送り、中務省が解状によって申し送ること件の如し。
従二位行大納言兼皇太子傅侍従源兼明が宣する。「請求の通りにせよ」と仰せになったので、これを承った。
12月
12月27日 荷前
天禄元年(970)12月27日甲午、荷前が行われた。御物忌により、円融天皇はお出ましにならなかった。(『日本紀略』)
天禄二年(971)の年表
天禄二年(971)
1月
1月1日 元日節会
天禄二年(971)1月1日戊戌、節会があった。円融天皇がお出ましになった。音楽があった。
1月5日 右大臣大饗
天禄二年(971)1月5日壬寅、右大臣家(藤原伊尹)の大饗があった。盛明親王・大納言(源兼明)以下が参向した。(『日本紀略』)
3月
3月4日 天変
天禄二年(971)3月4日己亥、鎮星が月を貫いていた。(『日本紀略』)
4月
4月6日 地震
天禄二年(971)4月6日辛未、子の刻に地震があった。(『日本紀略』)
4月17日 斎院御禊
天禄二年(971)4月17日壬午、賀茂斎王(尊子内親王)が御禊を行った。(『日本紀略』)
4月29日 藤原伊尹 法華十講
天禄二年(971)4月29日甲午、摂政右大臣藤原伊尹が法華十講を修した。(『日本紀略』)
5月
5月2日 天変
天禄二年(971)5月2日丙申、申の刻、弁官東庁に虹が立った。そこで、これを占わせた。(『日本紀略』)
6月
6月21日 祈雨奉幣
天禄二年(971)6月21日乙酉、十六社へ祈雨奉幣が行われた。使者の参議はそれぞれ障りを申したので、賀茂社への使者は上卿中納言源雅信が勤めた。松尾社への使者は蔵人頭右近中将源惟正、平野社は殿上人内蔵頭藤原助信が宣旨によって勤めた。非参議の使者のため、次官はなかった。(『日本紀略』)
7月
7月6日 地震
天禄二年(971)7月6日己亥、地震があった。(『日本紀略』)
9月
この月、博士十市有象・助教十市以忠が中原宿禰の姓を賜った。(『中原系図』)
9月23日 斎宮群行
天禄二年(971)9月23日乙卯、斎宮(隆子女王)の群行があった。(『日本紀略』)
9月26日 藤原伊尹 賀茂詣
天禄二年(971)9月26日戊午、摂政右大臣藤原伊尹が賀茂社へ参宿した。(『日本紀略』)
これが、摂関家の人が賀茂詣を行った始まりである。(『公事根源』)
10月
10月1日 日食
天禄二年(971)10月1日癸亥、天は陰っていた。日食があり、廃務になった。(『日本紀略』)
10月2日 怪異
天禄二年(971)10月2日甲子、宜陽殿の物の怪により、諸卿は参らなかった。所司が饗を設け、外記・史がこれを着して退出した。(『愚昧記』)
10月23日 藤原伊尹 石清水八幡宮詣
天禄二年(971)10月23日乙酉、摂政右大臣藤原伊尹が石清水八幡宮に参宿した。(『日本紀略』)
10月29日 源高明 召還
天禄二年(971)10月29日辛卯、太宰員外帥源高明を召還した。使者は内舎人。(『日本紀略』)
11月
11月1日 御暦奏
天禄二年(971)11月1日癸巳、御暦奏があった。円融天皇はお出ましにならなかったので、内侍所に託した。(『日本紀略』)
11月2日 任大臣
天禄二年(971)11月2日甲午、叙位があった。(『公卿補任』)
- 藤原伊尹 右大臣 ▶ 太政大臣
- 源兼明 大納言 ▶ 左大臣
- 藤原頼忠 権大納言▶ 右大臣
天禄三年(972)の年表
天禄三年(972)
1月
1月1日 元日節会
天禄三年(972)1月1日壬辰、節会は通例のとおりであった。(『日本紀略』)
1月13日 太政大臣大饗
天禄三年(972)1月13日甲辰、太政大臣家(藤原伊尹)の大饗があった。親王および左大臣(源兼明)以下が参向した。音楽があった。(『日本紀略』)
2月
2月3日 藤原伊尹 子の日遊
天禄三年(972)2月3日甲子、藤原伊尹が斎院において子の日遊を行った。清原元輔が歌を詠んだ。(『元輔集』)
2月25日 火災
天禄三年(972)2月25日丙戌、京都で火災があった。(『蜻蛉日記)
閏2月
閏2月7日 源兼明 醍醐山陵詣
天禄三年(972)閏2月7日丁酉、左大臣(源兼明)が醍醐山陵に参詣した。(『日本紀略』)
閏2月10日 藤原伊尹 木幡山陵詣
天禄三年(972)閏2月10日庚子、太政大臣(藤原伊尹)が木幡山陵に参詣した。(『日本紀略』)
閏2月14日 怪異/大地震
天禄三年(972)閏2月14日甲辰、寅の刻、大地震があった。申の刻、宜陽殿が振動した。(『日本紀略』)
閏2月25日 御卜
天禄三年(972)閏2月25日乙卯、巳二刻、結政所の屋上で人の足音が聞こえたので現場へ行ったところ、誰もいなかった。そこで、これを占わせた。(『日本紀略』)
3月
3月4日 御卜
天禄三年(972)3月4日癸亥、宜陽殿の西の廂が振動した。そこで、御卜があった。(『日本紀略』)
3月18日 火災
天禄三年(972)3月18日丁丑、都で火災があった。(『蜻蛉日記』)
3月26日 藤原伊尹 法華八講
天禄三年(972)3月26日乙酉、太政大臣藤原伊尹が里第において法華八講を修した。(『日本紀略』)
3月28日 藤原伊尹 法華八講
天禄三年(972)3月28日丁亥、太政大臣藤原伊尹が法華八講を修した。公卿以下に捧物があった。(『日本紀略』)
3月29日 御卜
天禄三年(972)3月29日戊子、侍従所南庭の桜の木が、風がないのに自ら折れた。そこで、御卜があった。(『日本紀略』)
3月30日 藤原伊尹の法華八講 結願
天禄三年(972)3月30日己丑、太政大臣家(藤原伊尹)の法華八講が結願した。(『日本紀略』)
4月
4月17日 斎院御禊
天禄三年(972)4月17日丙午、賀茂斎院(尊子内親王)が御禊を行った。(『日本紀略』)
4月20日 源高明 帰京
天禄三年(972)4月20日己酉、太宰権帥源高明が太宰府より上洛した。葛野別屋に入った。(『日本紀略』)
4月28日 藤原伊尹 石清水八幡宮詣
天禄三年(972)4月28日丁巳、太政大臣藤原伊尹が石清水八幡宮に参詣した。音楽があった。(『日本紀略』)
4月29日 藤原伊尹 帰洛
天禄三年(972)4月29日戊午、太政大臣藤原伊尹が帰洛した。(『日本紀略』)
6月
6月24日 藤原伊尹 不動安鎮家国法
天禄三年(972)6月24日辛亥、太政大臣藤原伊尹が桃園殿に不動安鎮家国法を修させた。(『安鎮法日記』)
9月
9月1日 日食
天禄三年(972)9月1日丁巳、日食があった。廃務になった。(『日本紀略』)
10月
10月4日 藤原伊尹 度者を賜る
天禄三年(972)10月4日庚寅、摂政太政大臣正二位藤原伊尹が度者八十人を賜った。病を除くためである。(『公卿補人』)
10月22日 藤原兼通・兼家が口論
天禄三年(972)10月22日戊申、蔵人為長が藤原済時のもとに来て言ったことには「太政府(藤原伊尹)の辞表について、右大将(藤原兼家)・藤納言(藤原兼通)がともに殿上に伺候し、摂政を停止するべきだと奏上しました。その後、互いに誰が伊尹の後を継ぐのかということについて口論になり、執論する間、すでに罵言に及びました」という。(『済時記』)
10月23日 藤原伊尹が摂政を辞任
天禄三年(972)10月23日己酉、(藤原済時が)伝え聞いたことには「右大将(藤原兼家)は仰せを奉り、勅答を太政大臣(藤原伊尹)に伝えたことには『摂政は請いによって停止せよ。その他は従来通りである」ということです。内記が伺候していなかったので蔵人惟成にこれを作成させました」という。臣下の上表は数度に及ぶといえども、認めないものだ。ところが丞相(伊尹)は病になってから初めて上表し、すぐに摂政を停められたのは非常に旧典に反することだ。本当に天皇が前例に詳しくなかったとしても、これは伊尹の不忠の致すところである。去る春以来、世の人々の不平不満は充満している。これも伊尹の不忠のせいであろうか。(『済時記』)
11月
11月1日 藤原伊尹 薨去
天禄三年(972)11月1日丁巳、太政大臣藤原伊尹の病を救うために赦令の詔があった。(『日本紀略』)
しかし、酉の刻に藤原伊尹は薨じられた。(『済時記』)
11月17日 藤原頼忠 藤氏長者になる
天禄三年(972)11月17日癸酉、右大臣正三位藤原頼忠が藤氏長者となった。(『公卿補任』)
11月27日 藤原兼通 内大臣
天禄三年(972)11月27日癸未、権中納言藤原兼通が内大臣に任じられた。(『日本紀略』)
(藤原済時が)伝え聞いたことには「今日、権中納言(藤原)兼通朝臣を内大臣に任じ、播磨守守義朝臣を参議としました。冊命の儀は任大臣の儀と同様です」という。天応以来の公卿の任例を調べてみると、未だ大納言を経ずに内大臣に及び、この職に昇進した者はいない。本当に天皇が前例に疎かったとしても、特にまた右府(藤原頼忠)が争わなかったせいである。身分の上下を問わず驚き怪しまない者はいない。(『済時記』)
12月
12月6日 天文密奏
天禄三年(972)12月6日壬辰、天文博士安倍晴明が右兵衛陣の外において天文密奏を行った。また、天文博士中原以忠宿禰も天文密奏を行った。(『親信卿記』)
12月10日 河臨御禊
天禄三年(972)12月10日丙申、河臨御禊が行われた。(『親信卿記』)
天禄四年(973)の年表
天禄四年(973)
1月
1月1日 四方拝
天禄四年(973)1月1日丙辰、四方拝が行われた。(『親信卿記』)
1月9日 天文密奏
天禄四年(973)1月9日甲子、天文博士安倍晴明が天文密奏を行った。(『親信卿記』)
2月
2月5日 火災
天禄四年(973)2月5日庚寅、都で火災があった。(『蜻蛉日記』)
2月20日 藤原媓子 入内
天禄四年(973)2月20日乙巳、内大臣藤原兼通の娘媓子が入内した。(『日本紀略』)
4月
4月7日 藤原媓子 女御宣旨
天禄四年(973)4月7日庚寅、藤原媓子が女御になった。(『親信卿記』)
4月11日 斎院御禊
天禄四年(973)4月11日甲午、賀茂斎院(尊子内親王)が御禊を行った。(『日本紀略』)
4月19日 天文密奏
天禄四年(973)4月19日壬寅、天文博士安倍晴明が天文密奏を行った。(『親信卿記』)
5月
5月17日 大暴風雨
天禄四年(973)5月17日庚午、午の刻に大暴風雨があり、宮中の舎屋が顛倒・破損した。(『日本紀略』)
5月25日 賀茂保憲が前坊内舎の修理の忌みを勘申する
天禄四年(973)5月25日戊寅、主計頭賀茂保憲は前坊内舎の修理にあたり忌みの有無を勘申した。(『小右記』治安三年9月2日条)
5月26日 賀茂保憲が木工寮屋舎の修理の忌みを勘申する
天禄四年(973)5月26日己卯、主計頭賀茂保憲は木工寮屋舎の修理にあたり忌みの有無を勘申した。(『朝野群載』)
6月
6月26日 天文密奏
天禄四年(973)6月26日戊申、主税頭中原以忠が天文密奏を行った。(『親信卿記』)