陰陽道 平安時代

【平安時代】日食が起こるとどうなる!?

平安時代において日食があると、陰陽寮が中務省に予め伝えておき、中務省は文書を作成して太政官に知らせる。少納言が奏上した後、太政官は諸司に知らせる。(『延喜式』)

日蝕が暦通りなら褒美が出る

治安元年(1021)7月1日甲戌、暦博士賀茂守道の勘申したとおり日食があったので、守道は禄を賜ることになった。(『左経記』)

平安時代の日食

日食があった場合

朝廷におけるすべての政務が停止される

  • 承平七年(937)1月2日、日食により廃務となった。太后宮の饗は延期になった。(『吏部王記』)
  • 長徳四年(998)9月29日、翌日は日食となる予定なので、藤原行成は廃務すべき旨を中納言らに伝えた。(『権記』)
日食の日でも政務を行うことも

長保二年(1000)3月1日戊寅、日食のため例年通り廃務となるはずなのだが、結政が行われていた。藤原朝経曰く「陰陽寮から中務省に伝えられたが、中務省はまだ太政官に通知していなかったので、結政が行われる」ということだった。藤原行成は「中務省が通知しなかったからといって結政を行うのはいかがなものか」と問うた。返答はなかった。(『権記』)

日蝕の日と行事が重なった場合は延期になる

  • 安和元年(968)12月1日己酉、日食のため賀茂臨時祭が延期となった。(『北山抄』)
御暦奏の日(11月1日)が日食の場合

日食は毎月一日に起こることが多いが、陰陽寮の御暦奏の日(11月1日)と日食が重なっていた場合は延期となり、後日御暦奏を行う。

承平元年(931)11月3日丙戌、11月1日に日食があったので廃務となり、御暦奏は3日に延期されていた。(『年中行事抄』)

暦通りに日食が起こるとは限らない

平安貴族たちのなかには、日食が暦通りに来たか確かめている人もいる。

  • 長和元年(1012)8月1日、日食があった。暦通りであった。(『小記目録』)
  • 長和四年(1015)6月1日己酉、日食があった。暦通りであった。昔の勘文を見ると、康保四年6月1日の日食と似ていたようだ。(『小右記』)
  • 長和四年(1015)6月1日己酉、日食があった。時刻は暦通りであった。(『御堂関白記』)

日食を見ようとするも、悪天候によって見えないときもあった。

  • 天慶三年(940)11月1日壬戌、日食の予定だが、空が曇っていて見えなかった。(『日本紀略』)
  • 天徳三年(959)11月1日壬寅、日食の予定だが、雨が降っていて見えなかった。(『日本紀略』)

暦通りに日食が起こらなかったり、日食そのものは予定通り起こったが時間がずれていることもあった。

  • 寛平九年(897)9月1日癸酉、太政官奏によると日食がある予定だったが、日食はなかった。(『醍醐天皇御記』)
  • 長和元年(1012)8月1日丙申、日食があった。暦通りであった。ただし、一刻だけずれていた。未の刻に始まって、申の刻に終わった。よって、一刻ずれていた。(『小右記』)
  • 長和二年(1013)12月1日戊午、この日は日食の予定であったが、日食とはならなかった。暦家の失態か。(『御堂関白記』)

日食が確認できなくても廃務になる

  • 天慶五年(942)4月1日甲寅、日食は見えなかったが、廃務であった。(『日本紀略』)

暦と日食

日食の的中率

日食が予定通りに起こらなかった例

時期備考典拠
延喜元年(901)12月1日日食、食せず日本紀略

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