陰陽道 平安時代

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録―三条天皇

陰陽師たちの活動記録

三条天皇時代

寛弘八年(1011)

6月19日 安倍吉平が一条院御出家の時刻を勘申する

寛弘八年(1011)6月19日辛酉、辰の刻、(藤原行成が)沐浴しようとしたところ、右宰相中将(藤原兼隆)が一条院より示して言ったことには「ただ今、参るように」という。すぐに馳せ参った。(一条院の)御出家があった。右大弁が仰せを奉って(安倍)吉平朝臣に問うた。吉平が申して言ったことには「午の刻が吉です、辰の刻が、次に吉です」という。辰の刻は、墓時に入る。もっとも忌むべきである。御悩は重いといっても、やはり吉時に御出家を行うべきである。ところが吉平の申した次吉の説をこの時用いたのは、大変奇妙なことであった。(『権記』)

6月25日 陰陽寮が故一条院入棺の吉時を占う、賀茂光栄が藤原広業・橘為義とともに故一条院の葬送所を定める

6月25日丁卯、陰陽寮が一条天皇入棺の吉時を占った。→子三刻になった。
また、賀茂光栄は藤原道長の命で藤原広業・橘為義とともに一条天皇の葬送所の場所を定めた。(『御堂関白記』)

6月28日 賀茂光栄が源俊賢・藤原広業とともに故一条院の御陵所を検分する

6月28日庚午、賀茂光栄は源俊賢・藤原広業とともに金輪寺に登って故一条院の御陵所を見聞した。よい場所だということだった。(『御堂関白記』)

6月29日 陰陽師たちが三条天皇の内裏遷幸の日時について事情を尋ねられる

6月29日辛未、三条天皇の内裏遷幸は7月11日に予定されていたが、故一条院の葬送が7月8日に予定されており日時が近いため、内裏遷幸は8月11日に延期したほうがよいのではないかということになった。陰陽師たちは藤原道長に召されて事情を問われた。(『御堂関白記』)

7月1日 安倍吉平が三条天皇内裏遷幸の日時を勘申する

7月1日壬申、安倍吉平は藤原道長に召されて三条天皇の内裏遷幸の日時について問われた。吉平は「8月11日がよろしい。賀茂光栄とも意見が一致している」と申した。(『御堂関白記』)

7月3日 内裏遷幸の吉日が奏上される、陰陽寮の官人が陣座に召される

7月3日甲戌、藤原道長は源道方を介して、安倍吉平と賀茂光栄が「8月11日が内裏遷幸の吉日である」と申していると奏上させた。また、陰陽寮の官人が藤原道長によって陣座に召され、遷幸の日を定めるべきだと奏上した。(『御堂関白記』)

7月5日 賀茂光栄が藤原行成に先妣と源保光の改葬について問われる

7月5日丙子、大炊頭賀茂光栄は藤原行成に先妣と源保光の改葬を行うことについて問われた。光栄はこれを許諾し、行成は7月11日に改葬を行った。(『権記』同年7月11日条)

7月8日 故一条天皇の葬送に際して賀茂光栄が地鎮を行う

7月8日己卯、故一条天皇の葬送が行われ、寅四刻に大炊頭賀茂光栄が地鎮を奉仕した。(『権記』)

7月11日 賀茂光栄が中宮土殿移御の日時を勘申する

7月11日壬午、賀茂光栄は中宮土殿移御の日時を勘申した。方忌があったが、藤原道長に「勘申し直す必要はない。日取りも場所も変更してはならない」ということだった。(『小右記』)

しかし、7月12日癸未、中宮の移御は方忌によって17日に延期された。(『小右記』)

7月20日 賀茂光栄が金輪山へ赴く

寛弘八年(1011)7月20日辛卯、伝え聞いたことには「故院の御骸骨は、日頃、円成寺に安置し奉っていた。今日は吉日である。そこで小韓櫃のような物〈深蓋。〉を作り、御骨の囊を納めた。(中略)また、初め金輪山に埋めるため、源中納言及び陰陽師〈(賀茂)光栄朝臣。〉と他の人々が一緒にその場所に臨み、点定して絵図を描き、石の卒塔婆を作って設置した。(『小右記』)

8月11日 安倍吉平が内裏遷御に際して反閇を奉仕する

寛弘八年(1011)8月11日壬子、今日、内裏に遷御する行幸が行われた。(中略)主計頭(安倍)吉平が反閇を奉仕した。(中略)黄牛二頭を門の外に牽き立てた。左右馬寮の史生がこれを牽いた。吉平が門の壇上において北向きに呪を読んだ。(『小右記』)

8月12日 安倍吉平が反閇を奉仕する

寛弘八年(1011)8月12日癸丑、(前略)行幸のとき、東三条において御反閇はなかった。内裏において(安倍)吉平が御反閇を奉仕した。黄牛が二頭あった。新宅の儀を用いたものである。(『権記』)

8月16日 安倍吉平が悠紀の行事を務めることになる

寛弘八年(1011)8月16日丁巳、(前略)早朝、大外記敦頼朝臣が記し送って言ったことには「夜部、雑事を定められた」という。(中略)悠紀の行事<近江。>左中弁朝経 大蔵大輔内成 主計頭(安倍)吉平(『小右記』)

8月23日 大中臣実光が藤原行成の解除を行う

8月23日甲子の卯の刻、陰陽助大中臣実光は鴨川の河原において藤原行成の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)

8月15日 安倍吉平が悠紀の郡の検校を務める

8月15日丙辰、安倍吉平は橘内成、源任らとともに悠紀の郡の検校を務めることになった。(『御堂関白記』)

8月23日 安倍吉平が悠紀・主基の行事所を始める日時を勘申する

寛弘八年(1011)8月23日甲子、(前略)悠紀・主基の行事所を始める日時を勘申させるように命じた。すぐに(安倍)吉平に命じた。(『小右記』)

9月2日 安倍吉平が鳩の怪異について占う

9月2日壬申、主計頭安倍吉平が8月28日の午の刻に発生した鳩の怪異について占った。その結果は、以下であった。

初伝大吉
騰蛇
中伝徴明、天后
終伝従魁、玄武
卦遇聯茹

怪異が起こった日から40以内、11~12月に怪異が起こった場所にいた丑・未・辰・戌年の人に病事があるということだった。(『権記』)

9月10日 陰陽寮が大嘗会御禊の日時を勘申する

9月10日庚辰、陰陽寮は大嘗会御禊を行う吉日吉時を勘申した。(『小右記』)

9月21日 陰陽師が祭斎に籠もらない

寛弘八年(1011)9月21日辛卯、(前略)「景理朝臣が言ったことには『一日の天地災変祭の用途料米は五十石である。ところが、蔵人及び陰陽師は祭斎に籠もらなかった。そこで、その□饗を止めた。饗の米十石を用いなかった」という。宣旨にて四十石に改めるようにと右中弁朝臣に命じた。左中弁が宣旨を下した。すぐに同弁に下給した。(『小右記』)

9月29日 安倍吉平の弟子が刃傷沙汰を起こす

寛弘八年(1011)9月29日己亥、この夕方、布衣の者が東宮の御在所の西簀子に上った。主殿監内蔵有孝が追いかけて搦め捕えたとき、布衣の者は刀を抜いて有孝を突き刺し、逃げ去った。有孝は負傷した。それでもなお追いかけて南殿に庭を渡り、西門を出た。大宮路から南行して遠くへ走り去った。陽明門に人の従者・牧童がいた。偸児が逃げ去ったと聞いて、これを呼び(欠字)。相迎えて捉えようとしたが、刀を抜くところをみた。捕えることができず、逃げ去った。有孝が傷を負った箇所は非常に多かった。その時、左大臣(藤原道長)は大内裏に伺候されていた。女史文室時子の知らせを聞いて、すぐに宮(敦成親王)のもとに参った。件の布衣の者について尋ねられた。「有孝がその顔を知っている」という。このことによって検非違使(豊原)為時宿禰を差し遣わし、(藤原)連遠・(甘南備)保資・(林)重親を(欠字)向かわせた。「これは則ち、陰陽得業生兼穀倉院蔵人の者、つまり(安倍)吉平朝臣の弟子である」という。使者の官人が彼の邸宅に向かい、このことについて問うた。「件の男は、年来、見仕(欠字)者です。しかし、右衛門尉(藤原)宗相のもとにいます」という。使者の官人が宗相の邸宅に着いて尋ね問うたところ「件の男は、非常に姦心の気配がありました。そこで親しくならず追放しました。少将命婦の従女の夫として、院中に出入りしております」ろいう。「確かに捕らえたことを召し仰せました」という。(『権記』)

10月24日 安倍吉昌が天文密奏を行う/賀茂光栄が日時を勘申する

寛弘八年(1011)10月24日癸亥、(前略)申の初刻頃、天文博士(安倍)吉昌朝臣が(天文)密奏を春宮大進(橘)則隆朝臣に伝え、左大臣(藤原道長)に奉った。すぐに大臣が封を加えさせ、内裏に持ち参った。変異があった時は、(天文)博士が奏請に伺候し、一上が封をして相次いで上奏する。通例である。
(中略)夜に入って、主計官人代茂方が来て、冷泉院が崩御されたことを申した。
上皇は、村上天皇の太子である。母は皇后藤原氏(諱は安子。)故前右大臣正二位(藤原)師輔朝臣の長女である。寛和(花山天皇)・当今(三条天皇)の両帝の父である。春秋六十二歳。去る九月からご病気であった。万方、癒えなかった。去る(欠字)日、大炊頭(賀茂)光栄朝臣を召して占わせた。言ったことには「壬・癸の日を過ぎてはなりません」という。(光栄の)占いは推して掌を指し示している。陰陽の道に優長する者と称すべきであろう。(『権記』)

10月25日 安倍吉平が故冷泉院入棺の日時を勘申する

10月25日甲子、「主計頭」安倍吉平は藤原道長の命で故冷泉院入棺の吉日吉時を勘申した。→当日の亥の刻に入棺、申の刻に棺の作始、11月16日に葬送を行うのがよいと申した。(『御堂関白記』)

11月1日 御暦奏

11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)

11月13日 安倍吉平が故冷泉院の葬送所と御陵所を検分する

11月13日壬午、安倍吉平は藤原惟貞とともに故冷泉院の葬送所と御陵所を検分した。吉平は、桜本寺の北方にある平地が葬送所と御陵所によいと申した。(『御堂関白記』)

11月20日 賀茂光栄が一条院の遷御・三条天皇の即位式・故冷泉院の御葬送について述べる

寛弘八年(1011)11月20日己丑、大炊頭(賀茂)光栄朝臣が来た。語ったついでに述べて言ったことには「去年、枇杷殿から一条院に行幸された日、申・酉の吉時を選び申しました。ところが、凶時の戌の刻に及びました。戌の刻は六壬の天網です。天網は、万物が悉く尽きます。身は死に、家は亡びます。また、去る十月十六日に御即位が行われました。辰二刻を選び申しました。ところが、辰三刻に行幸が行われました。巳の刻に即位されました。巳の刻は、五不遇時です。天一が卯に臨みます。最も凶の卦です。また、冷泉院の御葬所に堀を掘ったことについて、当月は塡星直月です。塡星は、土曜です。土曜の直月は、犯土を最も忌むべきです。しかし、確かに調べて行われませんでした。大変奇妙なことです」という。(『権記』)

11月25日 賀茂光栄が藤原実資の息子の元服の日時を勘申する

11月25日甲午、大炊頭賀茂光栄は藤原実資の息子観薬の元服の吉日吉時を勘申した。
→翌年1月26日甲午の戌二刻または亥二刻になった。(『小右記』)

12月21日 安倍吉平が仏事を忌むべきだと申す

寛弘八年(1011)12月21日庚申、晩、(藤原行成は)左府(藤原道長)のもとに参った。御櫛を梳っていることを聞いて、退出した。邸宅に到ったのは、日暮れ頃であった。御随身近衛(伴)友成が来て、(道長が)召しているということを告げた。夜に入って、(行成は)参り向かった。古今の雑事について示されたことが非常に多かった。
「二十五日は季御読経を行うと定めた日である。ところが、(安倍)吉平がその日は仏事を忌むべきだと申した」という。吉平は「大臣の説です。初めに御読経を行われることについては、選び申すのは難しいのです」という。よって、行われるべきではないだろうか。行成は吉平の説は妥当であるということを申した。(『権記』)

12月29日 陰陽寮が追儺を行う

12月29日戊辰、陰陽寮が追儺を行うために建礼門院に至ると、惟宗文高が追儺の王の装束が揃っていないと責める声が聞こえてきた。装束の破損がひどかったので、準備に時間がかかった。陰陽寮は桃の弓と葦の矢を配った。(『権記』)

寛弘九年/長和元年(1012)

3月14日 陰陽師たちが七瀬祓を行う

3月14日辛巳の辰の刻、七人の陰陽師(詳細不明)が藤原道長に召されて、二条大路~川合瀬までの七瀬祓を行った。陰陽師たちは禄を賜った。(『御堂関白記』)

4月10日 安倍吉平が中宮御所で発見された厭物について占う、陰陽師たちが解除を行う

4月10日丁未、安倍吉平は中宮御所の井戸で発見された厭物について占った。厭物だということだった。(『御堂関白記』)

4月11日 中宮御所の井戸で厭物が発見されたので、陰陽師たちが解除を行う

4月11日戊申、中宮御所の井戸の水を汲み上げたところ魘魅の餅や人の髪の毛があったので、陰陽師たちが解除を行った。(『御堂関白記』)
また、賀茂光栄と安倍吉平が占ったところ、呪詛の気がみられた。(『小右記』)

4月27日 「陰陽師」が藤原娍子立后宣命作成の日時を勘申する

4月27日甲子の未の刻、藤原娍子せいし立后宣命の作成が命じられた。陰陽師(詳細不明)は子の刻を勘申したが、三条天皇がその時間は夜半ということで、未の刻とした。陰陽師たちは不満を漏らした。(『御堂関白記』)

5月3日 賀茂光栄が蜈蚣の怪異について占う

5月3日庚午、賀茂光栄は4月27日戌刻に起こった蜈蚣の怪異について占った。(『小右記』同年5月4日条)

5月21日 安倍吉平が故一条院の法事について説明する

5月21日戊子、ある人が「円教寺は大将軍の方角にあたるので、法事を行うのはよろしくない」と言った。安倍吉平は藤原道長に召されて事情を問われた。
吉平は「そのような前例は何度かあったので、まったく慎む必要はない」と申した。(『御堂関白記』)

6月2日 賀茂光栄・安倍吉平が大嘗会行事所始の吉日を勘申することになる

長和元年(1012)6月2日戊戌、(前略)四日に陰陽寮に日時を勘申させなければならない。先日、(賀茂)光栄・(安倍)吉平朝臣が四日を吉日と申した。これは内々の事である。もし日時を勘申させるようにと仰られたら、さらに転じて来て命じるべきではない。ただ、早く陰陽寮を戒め、その日に勘申させるようにと左中弁に命じた。(『小右記』)

6月4日 大嘗会行事所始の日時勘文が進上される

6月4日庚子、大炊頭賀茂光栄と陰陽頭惟宗文高が署名していた大嘗会行事所始の日時勘文(6月4日の申二刻または酉二刻)が進上された。(『小右記』)

6月8日 藤原彰子の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を行う

6月8日甲辰、藤原彰子の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕した。その際、鵄が死んだ鼠を落としたので、光栄は怪しんだ。(『小右記』)

6月14日 賀茂光栄が藤原道長の病について占う

6月14日庚戌、賀茂光栄は藤原道長の病について占った。(『小右記』)

6月16日 賀茂光栄が春日社の怪異について占う

6月16日壬子、賀茂光栄は春日社の怪異について占った。藤原道長及び卯・酉・丑・未年の男、巳・亥・卯・酉年の女に病気があり、その時期は怪異の日(6月12日)から30日以内及び10月、翌年1月または4月の甲乙の日ということだった。(『小右記』)

6月17日 陰陽師が藤原道長を呪詛する

長和元年(1012)6月17日癸丑、(前略)「先日、左府に落書きがあった」という。「民部大輔為任が陰陽師五人に呪詛を行わせた」という。「その事は、和泉国にいる珎保方宿禰が知行した」という。相府は一生の間にこのようなことが絶えない。事に坐した者は、すでに例の事である。悲嘆するだけである。(『小右記』)

6月28日 安倍吉平が虹の怪異を占う

長和元年(1012)6月28日甲子、(前略)今日、申の刻、虹が左相府・左衛門督・左宰相中将の家・一条大北方の宅に立った。これは(安倍)吉平朝臣が宰相中将の許において述べたことである。占い申したところ「左府・左金吾の虹の怪異は、非常に不吉です。ただし宰相中将の虹は、特に変わったことはありません」という。今日と明日は左府・金吾、春日社の物忌の日である。重ねてこの怪異があった。如何であろう。(『小右記』)

7月27日 安倍吉平が勅禄を下給される

長和元年(1012)7月27日癸巳、(藤原)資平が内裏より退出して言ったことには「昨日、(安倍)吉平を召し、勅禄を下給しました。思うに、これは占い申したことが当たったからです。〈昨日、発られなかったからである。〉」という。(『小右記』)

8月6日 安倍吉平が大祓使発遣の吉日吉時を勘申する

長和元年(1012)8月6日辛丑、左中弁(藤原経通)が大祓使を発遣する日時勘文〈今月八日、時刻は巳・午。〉を持ってきた。官符を作らせるように命じた。弁が言ったことには「その日は臨時奉幣の日です。政を行うべきではありません。これを如何しましょう」という。答えて言ったことには「その日は官符を造る。十一日は考定の政を行うだろうか。そのついでに捺印し、同日に発遣すれば、何事かあるだろうか」という。十一日は、勘申によると「家の奉幣を儲ける日」という。神事は吉日に依るか。重ねて(安倍)吉平朝臣に問うたところ、吉日だと申した。その日に請印してすぐに発遣すれば、難はないだろうか。式のとおりであれば「上旬に発遣する」という。(『小右記』)

閏10月16日 安倍吉平が宇佐奉幣使発遣の儀の御禊を奉仕する

閏10月16日庚辰、安倍吉平は藤原道長に召されて、宇佐奉幣発遣の儀の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

閏10月18日 安倍吉平と賀茂光栄が積善寺の焼亡について占う

閏10月18日壬午、安倍吉平と賀茂光栄は藤原道長に召されて、積善寺の焼亡について占った。祟りはないということだった。(『御堂関白記』)

閏10月19日 安倍吉平が斎場所を占う/陰陽寮が斎場に関する諸々の日時を勘申する

閏10月19日、安倍吉平は斎場所の大将軍と王相について申したが、誤りであった。
また、陰陽寮が大嘗宮造営の材料を準備する日時(閏10月28日)、大嘗宮造営開始の日時(11月1日)、萱を刈る日時(11月4日)、□(欠字)柏を準備する日時(11月5日)、斎場所の井戸を掘る日時(11月8日)を勘申した。(『小右記』『長和度大嘗会記』)

12月8日 陰陽師が召されない

長和元年(1012)12月8日辛未、これより後に行われる公事は非常に多いが、日次がよろしくない。そこで、十五日以後の暦日を書かせて諸卿と一緒に定めて奏聞した。陰陽師を召さなかった。夜に入って退出した。皇太后宮に伺候した。(『御堂関白記』)

長和二年(1013)

1月10日 東宮の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

1月10日壬寅、東宮が枇杷殿に行啓するため、右京権大夫賀茂光栄は藤原道長に召されて反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)禄を賜った。(『小右記』)

1月16日 陰陽師たちが藤原妍子の郁芳門第遷御の吉時を勘申する/安倍吉平が反閇を奉仕する

長和二年(1013)1月16日戊申、陰陽師たちは藤原妍子の郁芳門第遷御の吉時を勘申した。→戌の刻となった。(『御堂関白記』)

戌二刻、行啓が行われた。〈糸毛の御車。〉(安倍)吉平が反閇を奉仕した。(『小右記』)

2月5日 賀茂光栄が宇佐使発遣の可否について占う

長和二年(1013)2月5日丁卯、賀茂光栄は宇佐使発遣の可否について占った。穢の恐れがあるので、慎む必要があるということだった。(『小右記』)

2月25日 安倍吉平が泰山府君祭を行う

長和二年(1013)2月25日丁亥、(前略)今夜、(安倍)吉平朝臣に泰山府君祭を行わせた。余(藤原実資)は祭場に出て、奠礼に従った。この間、小雨が降っていた。人に笠をささせて、拝礼した。予(実資)が戯れて言ったことには「雨衣と称する」という。大褂を吉平朝臣に被けた。(『小右記』)

2月27日 惟宗文高が手結の日を勘申する/安倍吉平が馬留屋の方角を占う

長和二年(1013)2月27日己丑、(前略)右近将監(播磨)保信が(惟宗)文高朝臣の勘申した手結の日の文〈九日・十日。〉を持ってきた。見終わって、返給した。すぐに将たちに告げるよう命じた。
また、言ったことには「馬留屋のことについて、頭弁(藤原朝経)が言ったことには『(安倍)吉平朝臣に問われたところ、申して言ったことには「御忌方には当たりません」ということでした。ただし、未だ奏聞しておりません。まず告げ伝えたところです』ということでした」という。(『小右記』)

2月28日 安倍吉平が馬留舎を立てる方角を占う

長和二年(1013)2月28日庚寅、(前略)頭弁(藤原)朝経が言ったことには「馬留舎を立てるべき方角について、(安倍)吉平朝臣に勘申させました。勘申して言ったことには『御鬼吏の方角に当たります。本条に言ったことには「絶命・禍害・鬼吏の方角の三百歩の内は、犯土を忌まなければならない」ということです。ところが、この馬留舎はすでに四百歩の内です。忌まれる必要はありません』ということでした」という。(『小右記』)

3月20日 安倍吉昌が藤原娍子の内裏参入に際して反閇を奉仕する

長和二年(1013)3月20日辛亥、今日の夕方、皇后宮(藤原娍子)が内裏に参入された。前日の令旨によって出車を奉った。丑の刻頃、(藤原)資平が内裏より罷り出て言ったことには「亥の刻、皇后が内裏に入りました。〈輿に乗った。〉陽明門及び朔平門から入りました。御輿を后町の廊に寄せました。ただし、宣耀殿の南又廂の東隔を壊して御輿の通り路としました。承香殿を御在所としました。本宮において、上達部・侍従・諸衛に饗録がありました。反閇を行うため、(賀茂)光栄・(安倍)吉平の朝臣を召しましたが、参入しませんでした。そこで、(安倍)吉昌朝臣に〈『吉昌は侍従の陣に伺候していた。そこで、すぐに召し仰られて奉仕させられたのである』という。後日、大夫(藤原懐平)が示したことである。〉奉仕させました。(『小右記』)

4月11日 安倍吉平が竈神の祟りに対する解除を行う

4月11日壬申、安倍吉平は藤原道長に竈神の祟りがあったので、解除を行った。(『御堂関白記』)

5月4日 陰陽寮が祈年穀使出立の日時と季御読経の日時を勘申する/三人の陰陽師が藤原妍子の御禊を奉仕する

5月4日甲午、陰陽寮は祈年穀使出立の日時と季御読経の日時を勘申することになった。(『小右記』)
また、三人の陰陽師(詳細不明)が藤原妍子の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

5月9日 安倍吉平が祈年穀奉幣の日時を勘申する/安倍吉昌の辞表について三条天皇が藤原道長に問う

5月9日己亥、安倍吉平は祈年奉幣の吉日を勘申した。17日になった。
また、三条天皇は藤原道長へ「天文博士」安倍吉昌の辞表を見たか問うた。道長は「見ていない」と答えた。辞表は、藤原隆佐が奏上したという。(『御堂関白記』)

5月12日 藤原隆佐が安倍吉昌の辞表を藤原道長に見せなかったことについて勘事に処される

5月12日壬寅、藤原隆佐が安倍吉昌の辞表を藤原道長に見せずに奏上したことついて勘事に処された。(『御堂関白記』)

5月20日 安倍吉平と賀茂光栄が東宮の病について占う

5月20日庚戌、安倍吉平と賀茂光栄は藤原道長に召されて東宮の病について占った。病状は重いということだった。(『御堂関白記』)

6月6日 賀茂光栄が本命星祭を奉仕する

6月6日丙寅、賀茂光栄は本命星祭を奉仕した。(『御堂関白記』)

6月11日 賀茂光栄が藤原道長に禊を行う

6月11日辛未の午刻、藤原道長の服喪が明けたので、賀茂光栄は禊を行った。(『御堂関白記』)

6月27日 賀茂光栄が藤原頼通・藤原教通の着陣日時を勘申する

6月27日丁亥、賀茂光栄は藤原道長に召されて、藤原頼通と藤原教通が陣座に着する吉日を勘申した。22日となった。道長は7月3日は如何か問うと、光栄は大禍日に当たると答えた。
しかし、道長は「延喜八年二月丙午は大禍日であったが、藤原忠平をはじめとした人々は着座したので忌む必要はない」とし、光栄も同意した。(『御堂関白記』『小右記』)

7月1日 賀茂光栄が内裏にて転倒した御樋殿の吉凶を占う

長和二年(1013)7月1日辛卯、賀茂光栄は29日午の刻に転倒した内裏の御樋殿について吉凶を占った。その日、風は吹いていなかった。特に問題はなく、喜ばしいことがあるということだった。(『御堂関白記』『小右記』)

7月2日 安倍吉平・賀茂光栄が御樋殿の顛倒を占う

長和二年(1013)7月2日壬辰、(前略)また、言ったことには「御樋殿が理由もなく顛倒したことについて、(安倍)吉平が三条天皇のご病気を占い申した。申して言ったことには『普通の人にとっては、慶賀の象徴と称すべきでしょう。けれども帝王においては、御慎みを申すべきことを奉りました』という。
今日、(賀茂)光栄に占い申させたところ、勘申したところの趣旨はおおむね吉平と同じであった。ただし、推条が定位について申したのは、もっとも忌諱があった。この推文を削るよう命じた。ただし、詞で詳しいことを奏上させるよう、同じく命じておいた」という。(中略)
御樋殿の顛倒の御卜のことを頭弁(藤原朝経)に問い遣わした。書き送って言ったことには「六月二十九日の午時、怪異を目撃した。〈御樋殿が理由なく顛倒した。〉占った。『六月二十九日、己丑。時刻は午に加えた。〈七月節、怪異を目撃した時刻。〉神后は丑に臨んで用とする。将は天一。中伝は徴明・天后。終伝は河魁・大陰。御行年は卯の上、功曹・朱雀。卦遇は聯茹。これを推すに〈「初め、帝位に御厄があるのではないと申した」という。ところが左府(藤原道長)が改めて書いたためである。〉御厄のことがあるのではない。もしくはご病気があるのだろうか。時期は怪異の日から二十日以内及び来たる十一月・十二月中の甲・乙の日である。何を以てこれを言うのかというと、占う人は、君、天一は老廃を免れ、用は神后に起ち、将は天一を帯びる。艮は丑上で、丑の大神に臨むのである。大神は秋に老気を帯びるのである。また、用は老気が勝る所に起つ。法が疫病を憂えるからである。その時期になったらご病気を慎む。祈祷を行えば、その咎はないだろうか。〈光栄の占方。〉』という。吉平はただご病気・口舌のことを占い申した」という。(『小右記』)

7月6日 「陰陽師」が藤原妍子の御産を占う

7月6日丙申、藤原妍子が産気づいた。陰陽師(詳細不明)は藤原道長に召されて、御産について卜占を行った。(『御堂関白記』)

7月7日 賀茂光栄が翌日の沐浴について説明する

7月7日丁酉、藤原道長の女房たちが「明日は沐浴を忌む日である」と言うので、道長は賀茂光栄を召して問うた。光栄は「根拠のないことであり、文書にもそのような例はない」と答えた。光栄は明日の沐浴は吉だという勘文を献上した。(『御堂関白記』)

8月10日 賀茂光栄が藤原実資の西対に移る日、小児の着袴の日時を占う

8月10日己巳、右京権大夫賀茂光栄は藤原実資が西対に移る日と小児(藤原千古)の着袴の吉日を占った。
→11月16日になった。(『小右記』)

8月13日 惟宗文高が鬼気祭を行う

8月13日壬申の夜、西門において惟宗文高が鬼気祭を行った。(『小右記』)

8月25日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原実資の小児の病について占う

長和二年(1013)8月25日甲申、小児の身はまだ熱かった。ただし、心性は通常どおりであった。(賀茂)光栄・(安倍)吉平が占って言ったことには「特に祟りはありません。また、重くはありません」という。〈占いの推条は、詳しく記さなかったのみである。〉(『小右記』)

9月1日 賀茂光栄が藤原実資の物忌の軽重を占う

長和二年(1013)9月1日庚寅、賀茂光栄は藤原実資の物忌の軽重を占った。軽いということだったので、実資は河原に出て解除を行った。(『小右記』)

9月11日 安倍吉平が斎王御禊の吉日を勘申する

長和二年(1013)9月11日庚子、(前略)斎王御禊の日のことがあれこれしている。そこで、行事の上卿の許〈(藤原)行成卿。〉に問い遣わした。その報せに言ったことには「(安倍)吉平は初め、野の宮を亥の方角と為しました。二十五日の節分以後は王相の忌みを避けなければなりません。そこで二十日・二十二日の間に行われるようにと申したことです。けれども、二十日の御衰日を避けるようにというのが、天皇のご気色でした。すぐに先例を調べ、方角を定めました。節分以後の御禊は、すでに数例があります。二十七日が最も吉日です。勘文を成させ、奏聞させました」という。(『小右記』)

11月8日 陰陽師たちが多武峯の鳴動について勘申する

11月8日丙申、多武峯寺にて藤原鎌足の御墓が鳴動したので、藤原道長は陰陽師たちに吉凶を問うた。陰陽師たちは、慎むべきだと申した。(『御堂関白記』)

12月9日 賀茂光栄が藤原道長の本命祭を行う

12月9日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に本命祭を奉仕した。(『御堂関白記』)

長和三年(1014)

1月15日 賀茂光栄が源頼定の立屋日を勘申する

1月15日壬寅、賀茂光栄は源頼定の立屋日を勘申した。(『小右記』)

1月26日 賀茂光栄と安倍吉平が南の泉に感嘆する

長和三年(1014)1月26日癸丑、右中弁(藤原)定頼朝臣が来て、慶賀を言上した。逢って清談した。慶賀の人々が多く来た。今日、南の泉を掘った。「その流れの源は山中にあった」と言った。たまたま尋ね得ただけである。霊水と称すべきである。見た者で、感嘆しない者はいなかった。先日、(賀茂)光栄が感嘆した。今日、(安倍)吉平が賞嘆した。陰陽家が言ったことには「希有のまた希有なことです」という。「出た場所の方角は、もっとも吉です」という。(『小右記』)

2月9日 賀茂光栄と安倍吉平が内裏焼亡による御在所について問われる

長和三年(1014)2月9日乙丑、賀茂光栄と安倍吉平は御在所について問われ「しばらく太政官に留まった後、東に移るのがよい」ということだった。(『小右記』)

2月10日 賀茂光栄と安倍吉平が三条天皇の松本曹司への移御を行う日時を勘申する

長和三年(1014)2月10日丙寅、賀茂光栄と安倍吉平は三条天皇が松本曹司へ移御を行う吉日吉時を勘申した。
→2月20日亥刻となった。(『小右記』)

2月13日 安倍吉平が藤原為任の下向を占う

長和三年(1014)2月13日己巳、早朝、伊予守(藤原)為任が来て雑事を談じたついでに言ったことには「来月九日に下向する。(欠字)朝臣が言ったことには『忌むべきではない』という。(安倍)吉平が言ったことには『忌まなければなりません』この間、これを如何しましょう」という。予(藤原実資)が答えて言ったことには「触穢の期間内に下向するのは、あってはならないのだろうか」という。詳しく記すことはできない。(『小右記』)

2月20日 三条天皇の松本曹司への移御に際し賀茂光栄が反閇を行う

長和三年(1014)2月20日丙子、三条天皇の松本曹司への移御に際し賀茂光栄は御所において反閇を奉仕した。(『小右記』)

2月21日 賀茂光栄・安倍吉平・皇延法師が鹿の怪異について占う

2月21日丁丑、賀茂光栄・安倍吉平・皇延法師が鹿の怪異について占った。口舌のことについて慎む必要があるということだった。(『小右記』)

3月1日 賀茂光栄が藤原道長邸に乱入した鹿の怪異について占う

3月1日丙戌の朝、鹿が藤原道長邸の南門に侵入し、馬出屋に登った。賀茂光栄が占ったところ「不忠の臣下がおり、不順の子がある」ということだった。(『小右記』)この結果に、道長は恐懼した。(『小右記』同年3月2日条)

3月6日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原実資邸の檜皮を葺く吉凶を勘申する

3月6日辛卯、賀茂光栄と安倍吉平は藤原実資邸の檜皮を葺く吉凶を勘申した。(『小右記』)

3月22日 皇太后藤原彰子の源頼通邸移御に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

3月22日丁未の夜、皇太后藤原彰子の権大納言藤原頼通への移御に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕した。(『小右記』)

3月24日 賀茂光栄が藤原実資の体調不良について吉凶を占う

3月24日己酉、藤原実資はここ数日体調が良くなかったので賀茂光栄に吉凶を占わせた。竈神の祟りということだった。(『小右記』)

4月9日 三条天皇・藤原妍子の遷御に際し、賀茂光栄が出門の方角を勘申する

4月9日甲子、三条天皇の遷御、藤原妍子の移御に際し、最初に占った陰陽師(詳細不明)は東門から出るように申した。
しかし、賀茂光栄が占ったところ、東方は大将軍が遊行しているので西門から出るようにと申した。(『小右記』)

長和三年(1014)は甲寅の年。大将軍の方位は北だが、春の甲子日~戊辰日は東方に遊行している。

4月23日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原道長邸行幸の日時を勘申する

長和三年(1014)4月23日戊寅、頭能信が(賀茂)光栄・(安倍)吉平を蔵人所に召し、左府(藤原道長)の第に行幸する日を勘申させた。能信は殿上に伺候した。蔵人(藤原)永信に伝え仰させて言ったが、詞は大変等閑であった。また、はっきりとしなかった。光栄が勘申した。〈来月十四日、時刻は卯。十六日、時刻は□(欠字)。〉あるいは言ったことには「今日、内々に左府において勘申した」という。(『小右記』)

5月16日 藤原道長邸行幸に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

5月16日辛丑、藤原道長邸への行幸が行われた。陰陽師(詳細不明)は卯二刻を勘申していたが、三条天皇は辰終刻になって紫宸殿にお出ましになった。
賀茂光栄が紫宸殿において反閇を奉仕した。(『小右記』)

5月24日 陰陽寮が造営始・立柱の日時を勘申する

5月24日己酉、陰陽寮は造営始・立柱の吉日吉時を勘申した。12月2日立柱となった。新暦が出来ていないため、甍を葺く日時は勘申しなかった。(『小右記』)

6月28日 賀茂光栄と安倍吉平が宋の医僧が送ってきた薬の吉凶を占う

長和三年(1014)6月28日壬午、宋の医僧が送ってきた薬には名称が記されておらず、実資は服用してもいいのか悩んだ。
そこで、賀茂光栄と安倍吉平が吉凶を占ったところ、よろしくないということだったので、実資は小児への薬の服用をやめた。(『小右記』)

6月25日己卯、藤原実資は宋の医僧恵清に小児の病を治すための薬を求めていた。(『小右記』)

10月11日 賀茂光栄が藤原道長の二条第造立に際し、犯土の禁忌について説明する

10月11日甲子、藤原道長の二条第造立に際し、賀茂光栄は「五星の月は犯土の禁忌がある」と伝えていた。(『小右記』)

10月19日 賀茂光栄が桑糸四疋を賜る

10月19日壬申、賀茂光栄は翌日逆修法事を修することによって、藤原実資から桑糸四疋を賜った。(『小右記』)

11月5日 賀茂光栄が皇延法師とともに春日明神の神告の真偽を占う

11月5日丁亥、賀茂光栄は皇延法師とともに昨夜の春日明神の神告について真偽を占った。二人とも虚言だと申した。(『小右記』)

11月17日 東宮敦成親王の朝覲に際し、賀茂光栄が反閇を行う

11月17日己亥、敦成親王の初めての朝覲に際し、右京権大夫賀茂光栄は反閇を奉仕して禄を賜った。(『小右記』)

12月15日 賀茂光栄・安倍吉平・惟宗文高が荷前の吉日を勘申する

12月15日戊辰、賀茂光栄・安倍吉平・惟宗文高は陣において荷前日の吉日を勘申した。(『小右記』同年12月17日条)

12月17日 賀茂光栄・安倍吉平・惟宗文高が荷前の吉日を勘申する

長和三年(1014)12月17日己巳、(前略)二十七日は復日である。前例があるのだろうか。勘申して送るようにと、大外記(菅野)敦頼に示し送った。報書に言ったことには「去る十五日、(賀茂)光栄・(安倍)吉平・(惟宗)文高が陣に伺候しており召したとき、定め申したことです。重日・復日を忌む必要はないとのことです」という。ただし承平六年の日記によると「(文)武兼が申して言ったことには『重日・復日を忌む必要はありません』という。そこで十五日己亥を撰び申した。けれども、同十六日に改定された。この日は往亡日・帰忌日である」という。故殿(藤原実頼)の応和元年十二月十四日の御記に言ったことには「荷前使を立てられる日に十九日・二十日を勘申した。『ところが、この両日に復日がある』という。他の日に改めて申させて、十七日を撰び申したのである」という。これらの例をいささか頭弁の許に記し送った。愚忠を致したのである。返状に言ったことには「驚いて仰せ事を見ました。二十七日はすでに復日です。明朝、案内を左相府(藤原道長)申そうと思います」という。
『村上御記』によると「応和元年十二月十四日、左大臣(藤原実頼)が蔵人(藤原)雅材に荷前使を定めさせた文・中務省の申した荷前の日を撰んだ文〈十九日・二十日。〉を奏上した。仰られて言ったことには『延喜十七年の例を調べると、復日を避けて定められていた。ところがこの両日は、共に復日がある。宜しく勘申を改めるように』という。しばらくして大臣(藤原実頼)は陰陽寮が改めて撰び申した荷前の日の文を奏上させた。〈十七日。〉仰って言ったことには『この日は、中宮(藤原安子)・東宮(憲平親王)が内裏に遷る。また、昌子内親王の着裳がある。そこで公卿・侍従は供奉しなければならない。そもそも二十一日は忌みがあるので撰び申さなかったのか』という。ただしまた問うたところ、申させて言ったことには『先日、戌の日を撰び申さなかった。由緒を調べたところ、戌の日は祠祀を忌みます。宗廟を祭ることに擬したのでしょうか。公卿が准えることを定め申しました』という。仰って言ったことには『延喜十七年の例を調べると、陰陽頭(文)房満が勘申して言ったことには「十二月十五日は往亡日に当たる。往亡は祠祀を忌む。准えるべき事である」という。ところが、やはり復日を避け、かの十五日を用いられた。今、その例により二十一日を用いると、何事かあるだろうか。ただしこの日は、また他の忌みがあるだろうか。宜しく問わせるように』という。申して言ったことには『戌の日は、また他の忌みはない。本来であれば、かの日に行うべきである』という」という。件の御日記の文を記し書き、二十日、頭弁の許に送った。(『小右記』)

長和四年(1015)

2月29日 安倍吉平・賀茂光栄が触穢の際の解除について進言する

2月29日庚辰、藤原道長は枇杷殿において穢に触れており、安倍吉平と賀茂光栄は「触穢の期間中は、御燈を奉らないことに対する解除は行うべきではない」と進言した。
しかし、道長に「穢のあるときは祓を行わなければならない」と却下された。
→3月1日辛巳、道長は鴨川において解除を行った。(『御堂関白記』)

3月2日 安倍吉平・賀茂光栄が興福寺南円堂の鴨について占う

3月2日壬午、安倍吉平と賀茂光栄は興福寺南円堂に留まった鴨について吉凶を占った。(『御堂関白記』)

4月3日 安倍吉平が着服・除服の吉日を勘申する

長和四年(1015)4月3日壬子、右金吾(藤原懐平)の娘(御匣殿)は服親ではないといっても、実に姪女と謂うべきである。祭事を承って行うことに、恐れるところがないわけではない。そこで早朝、(安倍)吉平朝臣を招き、着服・除服の日時を勘申させた。〈今日の酉四刻、坤の方角に着服する。六日乙卯の卯四刻に除服する。陽明門の末である。〉その時刻になると西門を出発し、少し南へ進み、これを帯びた。
(藤原)資平は余(藤原実資)の子としている。よって、服親ではない。けれども、実はまた、資平の妹でもある。今日、午四刻に着服した。六月十二日に除服する。これは同じく吉平が勘申したものである。資平は内裏に参る日が近く、吉日がない。わずかに忌日が神事に相当たることはない。ただし三ヶ月は、、心喪の装束を着用させなければならない。(『小右記』)

4月27日 安倍吉平が御修法の吉日を勘申する/賀茂光栄が高山・海若・四角四堺祭を行う

長和四年(1015)4月27日丙子、蔵人頭(藤原資平)が来て言ったことには「今日、左相府(藤原道長)は内裏に参られ、御修法の阿闍梨を定めて奏上されました。御修法の日は、(安倍)吉平が来月一日を勘申しました。また、高山・海若及び四角四堺祭は、(賀茂)光栄の上奏によって行われるところです。四角四堺祭は頭資平が勅を奉り、中納言(藤原)行成に命じました」という。また「晦日に為信真人が申したことにより、紅雪を服用されることになりました。吉平に占い申させたところ『優れて吉だということを申しました』ということでした。明日、出納を指名し、紅雪を広隆寺に遣わし、加持させることになりました」という。(『小右記』)

5月5日 陰陽寮が伺候することになる

長和四年(1015)5月5日甲申、史は未だ参り来ていない。そこで史奉親朝臣に、明日仁王会の例文を陣に揃えること、陰陽寮の官人を召して伺候させることを伝え命じさせた。(『小右記』)

5月6日 陰陽寮が仁王会の日時を勘申する/安倍吉平が四角祭を奉仕する

長和四年(1015)5月6日乙酉、陰陽寮は仁王会を行う吉日吉時を勘申した。5月15日甲午、発願が未二刻、結願が申二刻となった。(中略)「今夜、(安倍)吉平が四角祭を奉仕した。枇杷殿の四角である」という。(『小右記』)

5月12日 陰陽寮が大祓の日時を勘申する

5月12日辛卯、陰陽寮の大祓の日時勘文(5月13日壬辰、酉・戌の刻)が進上された。(『小右記』)

5月15日 陰陽寮が時刻を問われる

長和四年(1015)5月15日甲午、(前略)これより前、威儀師が法用に命じ、諸僧が呪願文を読んだ。ただ、惣講師に従い同音に読経した。また、朝講が終わった。諸僧は高座の下に座った。本来であれば、退出して夕講の鐘を打たせなければならない。けれども、あれこれ僉議して退出させなかった。申二刻、夕講の鐘を打った。〈陰陽寮に問い、時刻を知った。〉(『小右記』)

5月28日 安倍吉昌が地震勘奏を持参する

5月28日丁未の巳の刻に大地震があり、安倍吉昌が地震についての勘奏を持ってきた。(『御堂関白記』)

6月2日 安倍吉昌が日食勘奏を持参する

6月2日庚戌、安倍吉昌が前日に起こった日食についての勘奏を持ってきた。(『御堂関白記』)

6月7日 賀茂光栄 没

6月7日乙卯、右京権大夫賀茂光栄が没した。享年77歳。(『小右記』)

6月19日 安倍吉平が三条天皇の病を占う

長和四年(1015)6月19日丁卯、(前略)右衛門督(藤原懐平)が、内裏から三条天皇のご病気について詳しい状況を告げ送ってきた。(藤原)資平にこの事を問い遣わしたところ、言ったことには「(安倍)吉平が占い申して言ったことには『疫鬼と御邪気が祟りを為しております』ということでした」という。(『小右記』)

閏6月8日 安倍吉平が御読経の吉日を勘申する

長和四年(1015)閏6月8日丙戌、晩方、(藤原)資平が来て言ったことには「左大臣(藤原道長)が内裏に参りました。直廬において懺法御読経の僧名を定めました。〈十五口。〉資平がこれを書きました。来たる十六日より始め、五日間修されることになりました。僧名は右衛門督(藤原懐平)に下しました。僧綱が申請した御読経の日のことを(安倍)吉平に問われたところ、申して言ったことには『十七日はよろしい日です。行われるのに何事かあるでしょうか。また、攘災の事を延期するのは非常に便宜がないことでしょう』ということでした。そこで、その日から行うよう、権大納言〈(藤原)頼通。〉に命じました」という。(『小右記』)

『小右記』同年閏6月17日条:大極殿において仁王経御読経が行われた。

閏6月10日 安倍吉平が藤原道長邸の虹について吉凶を占う

長和四年(1015)閏6月10日戊子、前日の晩に夕立があり、土御門第に虹が現れた。安倍吉平が吉凶を占ったところ、大したことではないということだった。(『御堂関白記』)

7月8日 賀茂守道が仁統法師と暦を作成したいと申請する

長和四年(1015)7月8日乙卯、(前略)「暦博士(賀茂)守道が仁統法師とともに暦を作成して進上することを申請しました。これは、故仁宗法師の例です」という。〈仁宗はが(守道の)父光栄とともに作成して進上した例である。〉(『小右記』『小記目録』)

7月9日 藤原資平が、賀茂守道の申請文を藤原道長に見せる

長和四年(1015)7月9日丙辰、頭中将(藤原)資平が来て言ったことには「暦博士(賀茂)守道が申請した文を、昨日左相府(藤原道長)に覽せました。命じて言ったことには『復任後に申すように』ということでした」という。また、言ったことには「相府の足はよろしくありません。嘆息の気色がありました」という。(『小右記』)

7月12日 安倍吉平が藤原資平の病を占う

長和四年(1015)7月12日己未、早朝、(藤原)資平が言い送って言ったことには「昨日の夕方、内裏に参りました。御物忌に籠もり伺候しました。夜半頃、心神が突然悪くなり痢病が発動しました。疑わしいのは霍乱でしょうか。今朝、退出しました」という。子細、案内を問うたところ「もっぱら霍乱ではありません。頭が痛く、身が熱く、心神が非常に苦しいです」という。もしくは、これは疫病か。(安倍)吉平朝臣が占って言ったことには〈来て、時刻を問うた。病を患った時刻が確かでなかったからである。〉、「付いた所の霊が為したものです」という。たとえ邪気とはいっても、疫病が流行しているので加持を加えなかった。その旨を示し遣わした。報じて言ったことには「昨夜、内裏に伺候していた。付いたところの霊は、もしくは如何であろう」という。そこで、その場所を占わせた。推して言ったことには「内裏〈合っていない。〉、住む所〈住む所の霊か。〉。資平が病を患っている所は、平気がない」という。(『小右記』)

7月13日 安倍吉平が藤原資平の病を占う

長和四年(1015)7月13日庚申、(藤原)資平が病を患っている所は、邪気ではない。疫病のようである。そこで今朝、(安倍)吉平に重ねてその祟り及び平癒の時期を占わせた。占って言ったことには「疫気です。平癒の時期は、今日以後の甲・乙・丙・丁の日でしょうか」という。昨日は霊気だと占い、今日は疫気だと占った。何を以て定めているのか。午後、すこぶる通常通りに戻ったことを示し送った。夜に臨んで、様子を問い遣わしたところ「いよいよ平復の気配があります。飲食はよろしくありませんが、通常と異なりません」という。
今朝、皇延法師が占って言ったことには「悪治の身の上に疫病の気があります。ただし、三日間程はご病気の気配があるでしょうか。明日、平復するでしょうか。そうでなければ、丙・丁の日に平復するでしょうか」という。(『小右記』)

7月21日 惟宗文高の占方が到来する

長和四年(1015)7月21日戊辰、陰陽頭(惟宗)文高の占方が到来した。『このことを奉仕したところ、占いの感応があった』という。このようなことを僧家が漏らし奏上するのは、極めて便のないことであり、女房に託して奏上するようにと答えた。

7月28日 安倍吉平が穢を占う

長和四年(1015)7月28日乙亥、(前略)未の刻頃、中将が来て言ったことには「伊勢奉幣使の日は、来月十一日を勘申しました。穢によって延期したことについて、もしくは事に祟りがあるでしょうか。如何でしょう」という。(安倍)吉平朝臣は、外から来た穢によってこの穢があったことを占い申した。よく尋ねたところ「来月三日に至って、内裏に交わり到る穢があります」という。そこでこの穢があったのだろうか。「還って、感応があったようなものである」という。(『小右記』)

8月2日 安倍吉平が皇延法師と一緒に鷺の怪異を占う

長和四年(1015)8月2日己卯、昨日の鷺の怪異について(安倍)吉平が占って言ったことには「病事を慎むように」という。鷺の怪異は、故殿(藤原実頼)の時代から今に至るまで、必ず慶賀がある。けれども、占いの吉凶により、怪異の善悪を定めるだけである。〈怪異が起こった日から二十五日以内及び十月・明年正月中の甲・乙の日。皇延法師が推して言ったことには「甲・乙の日は慎むように。壬・癸の日に慶賀がある」という。時期は吉平と同じであった。〉(『小右記』)

9月5日 安倍吉平が穢を占う

長和四年(1015)9月5日壬子、(前略)穢について(安倍)吉平朝臣が占い申して言ったことには『邪気の妨げにより、延期したのでしょうか』という。(藤原)資平が勅を奉り、蔵人所において勘申させたのである。相府がさらに吉平を召し、覆問させただけである。(『小右記』)

9月16日 安倍吉平が鳥の怪異を占う

長和四年(1015)9月16日癸亥、(前略)今日、召使が占方を持ってきた。昨日の巳時、外記に物の怪がいた。烏が外記庁内に侵入した。大臣以下中納言以上の座、あるいは倚子・茵を喰い散らした。あるいは前机を倒した。占ったところ「今日、壬戌。時刻は巳〈怪異のあった日時。〉に加える。初伝は勝先で、申に臨んで用とする。将は天后である。中伝は天岡・騰虵。終伝は功曹・六合である。卦遇は元首・校童・佚女である」という。
これを推すに、怪異があった場所の巳・亥年の人に病事があるだろうか。時期は今日から四十五日以内及び明年五月・六月・七月中の戊・己の日である。 主計頭安倍吉平(『小右記』)

9月20日 安倍吉平が新造内裏遷御に同行する

長和四年(1015)9月20日丁卯、今日は遷宮行幸である。(中略)黄牛二頭を建春門の外に引き立てた。左右馬史生がこれを牽いた。(安倍)吉平朝臣の申したことにより、牽き立てたのである。前々、あるいは中隔に引き立てた。ただ、陰陽師の心か。御輿をまず建春門の外に留めた。神祇官が御麻を献じた。次に吉平朝臣が牛の前〈壇上。〉に立った。書を開いて読んだ。(『小右記』)

9月26日 安倍吉平が中宮妍子の内裏参入について吉日を勘申する

長和四年(1015)9月26日癸酉、安倍吉平は中宮藤原妍子の内裏参入の吉日を勘申した。10月3日となったが、暦上では月末から天一神が西にいる予定になっていた。吉平が改めて勘申したところ、11月28日となった。
三条天皇は方違を行って3日に参入すればよいと言ったが、藤原道長は断った。(『御堂関白記』)

9月28日 安倍吉平が三条天皇の病を占う

長和四年(1015)9月28日乙亥、頭中将(藤原)資平が言ったことには「主上の御目は、未だ滅気されていません。(安倍)吉平朝臣が占い申して言ったことには『旧い御願が未だ果たし奉られていないため、巽の方角の大神が祟っているのでしょうか。そこで宰相を差し遣わして春日に奉られなければなりません』ということでした」という。(『小右記』)

10月14日 安倍吉平が塗籠の戸柱を立てる日について勘申する

長和四年(1015)10月14日辛卯、先日、(安倍)吉平が今日塗籠の戸柱を立てるよう勘申した。ところが、大将軍が遊行しているうちは忌避すべきか否かということを重ねて示し送った。あれこれを述べず、二十三日を改めて勘申した。〈時刻は巳・午。〉すぐに使者に託して送った。初めて勘申した日は、思失したのであろうか。(『小右記』)

11月8日 安倍吉平が御元服の吉日を勘申する

長和四年(1015)11月8日甲寅、頭中将(藤原資平)が言ったことには「来月十四日に斎宮の御着裳、二十六日に女二宮の御着裳・四宮(帥明親王)の御元服が行われます。今日、(安倍)吉平朝臣が勘申したものです」という。〈後に聞いたことには「これらの日々はみな、かの宮たちの衰日です。そこで、改めて勘申することになりました」という。〉(『小右記』)

11月11日 安倍吉平・惟宗文高が虹の怪異を占う

長和四年(1015)11月11日丁巳、(前略)晩方、外記(清原)頼隆が申して言ったことには「昨日、外記庁に虹が立ちました。(安倍)吉平が占ったところ『寅・申・子・午年の人は病事を慎むように』という。(惟宗)文高が占って言ったことには『子・午・辰・戌年の人は病事を慎むように。怪異の日から三十日以内及び明年五月・六月中の壬・癸の日です』ということです。占方を進上するよう、召使に命じました」という。(『小右記』)

11月17日 安倍吉平が三条天皇の枇杷殿移御の吉日を勘申する

長和四年(1015)11月17日癸亥、内裏焼亡によって三条天皇が枇杷殿に移御することになった。安倍吉平が移御の吉日を勘申したところ、19日となった。19日の戌の刻、三条天皇は枇杷殿に移御を行った。(『御堂関白記』)

『小右記』同日条:(前略)相府が言ったことには「枇杷殿にいらっしゃることについて、先日不快であるご様子であった。これを如何しよう」という。藤原実資が申して言ったことには「まず、やはり両所のことを奏上されるのがよろしいでしょうか」という。すぐに奏聞されて「枇杷殿に遷御する」という。移御する日について(安倍)吉平朝臣に問われたところ、申して言ったことには「明後日及び二十八日が吉日です」という。藤原実資が申して言ったことには「明後日がよろしいのではないだろうか。もし延期すれば、しばらくいらっしゃる所に造作の煩いがあるだろう」という。

11月18日 安倍吉平が三条天皇の枇杷殿移御について勘申する

長和四年(1015)11月18日甲子、(前略)蔵人頭(藤原)資平が左大臣(藤原道長)の命を伝えて言ったことには「明日の行幸の時刻を勘申させるように。ただし、右少弁(藤原)資業に命じて陰陽寮を召し伺候させよ」という。内々に召し仰られたのであろうか。(中略)資業が明日の行幸の時刻〈戌二刻、亥二刻。〉・賢所を渡し奉るべき時刻〈同じ時刻。〉・御竈神を渡し奉るべき時刻〈同じ時刻。〉の勘文を持ってきた。行幸の時刻のほかに承った所はない。内々に相府が仰られたことであろうか。この勘文を左相府に奉った。この間、参入され、直衣を着用し、殿上に伺候されていた。資業が勘文を奉った。相府が命じて言ったことには「御竈神を移し奉る時刻は、行幸と同じである。事が指し合わさった時は、違えるか。子・丑の間の吉時がよろしいだろうか」という。(安倍)吉平朝臣に問われたところ「子の刻が吉です」という。勘文に記させ、これを奉った。藤原実資がまず見て、相府に奉った。資業に返給し、奏聞させた。相府が御出の門について問うた。吉平が申して言ったことには「東方が吉です」という。(『小右記』)

11月19日 安倍吉平が三条天皇の枇杷殿遷幸に際し反閇を奉仕する

長和四年(1015)11月19日乙丑、(前略)戌の刻、行幸が行われた。(安倍)吉平が反閇を奉仕した。(『小右記』)

12月22日 安倍吉平が藤原頼通の病を占う

長和四年(1015)12月12日戊子、(前略)夜に入って、(藤原)資平が来て言ったことには「未・申の刻頃、左将軍(藤原頼通)が万死一生の容態だということを、内供定基が走ってきて相府に告げました。相府は驚きながら将軍の家に馳せ向かいました。彼の家は、堅固の物忌でした。そこで、帥宮(敦康親王)の方にいらっしゃいました。相府の厩の馬を名社に奉献しました。思うに、将軍の病を救うためでしょうか。彼の家に犬の死穢がありました。そこで、相府の馬を献じました。将軍は汗を出して蘇生し、通常に戻りました。また、邪気が出てきました。(安倍)吉平が占って言ったことには『疫病と邪気が相交わっています』ということでした。(『小右記』)

12月27日 安倍吉平が三条天皇譲位の吉日を勘申する

長和四年(1015)12月27日癸卯、安倍吉平は三条天皇が譲位を行う吉日を勘申した。翌年の1月29日となった。29日、三条天皇から後一条天皇への譲位が行われた。(『御堂関白記』)

12月28日 安倍吉平・惟宗文高が三条天皇御譲位の吉日を勘申する

長和四年(1015)12月28日甲辰、(前略)左大臣(藤原道長)以下が藤原氏の上達部を率いて、准三宮の慶賀を奏上させた。その後、大臣は殿上に伺候した。(藤原)資平を介して(安倍)吉平・(惟宗)文高を蔵人所に召し、御譲位の日時を勘申させた。相府が言ったことには「文書に記さず、まず吉日を問うように」という。すぐに問うたところ、申して言ったことには「正月十三日・二十九日、この両日です」という。相府に申した。「ただし、両日では如何であろう」という。申して言ったことには「十三日は御斎会でしょうか」という。相府が言ったことには「もっともそうである。二十九日を勘申するように」という。すぐに勘文に載せ、覽せた。(『小右記』)

長和五年(1016)

1月2日 安倍吉平が後一条天皇の太政官移御と即位式の吉日を勘申する

長和五年(1016)1月2日丁未、(前略)今日、(安倍)吉平朝臣を介して新帝(後一条天皇)が太政官にいらっしゃる日及び御即位の日を問われました。〈太政官に移御する日は、来月十三日。御即位の日は十九日、甲午。〉」という。(『小右記』)

1月5日 安倍吉平が後一条天皇即位式の吉日を勘申する

長和五年(1016)1月5日庚戌、(前略)また、言ったことには「(後一条天皇の)御即位は来月七日壬午が十九日甲午に勝っています。これは(安倍)吉平が申したことです」という。案内を大納言(藤原公任)に問い達した。報じて言ったことには「来月五日に太政官に遷幸し、七日に御即位式を行う。これはほぼ定まった。十三日に決定があるだろう。また、三月に大宮院(一条院)へ遷御することになった。ただし、かの殿を改造しなければならない。故院(一条院)が崩御された場所だからである。これも同じく十三日に決定があるだろう。造宮の間、太政官に遷御するのは、御忌方に当たるであろう。土御門院からも、また御忌方に当たる。そこで、一条院へ遷御することになった」という。(『小右記』)

1月8日 安倍吉平が従四位下に叙される

長和五年(1016)1月8日癸丑、(前略)今日、女叙位があった。そのついでに主計頭(安倍)吉平を従四位下に叙した。朝恩の至りである。陰陽家で肩を並べる者がいないのだろうか。(『小右記』)

1月13日 安倍吉平が御即位・行幸の吉日吉時を勘申する

長和五年(1016)1月13日戊午、午の終刻に左相国(藤原道長)の許に参った。これより前に公卿が参って、御譲位ならびに御即位のことを定めた。大納言(藤原)公任が執筆し、御即位のことを書き出した。中納言(藤原)行成が寛平・延長・天慶・安和の日記を抄出した。(安倍)吉平が御即位の日〈来月七日、時刻は未。〉・同日の行幸の時刻〈辰。〉を勘申した。(中略)(安倍)吉平朝臣を召し、春宮大夫(藤原)斉信に伝えた。斉信は春宮亮(藤原)経通に伝えた。一条院に渡られる日を勘申させた。〈三月二日、時刻は未・戌。〉次に北対を改めて立てる日〈来月十四日。〉また、北対を壊し、ならびに院中の修造を始める日を同じく勘申した。〈明日。〉この日の勘文は左大臣(藤原道長)がこれを執り、太后に啓上した。(『小右記』)

1月15日 安倍吉平が後庁屋から大極殿の方角について述べる

長和五年(1016)1月15日、早朝、宮内省に参った。諸司が御竈の薪を奉ったのは、恒例のとおりであった。事が終わって退出する間、左大将は上達部及び主計頭(安倍)吉平朝臣を率いて宮内省にいらっしゃった。後庁屋を開き覽た。これは、新帝(後一条天皇)が来月五日に暫く遷御しなければならない議があったからである。また、この屋から大極殿は戌亥の方角に当たるか否かの定があった。そこで尺杖で丈尺を打った。当たらなかった。すぐに上達部を率いて帰り参られた。(『左経記』)

1月22日 安倍吉平が河臨祓を行う

長和五年(1016)1月22日丁卯、(前略)申の刻、河頭〈一条〉に出た。少女(藤原千古)のために河臨祓を行った。同車した。主計頭(安倍)吉平に綾の褂を被けた。(『小右記』)

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参考【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説

『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...

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