陰陽道 平安時代

【年表】平安時代の陰陽師たちの活動記録:三条天皇

陰陽師たちの活動記録

三条天皇時代

寛弘八年(1011)

6月25日 陰陽寮が故一条院入棺の吉時を占う、賀茂光栄が藤原広業・橘為義とともに故一条院の葬送所を定める

6月25日丁卯、陰陽寮が一条天皇入棺の吉時を占った。→子三刻になった。
また、賀茂光栄は藤原道長の命で藤原広業・橘為義とともに一条天皇の葬送所の場所を定めた。(『御堂関白記』)

6月28日 賀茂光栄が源俊賢・藤原広業とともに故一条院の御陵所を検分する

6月28日庚午、賀茂光栄は源俊賢・藤原広業とともに金輪寺に登って故一条院の御陵所を見聞した。よい場所だということだった。(『御堂関白記』)

6月29日 陰陽師たちが三条天皇の内裏遷幸の日時について事情を尋ねられる

6月29日辛未、三条天皇の内裏遷幸は7月11日に予定されていたが、故一条院の葬送が7月8日に予定されており日時が近いため、内裏遷幸は8月11日に延期したほうがよいのではないかということになった。陰陽師たちは藤原道長に召されて事情を問われた。(『御堂関白記』)

7月1日 安倍吉平が三条天皇内裏遷幸の日時を勘申する

7月1日壬申、安倍吉平は藤原道長に召されて三条天皇の内裏遷幸の日時について問われた。吉平は「8月11日がよろしい。賀茂光栄とも意見が一致している」と申した。(『御堂関白記』)

7月3日 内裏遷幸の吉日が奏上される、陰陽寮の官人が陣座に召される

7月3日甲戌、藤原道長は源道方を介して、安倍吉平と賀茂光栄が「8月11日が内裏遷幸の吉日である」と申していると奏上させた。また、陰陽寮の官人が藤原道長によって陣座に召され、遷幸の日を定めるべきだと奏上した。(『御堂関白記』)

7月5日 賀茂光栄が藤原行成に先妣と源保光の改葬について問われる

7月5日丙子、大炊頭賀茂光栄は藤原行成に先妣と源保光の改葬を行うことについて問われた。光栄はこれを許諾し、行成は7月11日に改葬を行った。(『権記』同年7月11日条)

7月8日 故一条天皇の葬送に際して賀茂光栄が地鎮を行う

7月8日己卯、故一条天皇の葬送が行われ、寅四刻に大炊頭賀茂光栄が地鎮を奉仕した。(『権記』)

7月11日 賀茂光栄が中宮土殿移御の日時を勘申する

7月11日壬午、賀茂光栄は中宮土殿移御の日時を勘申した。方忌があったが、藤原道長に「勘申し直す必要はない。日取りも場所も変更してはならない」ということだった。(『小右記』)

しかし、7月12日癸未、中宮の移御は方忌によって17日に延期された。(『小右記』)

8月23日 大中臣実光が藤原行成の解除を行う

8月23日甲子の卯の刻、陰陽助大中臣実光は鴨川の河原において藤原行成の服喪を明けさせるための祓を行った。(『権記』)

8月15日 安倍吉平が悠紀の郡の検校を務める

8月15日丙辰、安倍吉平は橘内成、源任らとともに悠紀の郡の検校を務めることになった。(『御堂関白記』)

9月2日 安倍吉平が鳩の怪異について占う

9月2日壬申、主計頭安倍吉平が8月28日の午の刻に発生した鳩の怪異について占った。その結果は、以下であった。

初伝大吉
騰蛇
中伝徴明、天后
終伝従魁、玄武
卦遇聯茹

怪異が起こった日から40以内、11~12月に怪異が起こった場所にいた丑・未・辰・戌年の人に病事があるということだった。(『権記』)

9月10日 陰陽寮が大嘗会御禊の日時を勘申する

9月10日庚辰、陰陽寮は大嘗会御禊を行う吉日吉時を勘申した。(『小右記』)

10月25日 安倍吉平が故冷泉院入棺の日時を勘申する

10月25日甲子、「主計頭」安倍吉平は藤原道長の命で故冷泉院入棺の吉日吉時を勘申した。→当日の亥の刻に入棺、申の刻に棺の作始、11月16日に葬送を行うのがよいと申した。(『御堂関白記』)

11月1日 御暦奏

11月1日、御暦奏が行われた。(『小記目録』)

11月13日 安倍吉平が故冷泉院の葬送所と御陵所を検分する

11月13日壬午、安倍吉平は藤原惟貞とともに故冷泉院の葬送所と御陵所を検分した。吉平は、桜本寺の北方にある平地が葬送所と御陵所によいと申した。(『御堂関白記』)

11月25日 賀茂光栄が藤原実資の息子の元服の日時を勘申する

11月25日甲午、大炊頭賀茂光栄は藤原実資の息子観薬の元服の吉日吉時を勘申した。
→翌年1月26日甲午の戌二刻または亥二刻になった。(『小右記』)

12月29日 陰陽寮が追儺を行う

12月29日戊辰、陰陽寮が追儺を行うために建礼門院に至ると、惟宗文高が追儺の王の装束が揃っていないと責める声が聞こえてきた。装束の破損がひどかったので、準備に時間がかかった。陰陽寮は桃の弓と葦の矢を配った。(『権記』)

寛弘九年/長和元年(1012)

3月14日 陰陽師たちが七瀬祓を行う

3月14日辛巳の辰の刻、七人の陰陽師(詳細不明)が藤原道長に召されて、二条大路~川合瀬までの七瀬祓を行った。陰陽師たちは禄を賜った。(『御堂関白記』)

4月10日 安倍吉平が中宮御所で発見された厭物について占う、陰陽師たちが解除を行う

4月10日丁未、安倍吉平は中宮御所の井戸で発見された厭物について占った。厭物だということだった。(『御堂関白記』)

4月11日 中宮御所の井戸で厭物が発見されたので、陰陽師たちが解除を行う

4月11日戊申、中宮御所の井戸の水を汲み上げたところ魘魅の餅や人の髪の毛があったので、陰陽師たちが解除を行った。(『御堂関白記』)
また、賀茂光栄と安倍吉平が占ったところ、呪詛の気がみられた。(『小右記』)

4月27日 「陰陽師」が藤原娍子立后宣命作成の日時を勘申する

4月27日甲子の未の刻、藤原娍子せいし立后宣命の作成が命じられた。陰陽師(詳細不明)は子の刻を勘申したが、三条天皇がその時間は夜半ということで、未の刻とした。陰陽師たちは不満を漏らした。(『御堂関白記』)

5月3日 賀茂光栄が蜈蚣の怪異について占う

5月3日庚午、賀茂光栄は4月27日戌刻に起こった蜈蚣の怪異について占った。(『小右記』同年5月4日条)

5月21日 安倍吉平が故一条院の法事について説明する

5月21日戊子、ある人が「円教寺は大将軍の方角にあたるので、法事を行うのはよろしくない」と言った。安倍吉平は藤原道長に召されて事情を問われた。
吉平は「そのような前例は何度かあったので、まったく慎む必要はない」と申した。(『御堂関白記』)

6月4日 大嘗会行事所始の日時勘文が進上される

6月4日庚子、大炊頭賀茂光栄と陰陽頭惟宗文高が署名していた大嘗会行事所始の日時勘文(6月4日の申二刻または酉二刻)が進上された。(『小右記』)

6月8日 藤原彰子の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を行う

6月8日甲辰、藤原彰子の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕した。その際、鵄が死んだ鼠を落としたので、光栄は怪しんだ。(『小右記』)

6月14日 賀茂光栄が藤原道長の病について占う

6月14日庚戌、賀茂光栄は藤原道長の病について占った。(『小右記』)

6月16日 賀茂光栄が春日社の怪異について占う

6月16日壬子、賀茂光栄は春日社の怪異について占った。藤原道長及び卯・酉・丑・未年の男、巳・亥・卯・酉年の女に病気があり、その時期は怪異の日(6月12日)から30日以内及び10月、翌年1月または4月の甲乙の日ということだった。(『小右記』)

閏10月16日 安倍吉平が宇佐奉幣使発遣の儀の御禊を奉仕する

閏10月16日庚辰、安倍吉平は藤原道長に召されて、宇佐奉幣発遣の儀の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

閏10月18日 安倍吉平と賀茂光栄が積善寺の焼亡について占う

閏10月18日壬午、安倍吉平と賀茂光栄は藤原道長に召されて、積善寺の焼亡について占った。祟りはないということだった。(『御堂関白記』)

閏10月19日 安倍吉平が斎場所を占う/陰陽寮が斎場に関する諸々の日時を勘申する

閏10月19日、安倍吉平は斎場所の大将軍と王相について申したが、誤りであった。
また、陰陽寮が大嘗宮造営の材料を準備する日時(閏10月28日)、大嘗宮造営開始の日時(11月1日)、萱を刈る日時(11月4日)、□(欠字)柏を準備する日時(11月5日)、斎場所の井戸を掘る日時(11月8日)を勘申した。(『小右記』『長和度大嘗会記』)

長和二年(1013)

1月10日 東宮の行啓に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

1月10日壬寅、東宮が枇杷殿に行啓するため、右京権大夫賀茂光栄は藤原道長に召されて反閇を奉仕した。(『御堂関白記』)禄を賜った。(『小右記』)

1月16日 陰陽師たちが藤原妍子の郁芳門第遷御の吉時を勘申する

1月16日戊申、陰陽師たちは藤原妍子の郁芳門第遷御の吉時を勘申した。→戌の刻となった。(『御堂関白記』)

2月5日 賀茂光栄が宇佐使発遣の可否について占う

2月5日丁卯、賀茂光栄は宇佐使発遣の可否について占った。穢の恐れがあるので、慎む必要があるということだった。(『小右記』)

4月11日 安倍吉平が竈神の祟りに対する解除を行う

4月11日壬申、安倍吉平は藤原道長に竈神の祟りがあったので、解除を行った。(『御堂関白記』)

5月4日 陰陽寮が祈年穀使出立の日時と季御読経の日時を勘申する/三人の陰陽師が藤原妍子の御禊を奉仕する

5月4日甲午、陰陽寮は祈年穀使出立の日時と季御読経の日時を勘申することになった。(『小右記』)
また、三人の陰陽師(詳細不明)が藤原妍子の御禊を奉仕した。(『御堂関白記』)

5月9日 安倍吉平が祈年穀奉幣の日時を勘申する/安倍吉昌の辞表について三条天皇が藤原道長に問う

5月9日己亥、安倍吉平は祈年奉幣の吉日を勘申した。17日になった。
また、三条天皇は藤原道長へ「天文博士」安倍吉昌の辞表を見たか問うた。道長は「見ていない」と答えた。辞表は、藤原隆佐が奏上したという。(『御堂関白記』)

5月12日 藤原隆佐が安倍吉昌の辞表を藤原道長に見せなかったことについて勘事に処される

5月12日壬寅、藤原隆佐が安倍吉昌の辞表を藤原道長に見せずに奏上したことついて勘事に処された。(『御堂関白記』)

5月20日 安倍吉平と賀茂光栄が東宮の病について占う

5月20日庚戌、安倍吉平と賀茂光栄は藤原道長に召されて東宮の病について占った。病状は重いということだった。(『御堂関白記』)

6月6日 賀茂光栄が本命星祭を奉仕する

6月6日丙寅、賀茂光栄は本命星祭を奉仕した。(『御堂関白記』)

6月11日 賀茂光栄が藤原道長に禊を行う

6月11日辛未の午刻、藤原道長の服喪が明けたので、賀茂光栄は禊を行った。(『御堂関白記』)

6月27日 賀茂光栄が藤原頼通・藤原教通の着陣日時を勘申する

6月27日丁亥、賀茂光栄は藤原道長に召されて、藤原頼通と藤原教通が陣座に着する吉日を勘申した。22日となった。道長は7月3日は如何か問うと、光栄は大禍日に当たると答えた。
しかし、道長は「延喜八年二月丙午は大禍日であったが、藤原忠平をはじめとした人々は着座したので忌む必要はない」とし、光栄も同意した。(『御堂関白記』『小右記』)

7月1日 賀茂光栄が内裏にて転倒した御樋殿の吉凶を占う

7月1日辛卯、賀茂光栄は29日午の刻に転倒した内裏の御樋殿について吉凶を占った。その日、風は吹いていなかった。特に問題はなく、喜ばしいことがあるということだった。(『御堂関白記』『小右記』)

7月6日 「陰陽師」が藤原妍子の御産を占う

7月6日丙申、藤原妍子が産気づいた。陰陽師(詳細不明)は藤原道長に召されて、御産について卜占を行った。(『御堂関白記』)

7月7日 賀茂光栄が翌日の沐浴について説明する

7月7日丁酉、藤原道長の女房たちが「明日は沐浴を忌む日である」と言うので、道長は賀茂光栄を召して問うた。光栄は「根拠のないことであり、文書にもそのような例はない」と答えた。光栄は明日の沐浴は吉だという勘文を献上した。(『御堂関白記』)

8月10日 賀茂光栄が藤原実資の西対に移る日、小児の着袴の日時を占う

8月10日己巳、右京権大夫賀茂光栄は藤原実資が西対に移る日と小児(藤原千古)の着袴の吉日を占った。
→11月16日になった。(『小右記』)

8月13日 惟宗文高が鬼気祭を行う

8月13日壬申の夜、西門において惟宗文高が鬼気祭を行った。(『小右記』)

8月25日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原実資の小児の病について占う

8月25日甲申、賀茂光栄と安倍吉平は藤原実資の小児の病について占った。祟りはなく、病も重くないということだった。(『小右記』)

9月1日 賀茂光栄が藤原実資の物忌の軽重を占う

9月1日庚寅、賀茂光栄は藤原実資の物忌の軽重を占った。軽いということだったので、実資は河原に出て解除を行った。(『小右記』)

11月8日 陰陽師たちが多武峯の鳴動について勘申する

11月8日丙申、多武峯寺にて藤原鎌足の御墓が鳴動したので、藤原道長は陰陽師たちに吉凶を問うた。陰陽師たちは、慎むべきだと申した。(『御堂関白記』)

12月9日 賀茂光栄が藤原道長の本命祭を行う

12月9日丙寅、賀茂光栄は藤原道長に本命祭を奉仕した。(『御堂関白記』)

長和三年(1014)

1月15日 賀茂光栄が源頼定の立屋日を勘申する

1月15日壬寅、賀茂光栄は源頼定の立屋日を勘申した。(『小右記』)

2月9日 賀茂光栄と安倍吉平が内裏焼亡による御在所について問われる

2月9日乙丑、賀茂光栄と安倍吉平は御在所について問われ「しばらく太政官に留まった後、東に移るのがよい」ということだった。(『小右記』)

2月10日 賀茂光栄と安倍吉平が三条天皇の松本曹司への移御を行う日時を勘申する

2月10日丙寅、賀茂光栄と安倍吉平は三条天皇が松本曹司へ移御を行う吉日吉時を勘申した。
→2月20日亥刻となった。(『小右記』)

2月20日 三条天皇の松本曹司への移御に際し賀茂光栄が反閇を行う

2月20日丙子、三条天皇の松本曹司への移御に際し賀茂光栄は御所において反閇を奉仕した。(『小右記』)

2月21日 賀茂光栄・安倍吉平・皇延法師が鹿の怪異について占う

2月21日丁丑、賀茂光栄・安倍吉平・皇延法師が鹿の怪異について占った。口舌のことについて慎む必要があるということだった。(『小右記』)

3月1日 賀茂光栄が藤原道長邸に乱入した鹿の怪異について占う

3月1日丙戌の朝、鹿が藤原道長邸の南門に侵入し、馬出屋に登った。賀茂光栄が占ったところ「不忠の臣下がおり、不順の子がある」ということだった。(『小右記』)この結果に、道長は恐懼した。(『小右記』同年3月2日条)

3月6日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原実資邸の檜皮を葺く吉凶を勘申する

3月6日辛卯、賀茂光栄と安倍吉平は藤原実資邸の檜皮を葺く吉凶を勘申した。(『小右記』)

3月22日 皇太后藤原彰子の源頼通邸移御に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

3月22日丁未の夜、皇太后藤原彰子の権大納言藤原頼通への移御に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕した。(『小右記』)

3月24日 賀茂光栄が藤原実資の体調不良について吉凶を占う

3月24日己酉、藤原実資はここ数日体調が良くなかったので賀茂光栄に吉凶を占わせた。竈神の祟りということだった。(『小右記』)

4月9日 三条天皇・藤原妍子の遷御に際し、賀茂光栄が出門の方角を勘申する

4月9日甲子、三条天皇の遷御、藤原妍子の移御に際し、最初に占った陰陽師(詳細不明)は東門から出るように申した。
しかし、賀茂光栄が占ったところ、東方は大将軍が遊行しているので西門から出るようにと申した。(『小右記』)

4月23日 賀茂光栄と安倍吉平が藤原道長邸行幸の日時を勘申する

4月23日戊寅、賀茂光栄と安倍吉平は蔵人所において藤原道長邸行幸の吉日を勘申した。(『小右記』)

5月16日 藤原道長邸行幸に際し、賀茂光栄が反閇を奉仕する

5月16日辛丑、藤原道長邸への行幸が行われた。陰陽師(詳細不明)は卯二刻を勘申していたが、三条天皇は辰終刻になって紫宸殿にお出ましになった。
賀茂光栄が紫宸殿において反閇を奉仕した。(『小右記』)

5月24日 陰陽寮が造営始・立柱の日時を勘申する

5月24日己酉、陰陽寮は造営始・立柱の吉日吉時を勘申した。12月2日立柱となった。新暦が出来ていないため、甍を葺く日時は勘申しなかった。(『小右記』)

6月28日 賀茂光栄と安倍吉平が宋の医僧が送ってきた薬の吉凶を占う

6月28日壬午、宋の医僧が送ってきた薬には名称が記されておらず、実資は服用してもいいのか悩んだ。
そこで、賀茂光栄と安倍吉平が吉凶を占ったところ、よろしくないということだったので、実資は小児への薬の服用をやめた。(『小右記』)

6月25日己卯、藤原実資は宋の医僧恵清に小児の病を治すための薬を求めていた。(『小右記』)

10月11日 賀茂光栄が藤原道長の二条第造立に際し、犯土の禁忌について説明する

10月11日甲子、藤原道長の二条第造立に際し、賀茂光栄は「五星の月は犯土の禁忌がある」と伝えていた。(『小右記』)

10月19日 賀茂光栄が桑糸四疋を賜る

10月19日壬申、賀茂光栄は翌日逆修法事を修することによって、藤原実資から桑糸四疋を賜った。(『小右記』)

11月5日 賀茂光栄が皇延法師とともに春日明神の神告の真偽を占う

11月5日丁亥、賀茂光栄は皇延法師とともに昨夜の春日明神の神告について真偽を占った。二人とも虚言だと申した。(『小右記』)

11月17日 東宮敦成親王の朝覲に際し、賀茂光栄が反閇を行う

11月17日己亥、敦成親王の初めての朝覲に際し、右京権大夫賀茂光栄は反閇を奉仕して禄を賜った。(『小右記』)

12月15日 賀茂光栄・安倍吉平・惟宗文高が荷前の吉日を勘申する

12月15日戊辰、賀茂光栄・安倍吉平・惟宗文高は陣において荷前日の吉日を勘申した。(『小右記』同年12月17日条)

長和四年(1015)

2月29日 安倍吉平・賀茂光栄が触穢の際の解除について進言する

2月29日庚辰、藤原道長は枇杷殿において穢に触れており、安倍吉平と賀茂光栄は「触穢の期間中は、御燈を奉らないことに対する解除は行うべきではない」と進言した。
しかし、道長に「穢のあるときは祓を行わなければならない」と却下された。
→3月1日辛巳、道長は鴨川において解除を行った。(『御堂関白記』)

3月2日 安倍吉平・賀茂光栄が興福寺南円堂の鴨について占う

3月2日壬午、安倍吉平と賀茂光栄は興福寺南円堂に留まった鴨について吉凶を占った。(『御堂関白記』)

4月27日 安倍吉平が御修法の吉日を勘申する/賀茂光栄が高山・海若・四角四堺祭を行う

4月27日丙子、安倍吉平が御修法の吉日を勘申し、5月1日庚辰となった。
また、賀茂光栄の上奏によって高山・海若・四角四堺祭が行われた。(『小右記』)

5月6日 陰陽寮が仁王会の日時を勘申する

5月6日乙酉、陰陽寮は仁王会を行う吉日吉時を勘申した。5月15日甲午、発願が未二刻、結願が申二刻となった。(『小右記』)

5月12日 陰陽寮が大祓の日時を勘申する

5月12日辛卯、陰陽寮の大祓の日時勘文(5月13日壬辰、酉・戌の刻)が進上された。(『小右記』)

5月28日 安倍吉昌が地震勘奏を持参する

5月28日丁未の巳の刻に大地震があり、安倍吉昌が地震についての勘奏を持ってきた。(『御堂関白記』)

6月2日 安倍吉昌が日食勘奏を持参する

6月2日庚戌、安倍吉昌が前日に起こった日食についての勘奏を持ってきた。(『御堂関白記』)

6月7日 賀茂光栄 没

6月7日乙卯、右京権大夫賀茂光栄が没した。享年77歳。(『小右記』)

閏6月10日 安倍吉平が藤原道長邸の虹について吉凶を占う

閏6月10日戊子、前日の晩に夕立があり、土御門第に虹が現れた。安倍吉平が吉凶を占ったところ、大したことではないということだった。(『御堂関白記』)

9月26日 安倍吉平が中宮妍子の内裏参入について吉日を勘申する

9月26日癸酉、安倍吉平は中宮藤原妍子の内裏参入の吉日を勘申した。10月3日となったが、暦上では月末から天一神が西にいる予定になっていた。吉平が改めて勘申したところ、11月28日となった。
三条天皇は方違を行って3日に参入すればよいと言ったが、藤原道長は断った。(『御堂関白記』)

11月17日 安倍吉平が三条天皇の枇杷殿移御の吉日を勘申する

11月17日癸亥、内裏焼亡によって三条天皇が枇杷殿に移御することになった。安倍吉平が移御の吉日を勘申したところ、19日となった。19日の戌の刻、三条天皇は枇杷殿に移御を行った。(『御堂関白記』)

12月27日 安倍吉平が三条天皇譲位の吉日を勘申する

12月27日癸卯、安倍吉平は三条天皇が譲位を行う吉日を勘申した。翌年の1月29日となった。29日、三条天皇から後一条天皇への譲位が行われた。(『御堂関白記』)

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