『白氏文集』は唐の白居易による詩文集。会昌五年(845)に完成した。
日本では平安時代の承和年間(834~848)以降に伝わってきて、大流行した。特に『長恨歌』や『琵琶行』が好まれた。『源氏物語』や『枕草子』などの平安文学にも大きな影響を与えた。
『白氏文集』の流行
『枕草子』
書に挙げられる
書は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文。
香爐峰の雪
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子まいりて、炭櫃に火おこして、物語などして集りさぶらふに、「少納言よ、香爐峰の雪、如何ならむ」と、仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ。なほ、この宮の人にはさべきなめり」と言ふ。
★訳:雪がとても高く降り積もっているのに、普段と違って御格子を降ろしたまま炭櫃に火を起こして、お喋りをしながら集まっていると、(定子が)「少納言よ、香爐峰の雪はどのようなものでしょう」と仰せになるので、御格子を上げさせて、御簾を高く上げると、お笑いになる。
人々も「そのような詩は誰でも知っており、和歌などにも歌いますが、思いも縒りませんでした。やはり、この中宮さまにお仕えする人は然るべき人なのでしょう」と言う。
『白氏文集』巻十六に「香爐峰雪撥簾看……」とある。
『紫式部日記』
読みし書などいひけんもの、目にもとどめずなりて侍りしに、いよいよかかること聞き侍りしかば、いかに人も伝へ聞きてにくむらんと、恥ずかしさに御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をし侍りしを、宮の御前にて『文集』の所々読ませ給ひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、一昨年の夏頃より『楽府』といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせて侍る、隠し侍り。
★訳:昔読んだ漢籍などというものは目にしないようになっていたのに、いよいよこのような陰口が耳に入ってきたので、それを伝え聞いた人は私を嫌うのだろうと思うと恥ずかしくなってきて、御屏風の上に書いてある言葉さえ読まないふりをしていたところ、中宮さまが御前で『白氏文集』のあちこちをお読ませになるなどして、その方面のことをお知りになりたそうにしていたので、たいそう人目を忍んで女房たちのいない間を見計らって、一昨年の夏頃から『楽府』という書物二巻を完璧にではないがお教え申し上げているが、人には秘密にしている。
古記録と『白氏文集』
平安貴族と『白氏文集』
藤原道長が一条天皇に『白氏文集抄』を献上する
寛弘三年(1006)8月6日丙子、藤原道長は参内して『白氏文集抄』『扶桑集』の小冊子を一条天皇に献上した。これらは、御手筥のためだという。(『御堂関白記』)
宋の商人が『白氏文集』を献上する
寛弘三年(1006)10月20日己丑、宋の商人令文が内裏に蘇木と茶碗、『五臣注文選』『白氏文集』を持ってきた。(『御堂関白記』)
『新楽府』の献上
新楽府(しんがふ)
『白氏文集』の巻三・四。白居易らが当時の政治・社会を批評した詩。
藤原行成が藤原道長のもとに『新楽府』上下巻を持参する
寛弘元年(1004)9月7日戊子の夜、藤原行成が『新楽府』上巻を新たに書いて持ってきた。(『御堂関白記』)
同年9月15日丙申の夜、藤原行成が『新楽府』下巻を持ってきた。(『御堂関白記』)
藤原行成が『新楽府』を藤原道長に献上する
寛弘三年(1006)1月9日壬子の夜、藤原行成は藤原道長のもとを訪れ、『白氏六帖事類集』、小野道風の書二巻、『新楽府』本一巻を献上した。(『権記』)
藤原行成が『新楽府』を書写して献上する
寛弘七年(1010)6月19日丙寅、藤原行成は一条天皇から賜った続色紙六巻に『新楽府』二巻(先日、二巻を献上した)・『坤元録詩』二巻・『詩合』一巻・『日記』一巻・『後撰集』五巻(先日、八巻を献上した)を書写した。(『権記』)
平安文学と『長恨歌』
『枕草子』
梨の花が楊貴妃にたとえられる
梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文付けなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、唐土には限りなきものにて、詩にも作る、なほさりとも、やうあらむと、せめて見れば、花びらの端にをかしき匂ひこそ、心許なうつきためれ。楊貴妃の、帝の御使にあひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり」などと言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうみでたきことは、類あらじと覚えたり。
★訳:梨の花は大して面白みもなく、身近において愛でることもせず、手紙を木の枝に結びつけるといったこともしない。可愛げのない人の顔をたとえるときに引き合いに出されるような花だ。たしかに、葉の色からして地味でつまらないけれど、唐土ではこの上もなく美しい花だとされていて、詩にも詠まれている。だからこの国ではもてはやされなくとも、よくよく見ると、花びらの端がほのかに色づいていて美しい。楊貴妃が玄宗皇帝の使いに会って、涙を流した顔の美しさをたとえて「梨花一枝、春、雨を帯びたり」などと詠まれたのは、並々ならぬ褒めようだと思うと、やはりその際立った美しさは、他の花にはないものなのだろう。
『源氏物語』
桐壺:楊貴妃の例
唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれと、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃の例も、引出つべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの類なきを頼みにて交じらひ給ふ。
★訳:唐土でもこのようなこと(帝の行き過ぎたご寵愛)によって国家が乱れ、大変なことになったのだと、楊貴妃の例まで引き合いに出されそうなほどになっていくので、なんとも落ち着かないことが多いけれども、恐れ多いほどにまたとないご寵愛を頼りにして、宮仕えをしていらっしゃる。
桐壺:長恨歌の屏風絵
この頃、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、享子院の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただその筋をぞ枕言にせさせ給ふ。
★訳:この頃、明けても暮れても御覧になっている『長恨歌』の御絵―享子院がお描きになり、伊勢や貫之にお詠ませになったのだが、和歌や漢詩にしても、そのような方面のことばかりをいつもお話になっている。
夕顔:長生殿の例
長生殿の古き例はゆゆしくて、羽を交はさむとは引き変へて、弥勒の世をかね給ふ。行く先の御頼め、いとこちたし。
★訳:長生殿の物語は縁起が悪いので、比翼の約束はせずに弥勒菩薩が現れる来世を契りなさる。そのような先の未来のことまで契るとは、まことに大げさなものだ。