平安時代の7月から12月に行われていた年中行事についてわかりやすく解説します。七夕、乞巧奠、9月9日の重陽の節句、五節舞姫、追儺祭などがあります。
必ずしもこの日に行われるとは限らず、日程がずれることもありました。
平安時代の一年(7~12月)
七月
7月7日 乞巧奠(きこうでん)
平安時代の七夕。
この日の夜は、牽牛と織女の二星に供物を供えて、裁縫や技芸の上達を願って竹竿の先に五色の願糸を垂らす。
清涼殿で行われた乞巧奠の供物には、針を差した楸の葉・琴あるいは琵琶・桃・大豆・干鯛・酒盃・熟瓜・梨・大角豆・薄鮑などがあった。(『雲図抄』)
- 長和四年(1015)7月8日乙卯、左衛門督藤原教通曰く「昨晩、二星会合を見た」ということだった。その様子は、それぞれの星がゆっくりと近づいて会合し、後からやって来た雲が二つの星を覆った。昔の人々はこの光景を見ていたのだという。藤原道長も少なからず感慨深く思った。(『御堂関白記』)
旧暦7月7日は新暦7月末~8月末にあたるので、七夕の和歌には秋を歌ったものがある。
7月15日 盂蘭盆供(うらぼんぐ)
先祖を供養するための法会。
- 永延三年(989)7月14日、盂蘭盆供が行われた。(『小右記』)
- 寛弘六年(1009)7月14日丁卯、土御門第にて盂蘭盆供が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)7月14日乙酉、盂蘭盆供が行われた。(『御堂関白記』)
空也上人の盆踊り
応和三年(963)8月23日壬寅、空也上人は賀茂川原において大般若経を供養し、万燈会を行った。六百人の僧が集まり、音楽とともに踊った。(『扶桑略記』)
7月26日 相撲内取
仁寿殿において、相撲の下稽古を行う。
7月28日 相撲召合
紫宸殿において、相撲の本番を行う。
7月29日 追相撲
追相撲を行う。左右に分かれて相撲で対戦する。勝った方は舞と曲を披露する。左方が勝った場合は「抜頭」、右方が勝った場合は「納曽利」を披露する。
相撲人は瓜を賜る
相撲に参加した人は、瓜を賜った。
- 天元三年(980)7月19日、相撲人は瓜を賜った。(『小記目録』)
- 永延二年(988)7月25日、府の官人ならびに相撲人らは瓜を賜った。(『小記目録』)
- 長保二年(1000)7月29日、相撲人は瓜を賜った。(『小記目録』)
- 長保二年(1000)8月9日癸丑、相撲人は瓜・酒を賜った。この日、蔵人所からたくさんの瓜が出てきた。(『権記』)
八月
8月上旬(丁の日) 釋奠
大学寮にて、孔子とその弟子を祀る儀式。
- 寛弘六年(1009)8月5日丁亥、釋奠祭が行われた。(『御堂関白記』)
8月11日 定考(こうじょう)
前年8月1日から当年7月30日までの太政官の長上官の勤務成績を報告する。成績がよければ、加階されたり昇進することができる。
- 延長七年(929)8月11日丁未、定考が行われた。風害や水害のため、音楽はなかった。(『北山抄』『政事要略』)
- 永祚元年(989)8月19日丁卯、定考が行われた。※8月10日戊午、法事のため19日に延期された。(『小右記』)
- 寛弘六年(1009)8月11日癸巳、定考が行われた。通例通りであったが、音楽はなかった。(『御堂関白記』)
- 寛弘七年(1010)8月11日丁巳、定考が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)8月28日己巳、定考が行われた。(『御堂関白記』)
8月13~14日 駒牽(武蔵国)
武蔵国の秩父牧から都へ馬が送られてくる。公卿たちに馬が支給される。
- 延喜三年(903)8月13日庚辰、武蔵国秩父牧の駒牽があった。左右馬寮に馬が支給された。(『政事要略』)
- 延喜五年(905)8月14日庚子、武蔵国秩父牧の駒牽があった。(『西宮記』)
- 天暦二年(948)8月13日己丑、武蔵国秩父牧の駒牽があった。村上天皇は仁寿殿にお出ましになり、馬をご覧になった。(『日本紀略』)
8月15日 石清水八幡宮の放生会
- 永祚元年(989)9月15日癸巳、石清水八幡宮にて放生会が行われた。(『小右記』)
8月15~16日 駒牽(信濃国)
信濃国から都へ馬が送られてくる。
- 仁和四年(888)8月15日庚辰、信濃国の駒牽があった。(『西宮記』)
- 延喜八年(908)8月15日甲寅、信濃国の駒牽があった。醍醐天皇は紫宸殿にお出ましになり、馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 延喜九年(905)8月15日戊申、信濃国の駒牽があった。醍醐天皇は紫宸殿にお出ましになり、馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 天暦二年(948)8月15日辛卯、信濃国の御馬16匹の駒牽があった。(『日本紀略』)
- 康保元年(964)8月16日己未、信濃国の駒牽があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましになり、馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 天延二年(974)8月16日辛卯、信濃国の駒牽があった。(『日本紀略』)
- 天元三年(980)8月15日乙酉、信濃国の駒牽があった。(『小記目録』)
8月17日 駒牽(甲斐国)
甲斐国の穂坂牧から都へ馬が送られてくる。
- 延喜四年(904)8月17日戊申、甲斐国穂坂牧の駒牽があった。醍醐天皇は紫宸殿にお出ましになって馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 延喜七年(907)8月17日壬戌、甲斐国穂坂牧の駒牽があった。醍醐天皇は綾綺殿にお出ましになって馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 応和三年(963)8月17日丙申、甲斐国穂坂牧の駒牽があった。(『日本紀略』)
- 康保元年(964)8月17日庚申、甲斐国穂坂牧の駒牽があった。村上天皇は紫宸殿にお出ましになった。(『日本紀略』)
8月25日 駒牽(武蔵国立野牧)
武蔵国立野牧から都へ馬が送られてくる。
- 天元三年(980)8月25日乙未、武蔵国立野牧の駒牽があった。(『小記目録』)
8月28日 駒牽(上野国)
上野国から都へ馬が送られてくる。
- 延喜七年(907)8月28日癸酉、上野国の駒牽があった。(『西宮記』)
- 延喜八年(908)8月28日丁卯、上野国の駒牽があった。(『北山抄』)
- 応和二年(962)8月28日癸丑、上野国の駒牽があった。(『北山抄』)
- 天元三年(980)8月28日、上野国の駒牽があった。(『小記目録』)
九月
9月3日 御灯
北極星に御灯を奉る。御灯の日は廃務になることが多い。
3月3日と9月3日に行われる。
- 天慶二年(939)9月3日辛未、御灯が行われた。廃務であった。(『本朝世紀』)
- 天慶四年(941)9月3日庚申、御灯が行われた。廃務であった。(『本朝世紀』)
- 天暦元年(947)9月3日甲寅、御灯が行われた。廃務であった。(『本朝世紀』)
- 天暦二年(948)9月3日戊申、御灯が行われた。(『日本紀略』)
触穢の場合は中止になる
- 天慶三年(940)9月3日乙丑、8月28日に内裏において犬の産穢があったので、御灯は中止となった。しかし、廃務であった。(『年中行事秘抄』)
- 天慶九年(946)9月3日庚寅、触穢により御灯は中止となった。しかし、例によって廃務となった。(『北山抄』)
9月 陣定
- 寛弘六年(1009)9月8日己未、陣定が行われた。(『御堂関白記』)
9月9日 重陽の節供
中国の菊花宴が伝わってきたもの。陽数の九が重なることから「重陽」と呼ばれた。
また、「重九(長久)」でもあるため、世の長久を祈願した。(『年中行事秘抄』)
元々は収穫を祝う宴で、さまざまな農産物を供えていた。
供物
- 米 二斗三升
- 糯米(もち米) 五束
- 糯糒 一斗
- 粟子糒 二升
- 小麦 四升
- 胡麻子 四升
- 大豆 二升
- 小豆 一斗
- 荏子 六升
- 酒・酢・泊・醤 一斗
- 塩 二升(『延喜式』)
菊の着綿
「菊の被綿」とも。重陽の日の前日にあたる8日の晩に菊の花に黄色の真綿を被せて露を吸い取る。9日の早朝にその綿を取り外し、顔や体を拭くと不老長寿を得られるという言い伝え。菊の花に落ちる露は不老長寿の仙薬を考えられていた。
- 永観二年(984)9月9日丙辰、別納所が重陽の節供を行った。前例では朱器を用いたが、急なことだったので、様器を用いた。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)9月9日甲申、雨が降っていたので、重陽の節供は中止となった。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)9月9日甲戌、宜陽殿にて重陽節会の平座があった。(『御堂関白記』)
9月11日 伊勢大神宮奉幣
毎年9月11日に行われるが、他の月日に臨時で奉幣することもある。
奉幣する物
- 延長三年(925)9月11日、伊勢大神宮への奉幣に、金・銀・鏡・剣などの神宝を加えた。(『西宮記』)
中止・延期になる場合
- 延長五年(927)9月11日、斎世親王の薨去によって伊勢例幣が延期となった。(『師守記』)
- 承平二年(932)9月11日庚寅、触穢によって伊勢例幣が延期となった。(『貞信公記抄』)
秋季御読経
- 永祚元年(989)9月29日丁未、季御読経が行われた。→10月2日庚戌、結願した。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)10月26日辛未、秋季御読経が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)9月20日乙酉、秋季御読経が行われた。→23日戊子、結願した。(『御堂関白記』)
十月
10月1日 更衣(衣替え)
冬・春の服に衣替えし、寝殿の模様替えも行う。
10月 亥の日 玄猪(亥日の餅)
10月の亥の日に餅を食べると病気にならないという言い伝えがあった。
また、豕はたくさんの子を生むことから子宝に恵まれると考えられ、結婚の吉日と信じられていた。
10月1日 孟冬旬
- 寛弘六年(1009)10月1日、孟冬旬があった。(『御堂関白記』)
10月5日 弓場始
天皇が弓場殿にて公卿・殿上人の賭射を見る。11月・12月に行われることもあった。
- 永祚元年(989)10月20日戊辰、弓場始が行われた。戌の刻に終わった。※物忌のため、20日まで延期されていた。(『小右記』)
- 寛弘六年(1009)11月23日甲戌、弓場始が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘七年(1010)10月14日己未、一日中雨が降っていたので、弓場始は延期された。→16日辛酉に行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)12月4日丁卯、弓場始が行われた。(『御堂関白記』)
十一月
11月1日 忌火御膳
早朝、内膳司が忌火で炊いたご飯を天皇に献上する。天皇が潔斎に入るための儀式である。6月1日、11月1日、12月1日に行われる。
- 延喜二年(902)11月1日癸卯、忌火御膳が供された。四位の者が不在だったので、菅根五位によって供された。(『西宮記』)
- 延喜十一年(911)11月1日辛巳、触穢であったが、例年通り忌火御膳が供された。(『西宮記』)
- 寛仁元年(1017)11月1日乙未の早朝、忌火御膳が供された。宇佐奉幣によって、精進物が用いられた。(『左経記』)
11月 2番目の寅の日 鎮魂祭
鎮魂祭は11月の2番目の寅の日に宮内省において行う。大臣以下が祭所へ赴く。(『延喜式』―太政官)
11月 丑・寅・卯・辰の日 新嘗祭
収穫を祝う行事。五節の舞姫が舞を披露する。
五節の舞姫には、公卿から二人、殿上人・国司から二人(天皇即位後初めての新嘗祭のときは三人)の舞姫を差し出す。衣装代は自費負担。
辰の日、五位以上の者に宴席を設ける。大臣は通例通り職務を行う。(『延喜式』―太政官)
- 夫が五節の舞姫を差し出すとき、宮中の事情に通じている北の方ならば、失礼なことを問いただして恥をかくようなことはないだろう。(『枕草子』)
丑の日 帳台試
常寧殿において、天皇が五節の舞姫の舞を見物する。
寅の日 御前試
清涼殿において、天皇・殿上人・女房が五節の舞姫の舞を見物する。
卯の日 童女御覧
舞姫の介添役の童女が舞を見物する。
辰の日 豊明節会
- 長和二年(1013)甲辰の夜、五節舞が行われる前に奇獣が紫宸殿に乱入してきた。近頃内裏の内郭に多くいた野猪ではないかということだった。舞の後、弘徽殿で火事があった。(『御堂関白記』)
十二月
12月1日 忌火御膳
早朝、内膳司が忌火で炊いたご飯を天皇に献上する。天皇が潔斎に入るための儀式である。6月1日、11月1日、12月1日に行われる。
- 天延二年(974)12月1日甲辰、忌火御膳が供された。(『親信卿記』)
- 寛仁元年(1017)12月1日乙丑、忌火御膳が供された。(『左経記』)
仏名会
三日間に渡って過去・現在・未来の三世の仏の名前を唱える。
荷前(のさき)
- 寛弘七年(1010)12月20日甲子、藤原道長は荷前を奉献した。(『御堂関白記』)
12月11日 月次祭
神祇官が行う祭祀。夜、神今食を行う。
- 寛弘九年(1012)12月11日甲戌、月次祭があった。(『御堂関白記』)
12月末 大祓
12月末 追儺
悪鬼を追い払う儀式。追儺の後は、故人の供養が行われた。