平安時代の年表:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日の間に起こったできごとについてわかりやすく簡単に説明します。

村上天皇:天慶九年(946)4月20日-康保四年(967)5月25日
天慶九年(946)
天慶九年(946)4月 村上天皇即位の儀
天慶九年(946)4月、大極殿において村上天皇即位の儀が行われた。(『扶桑略記』)
村上天皇は藤原師輔の娘安子を中宮に立后した。太政大臣藤原忠平は関白、長男実頼は左大臣と左大将を兼任、次男師輔は右大臣と右大将を兼任し、父子兄弟三人による三公が誕生した。古今未曾有の繁栄である。(『前太平記』)
+ 天慶十年/天暦元年(947)の年表
天慶十年/天暦元年(947)
3月 北野天満宮に菅原道真を祀る
天慶十年(947)3月12日、近江国の比良天満宮の禰宜良種が奏上して曰く「私、良種には今年で七歳になる子がおりますが、突然様子がおかしくなり『我は菅丞相(菅原道真)の化身・太政天大威徳天神である。北野の地に松を植え、私を天満大自在天神として祀ってほしい』と告げ、たちまち正気に戻りました。これは神託ではないでしょうか」ということだった。(『扶桑略記』『前太平記』)
3月20日 朱雀上皇の御禊
天慶十年(947)3月20日乙巳、朱雀上皇は桂河において御禊を行わせた。(『日本紀略』)
4月13日 法性寺で火災が起こる
天慶十年(947)4月13日戊辰、法性寺北野僧房一字が焼亡した。(『日本紀略』)
4月22日 改元
天暦元年(947)4月22日丁丑、天暦へ改元が行われた。(『日本紀略』)
4月26日 藤原実頼が左大臣、藤原師輔が右大臣に任ぜられる
天暦元年(947)4月26日辛巳、右大臣藤原実頼が左大臣に任ぜられた。また、藤原忠平の二男である大納言藤原師輔が右大臣に任ぜられた。(『扶桑略記』)師輔は大饗を行った。(『日本紀略』)
6月 疱瘡の流行
天暦元年(947)6月、疱瘡が流行し多数の死者が出た。(『日本紀略』)
6月9日 北野天満宮 創建
天暦元年(947)6月9日壬戌、朝日寺の僧最珍は比良社禰宜神良種とともに故右大臣菅原道真を祀る祠を建てた。(『年中行事抄』)
7月3日 大風雨
天暦元年(947)7月3日丙戌の午後、猛烈な風雨で京中の舎屋が顛倒・倒壊した。(『貞信公記抄』)宮内省南門、大蔵省後庁、掃部寮西屋、左馬寮、造酒司南門、典薬寮東檜皮茸屋などが顛倒した。また、川の水が溢れた。(『日本紀略』)
閏7月18日 御卜
天暦元年(947)閏7月18日庚午、去る13日に内裏において矢に射られた犬の穢があったので、御卜が行われた。(『日本紀略』)
閏7月19日 臨時仁王会
天暦元年(947)閏7月19日辛未、天変や物の怪、疫病を祓うために臨時仁王会が修された。(『日本紀略』)
8月14日 鬼気祭
天暦元年(947)8月14日乙未、疱瘡の流行によって建礼門前において鬼気祭が行われた。(『日本紀略』)
8月15日 大祓
天暦元年(947)8月15日丙申、疱瘡の流行を鎮めるため、紫宸殿及び建礼門、朱雀門の三ヶ所において大祓が行われた。(『日本紀略』)
8月17日 村上天皇、朱雀上皇が疱瘡に罹患
天暦元年(947)8月17日戊戌、村上天皇ならびに朱雀上皇が疱瘡に罹った。五畿七道諸国が諸社へ奉幣し、読経を行った。(『日本紀略』)
8月19日 疫病の流行による賑給
天暦元年(947)8月19日庚子、疱瘡及び赤痢の流行によって、東西の京に米の賑給が行われた。(『日本紀略』)
8月22日 四角祭、四隅四堺祭
天暦元年(947)8月22日癸卯、四角祭・四隅四堺祭などの祭祀が行われた。(『貞信公記抄』)
9月5日 大祓
天暦元年(947)9月5日丙辰、疱瘡の流行によって大祓が行われた。(『日本紀略』)
9月7日 仁王経転読
天暦元年(947)9月7日戊午、疱瘡の流行によって、徳の高い僧百口が紫宸殿・綾綺殿の両殿において三日間に渡り仁王経を転読した。10日に結願し、僧たちは度者を賜った。(『日本紀略』)
10月3日 伊勢大神宮など14社に奉幣
天暦元年(947)10月3日甲申、伊勢大神宮などの十四社に奉幣し、疱瘡・赤痢が鎮まるよう祈祷が行われた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
10月5日 女御藤原述子 死去
天暦元年(947)10月5日丙戌、村上天皇の女御藤原述子が東三条第において亡くなった。疱瘡に罹っている間に出産したことによる。享年15歳。(『日本紀略』)
11月1日 御暦奏
天暦元年(947)11月1日辛亥、村上天皇は物忌のため、御暦奏は内侍で行われた。(『日本紀略』)
11月13日 倹約の官符を諸司に下す
天暦元年(947)11月13日癸亥、諸祭使の饗禄及び男女の衣服などの過差を禁じる官符が下された。(『日本紀略』)
11月16日 鎮魂祭
天暦元年(947)11月16日丙寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月17日 藤原敦敏 死去
天暦元年(947)11月17日丁卯、左近衛少将正五位下藤原敦敏が亡くなった。享年30歳。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
敦敏の少将が亡くなり父藤原実頼が悲嘆に暮れていたとき、まだ敦敏死去の知らせが届いていない東国が敦敏へ馬を献上してきた。それを見て、実頼は「まだ知らぬ人もありけり東路に我も行きてぞ住むべかりける」と和歌を詠んだ。
まだ知らぬ 人もありけり 東路に 我も行きてぞ 住むべかりける(東国には、まだ我が子の死を知らない人もいたのだなあ。私も東国に行って住んでいれば、我が子の死を知らずにいられただろうに)―藤原実頼/『後撰和歌集』
12月30日 追儺、大祓
天暦元年(947)12月30日庚戌、追儺と大祓が行われた。(『日本紀略』)
+ 天暦二年(948)の年表
天暦二年(948)
天暦二年(948) 源頼光誕生
天暦二年(948)、源満仲と源俊の娘との間に源頼光が誕生した。親戚の公卿や従者たちが門前に集まって祝賀を述べた。祖父源経基も来て自ら赤子に産着を着せた。経基は「私には子がたくさんいるが孫はいなかったので、このままでは子孫が途絶えてしまうと心苦しく思っていたところに、長年の望みが今日叶った。この喜びは、昇進して賞禄を賜ったときにも勝る」と大いに喜んだ。赤子の名は、文殊丸と名付けられた。11歳のときに元服し、頼光と名乗った。(『前太平記』)
『系図纂要』によると、頼光の生年は天暦八年(954)とされている。
1月19日 彗星
天暦二年(948)1月19日己巳の夜、坤の方角に長さは七尺程の戈星(ほこぼし)が現れた。(『貞信公記抄』)
戈星は、古代の彗星の呼称である。
1月21日 作文
天暦二年(948)1月21日辛未、朱雀上皇は馬場殿において紅梅の詩を作った。(『日本紀略』)
1月23日 伊賀国分寺の怪異
天暦二年(948)1月23日癸酉、伊賀国分寺の毘沙門像、金剛力士像が鳴動したという解文が届いた。(『貞信公記抄』)
1月27日 藤原安子が年給を賜る
天暦二年(948)1月27日丁丑、村上天皇の女御藤原安子は宣旨によって年給を賜った。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
2月2日 清涼殿造営
天暦二年(948)2月2日壬午、清涼殿の造営が始まった。(『春記』)
2月26日 藤原忠平、関白を辞任
天暦二年(948)2月26日丙午、太政大臣藤原忠平は関白を辞任すると上表した。(『日本紀略』)
3月1日 御卜
天暦二年(948)3月1日庚戌、巳の刻に宜陽殿公卿座の母屋の柱の下が鳴動したので、御卜が行われた。(『日本紀略』)
3月26日 御卜
天暦二年(948)3月26日乙亥、宜陽殿の西の砌上に牛が立っている怪異があったので、御卜が行われた。(『日本紀略』)
3月27日 群盗
天暦二年(948)3月27日丙子、丑の刻に群盗が右近衛府の曹司に侵入し、妻子の衣装を剥ぎ取るなどした。前代未聞のことである。(『貞信公記抄』)
3月29日 夜警
天暦二年(948)3月29日戊寅、京中に強盗が横行しているため、四府馬寮に夜警をさせることになった。(『日本紀略』)
3月30日 音楽/調物合期
天暦二年(948)3月30日己卯、村上天皇は雅楽寮の楽人を御前に召して、種々の音楽を演奏させた。
また、関白藤原忠平に群盗及び調物合期などを定めさせた。(『貞信公記抄』)
4月3日 陣直
天暦二年(948)4月3日壬午、官奏があり、強盗の横行によって諸衛が陣直を勤めることになった。(『日本紀略』)
4月9日 清涼殿遷御
天暦二年(948)4月9日戊子、村上天皇は新造された清涼殿へ遷御された。(『日本紀略』)
3月20日、陰陽寮が4月9日と勘申したことによる。(『貞信公記抄』)
4月11日 皇女(承子内親王)誕生
天暦二年(948)4月11日庚寅、村上天皇と女御藤原安子の間に皇女承子(後の承子内親王)が誕生した。(『日本紀略』)
藤原安子の父藤原師輔は安子の出産を喜んだが、女子だとわかって落胆した。(『栄花物語』「月の宴」)
4月23日 法性寺御幸
天暦二年(948)4月23日壬寅、朱雀上皇は法性寺において諷誦を修された。(『日本紀略』)
5月3日 祈雨
天暦二年(948)5月3日辛亥、祈雨のため諸社へ奉幣が行われた。(『日本紀略』)
5月8日 旱災を祓わせる
天暦二年(948)5月8日丙辰、官符を七道諸国に下し、諸社へ奉幣して干ばつの災いを祓うための祈祷を行わせた。(『北山抄』)
5月9日 祈雨
天暦二年(948)5月9日丁巳、丹生・貴船の二社に奉幣し、祈雨が行われた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
5月11日 祈雨
天暦二年(948)5月11日己未、炎旱によって大和龍穴社に読経し、山陵使を発遣して祈雨を行わせた。
また、軽犯者を免じた。(『日本紀略』)
5月20日 藤原師尹、著座の儀
天暦二年(948)5月20日戊辰、巳の刻に権中納言藤原師尹が著座の儀を行った。(『西宮記』)
6月2日 皇女承子、五十日の儀
天暦二年(948)6月2日己卯、皇女承子の御五十日の儀が行われた。(『中務集』)
6月7日 雷雨によって大膳職醤院舎が顛倒
天暦二年(948)6月7日甲申、雷雨によって大膳職醤院が顛倒した。死者一名。(『日本紀略』)
6月9日 藤原師輔の邸宅で火災が起こる
天暦二年(948)6月9日丙戌の夜、右大臣藤原師輔の桃園第で火災があった。(『日本紀略』)
7月27日 暴風雨
天暦二年(948)7月27日甲戌の夜、暴風雨によって京中の舎屋が顛倒し、多数の死者が出た。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
8月17日 藤原高光昇殿、文選を暗誦
天暦二年(948)8月17日乙未、右大臣藤原師輔の子高光が殿上に召され、『文選』『三都賦序』を暗誦した。村上天皇は感嘆した。(『九暦』)
8月22日 朱雀上皇及び太皇太后の移御
天暦二年(948)8月22日戊戌、朱雀上皇及び太皇太后は二条院へ移御された。新宅の儀が行われた。水火黄牛が用いられた。三日目に饗宴が行われた。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
9月20日 御卜
天暦二年(948)9月20日乙丑、霜雨によって神祇官・陰陽寮が御卜を行った。(『九暦』)
9月28日 御修法
天暦二年(948)9月28日癸酉、内裏においてこの日から七日間に渡り御修法が行われた。八省院に鹿が侵入した怪異による。(『日本紀略』)
11月1日 御暦奏
天暦二年(948)11月1日丙午、内裏において陰陽寮の御暦奏が行われた。(『日本紀略』)
11月3日 藤原忠平、雉を賜る
天暦二年(948)11月3日戊申、藤原忠平は朱雀上皇から雉二翼を賜った。忠平は、使者に褒美として綾細長一重を贈った。(『貞信公記抄』)
11月4日 群盗が清涼殿に侵入
天暦二年(948)11月4日戊寅の夜、盗人が清涼殿に侵入し、殿上の衣を盗んだ。このことは、五度に及んだ。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
11月10日 夜警
天暦二年(948)11月10日甲申の夜、群盗が左少弁小野好古の曹司に侵入し、雑物を掠め取った。仰せによって諸衛が夜警を行った。(『日本紀略』)
11月12日 重明親王、藤原忠平を見舞う
天暦二年(948)11月12日丙戌、中務卿重明親王は藤原忠平を見舞いに訪ねた。(『貞信公記抄』)
11月13日 掃部寮、大膳職が過状を提出
天暦二年(948)11月13日丁亥、掃部寮及び大膳職が過状を提出した。これは、去る新嘗祭において掃部寮は供物を進めるのが遅れ、大膳職は忌火を進めるのが遅れたことによる。(『日本紀略』)
11月16日 藤原師輔、発病
天暦二年(948)11月16日庚寅、右大臣藤原師輔が胸の病を患った。唐僧平秀が病を診た。(『九暦』)
+ 天暦三年(949)の年表
天暦三年(949)
1月14日 天台座主延昌が藤原忠平の病気平癒を祈祷
天暦三年(949)1月14日戊午、右大臣藤原師輔は天台座主延昌に命じて大威徳法を行わせ、藤原忠平の病気平癒を祈祷させた。(『日本紀略』『九暦』)
1月21日 藤原忠平の病気平癒のため諷誦が行われる
天暦三年(949)1月21日乙丑、藤原忠平の病気平癒のために、十五大寺において諷誦が行われた。(『日本紀略』)
1月26日 藤原忠平の病気平癒のため諷誦が行われる
天暦三年(949)1月26日庚午、藤原忠平の病気平癒のために、十六ヶ所の寺において諷誦が行われた。(『日本紀略』)
2月2日 触穢/御禊
天暦三年(949)2月2日丙子、内裏に置いて犬の産穢があった。
朱雀上皇は西河において御禊を行わせた。(『日本紀略』)
2月25日 承子が内親王になる
天暦三年(949)2月25日己亥、承子女王は内親王になる官符を賜り、藤原氏の公卿は慶びの言葉を奏した。(『日本紀略』)
2月28日 朱雀上皇、東山を御覧になる/藤原師輔宅を訪問
天暦三年(949)2月28日壬寅、朱雀上皇は桜の花を鑑賞するために東山へ出かけた。その後、右大臣藤原師輔の邸宅を訪ねた。(『日本紀略』)
3月 醍醐寺法華三昧堂の建立
天暦三年(949)3月、清涼殿の材木を用いて醍醐寺に法華三昧堂を建立した。(『日本紀略』)
3月15日 藤原師尹・師氏が父藤原忠平の七十歳を祝う
天暦三年(949)3月15日戊午、権中納言藤原師尹・参議藤原師氏が法性寺で法会を行い、父藤原忠平の七十歳を祝った。(『日本紀略』)
3月27日 藤原貴子が藤原忠平の七十歳を祝う
天暦三年(949)3月27日庚午、尚侍藤原貴子は法性寺において斎会を設け、関白藤原忠平の七十歳を祝った。(『日本紀略』『九暦』)
3月30日 御読経
天暦三年(949)3月30日癸酉、鷺が集まる怪異によって金剛般若経の御読経が行われた。(『日本紀略』)
4月10日 御卜
天暦三年(949)4月10日癸未、霧雨によって神祇官と陰陽寮が吉凶を占った。坤艮の方角に不浄の気がみられた。検非違使が派遣され、実検が行われた。
4月12日 藤花宴/藤原兼家、昇殿
天暦三年(949)4月12日乙酉、飛香舎において藤花宴が行われた。村上天皇が出御し、侍臣が詩を作って音楽を演奏した。(『日本紀略』)また、従五位下藤原兼家が昇殿を許された。(『公卿補任』)
飛香舎において藤花宴が催されたとき、右大臣藤原師輔、左衛門督源高明、左兵衛督藤原師尹が和歌を詠んだ。女御藤原安子の贈り物もあった。醍醐天皇の勤子内親王に賜った箏譜三巻、貞保親王が使っていた笛、螺鈿の箏などを奉った。箏は、変わった香りがすると重明親王が記していたらしい。どのような匂いであろうか。興味深いことだ。(『古今著聞集』)
5月21日 打毬
天暦三年(949)5月21日甲子、二条院において打毬が行われた。(『日本紀略』)
6月14日 陰陽寮の井戸で死人が発見される
天暦三年(949)6月14日丙戌、陰陽寮の井戸に落ちて死んだ者が発見された。蔵人所の仕丁ならびに近隣の諸司はこのことを知らずに井戸の水を汲んだので、穢が宮中に及んだ。(『日本紀略』)井戸に落ちたのは、女童であった。(『九條殿記』)
6月21日 御卜
天暦三年(949)6月21日癸巳、炎旱によって、神祇官と陰陽寮は軒廊において御卜を行った。艮・巽・坤・乾の方角にある神社・山陵の祟りによるものであった。検非違使が柏原・深草の二陵で実検を行った。(『日本紀略』)
7月3日 御卜
天暦三年(949)7月3日甲辰、申の刻に紫宸殿の巽の方角にある桜の木に虹がかかっていた。また、豊楽院承観堂の上に鷺が集まる怪異があったので御卜が行われた。失火あるいは兵革の兆しということだった。(『日本紀略』)
7月25日 金剛般若経
天暦三年(949)7月25日丙寅、怪異により、弁官丁において三十口の僧が金剛般若経を転読した。(『日本紀略』)
8月1日 洪水
天暦三年(949)8月1日壬申、京都で賀茂川と桂川が氾濫した。(『日本紀略』)
8月14日 藤原忠平 薨去
天暦三年(949)8月14日乙酉、戌の刻に藤原忠平が小一条第において亡くなった。享年70歳。
病床の間、度者三十人を賜り大祓を行っていた。(『日本紀略』『本朝世紀』『九暦』ほか)
8月17日 故藤原忠平薨奏
天暦三年(949)8月17日戊子、藤原忠平の薨奏が行われた。(『日本紀略』)
8月18日 故藤原忠平の葬送、正一位を賜る
天暦三年(949)8月18日己丑、戌の刻に法性寺の艮の地において故関白太政大臣従一位藤原忠平の葬送が行われた。また、忠平に正一位が贈られ、信濃国に封じ貞信公という諡を賜った。(『日本紀略』)
9月27日 藤原実頼、故忠平の供養を行う
天暦三年(949)9月27日丁卯、左大臣藤原実頼は故藤原忠平のために二十二ヶ所の寺へ諷誦を修した。(『日本紀略』)
10月2日 藤原実頼らが復任/師輔が故忠平を供養
天暦三年(949)10月2日辛未、左大臣藤原実頼、右大臣藤原師輔、尚侍藤原貴子らが復任した。(『日本紀略』)
また、藤原師輔が故藤原忠平のために法性寺において仏教を供養した。(『日本紀略』『九暦』)
10月4日 故藤原忠平の七十七日忌
天暦三年(949)10月4日癸酉、法性寺において故藤原忠平の七十七日忌の法事が行われた。(『日本紀略』『九暦』)
10月27日 藤原貴子宅で火災
天暦三年(949)10月27日丙申、尚侍藤原貴子の政所屋において火災があった。(『日本紀略』)
11月1日 御暦奏
天暦三年(949)11月1日庚子、御暦奏が行われた。村上天皇が紫宸殿にお出ましになった。音楽の演奏はなかった。(『日本紀略』)
11月11日 大安寺西塔焼亡
天暦三年(949)11月11日己酉、雷火によって大安寺西塔が焼亡した。(『扶桑略記』)
11月14日 冷泉院焼亡
天暦三年(949)11月14日癸丑、冷泉院が焼亡した。(『扶桑略記』)
11月15日 鎮魂祭
天暦三年(949)11月15日甲寅、鎮魂祭が行われた。(『日本紀略』)
11月27日 承子内親王の魚味始
天暦三年(949)11月27日丙寅、飛香舎において承子内親王の魚味始が行われた。右大臣藤原師輔が餞を準備し、殿上の侍女たちが宴の準備をした。(『西宮記』)
12月15日 故藤原忠平宅で火災
天暦三年(949)12月15日甲申、故藤原忠平の小一条第において火災があった。浄行法師の童子一名が焼死した。その穢は宮中に及んだ。(『日本紀略』)
12月29日 追儺/大祓
天暦三年(949)12月29日戊戌、追儺・大祓が行われた。(『日本紀略』)
+ 天暦四年(950)の年表
天暦四年(950)
1月29日 藤原安子、若菜を献上
天暦四年(950)1月29日丁卯、女御藤原安子が若菜を献上した。(『師光年中行事』)
2月19日 藤原元輔、昇殿
天暦四年(950)2月19日丁亥、右兵衛佐従五位下藤原元輔が昇殿を許された。(『職事補任』)
5月24日 憲平親王 誕生
天暦四年(950)5月24日辛酉、丹後守藤原遠規第において皇子(憲平親王)が誕生した。(『日本紀略』)
5月26日 皇子 御三夜
天暦四年(950)5月26日癸亥、皇子の御三夜が行われた。勅使が発遣され、絹・綿などを賜った。(『御産部類記』)
5月28日 皇子 御五夜
天暦四年(950)5月28日乙丑、皇子の御五夜が行われた。(『御産部類記』)
閏5月1日 皇子 御七夜
天暦四年(950)閏5月1日丁卯、皇子の御七夜の儀が行われた。(『御産部類記』)
6月26日 立太子の日を勘申する
天暦四年(950)6月26日壬戌、陰陽師が皇子の立太子の吉日を勘申した。(『御産部類記』)
7月2日 藤原師輔が皇子の息災を祈願
天暦四年(950)7月2日丁卯、右大臣藤原師輔は石清水・平野・賀茂上下・春日・大原野・稲荷の七社に皇子の息災を祈願した。(『御産部類記』)
7月7日 皇子の産養
天暦四年(950)7月7日壬申、女御藤原安子は皇子の産養を行った。(『花鳥餘情』)
7月10日 皇子、東一条第へ移御
天暦四年(950)7月10日乙亥、皇子が右大臣藤原師輔の東一条第へ移った。(『御産部類記』)
7月15日 皇子憲平を親王とする
天暦四年(950)7月15日庚辰、皇子憲平が親王となった。(『日本紀略』)
7月23日 立太子
天暦四年(950)7月23日、憲平親王(後の冷泉天皇)が皇太子に立てられた。(『扶桑略記』)
8月8日 律師明達が延命法を修する
天暦四年(950)8月8日癸卯、右大臣藤原師輔は、律師明達に命じて憲平親王のために延命法を修させた。(『御産部類記』)
8月10日 憲平親王の御湯殿/朱雀上皇の娘昌子が内親王になる
天暦四年(950)8月10日乙巳、主殿署によって憲平親王の御湯殿の儀が行われた。(『御産部類記』)
また、朱雀上皇の娘昌子が内親王となった。(『類聚符宣抄』)
10月17日 造暦の異論
天暦四年(950)10月17日辛亥、左大臣藤原実頼は暦博士賀茂保憲・大春日益満らを召して、造暦の異論を問うた。(『西宮記』『北山抄』)
天徳四年(960)
5月 源満仲邸に強盗が押し入る
天徳四年(960)5月10日夜、源満仲邸に強盗が押し入った。
満仲は倉橋弘重を捕らえ、式明親王の次男親繁王、中臣良村、源蕃基の子らによる犯行だと白状させた。
満仲は検非違使庁の役人たちに式明親王の邸宅を捜索させたが、親繁王を捕らえることはできなかった。成子内親王の邸宅において親繁王の一味である紀近輔を捕らえたところ、満仲の家に押し入ったことを認めた。(『古事談』)
『扶桑略記』では応和元年(961)5月10日の出来事になっている。
関連年表
年表:後編
安倍晴明が生きていた時代に起こったできごと:後編
-
【年表】安倍晴明が生きていた時代に起こったできごと:後編
天徳五年(961)から寛弘二年(1005)の間に起こった主なできごとを紹介します。安倍晴明は、師の賀茂保憲とともに内裏焼亡で焼損してしまった霊剣の再鋳造に携わります。これ以降、様々な古記録に晴明の名が ...
続きを見る
安倍晴明の年表
安倍晴明の活動年表
-
【完全版】安倍晴明関係の年表についてわかりやすく解説
『小右記』『権記』『御堂関白記』など多数の史料をもとに安倍晴明の陰陽師・天文博士としての活動をご紹介。説話や伝説に見られるような超人的な能力をもつ陰陽師ではなく、一人の官人陰陽師としての晴明の実像が浮 ...
続きを見る