平安時代において、妊娠することは「孕む」「懐妊」などという。
平安時代の出産
平安時代の人々は、出産にあたり妊婦の前に怨霊や物の怪が現れることを恐れていた。
妊婦の邸宅では安産祈願の修験祈祷が行われた。
医術がまだ発達していなかった平安時代では流産や出産後に衰弱して亡くなることは珍しいことではなかった。一条天皇の皇后藤原定子も難産で亡くなっている。
懐妊してから五ヶ月が経つと、夫あるいは妊婦の親族が母胎の安全のために標の帯を巻く着帯の儀を行う。
儀式を行う際は、吉日・吉時・吉方を占う。
妊婦の部屋に置かれている調度品や女房たちの装束は白に替えられた。当時、白は誕生を促す色と考えられていた。
懐妊から出産まで
平安時代において、妊娠は「孕む」と言われていた。
step
1つわりが起こる
懐妊から2~3ヶ月後、体調に異変が起こる。平安時代でも「つわり」と呼ばれていた。
はじめは、御つはりとて、物も聞し召さざりけるに……(『栄花物語』)
平安時代でも、40歳を過ぎての出産は高齢出産に当たり難産とみなされていた。(『今昔物語集』巻26-5)
step
2里帰りする
懐妊から3~4ヶ月後、妊婦は暇をもらって里帰りする。
step
3着帯の儀
着帯の儀に用いる帯は、妊婦の親戚からもらう。その後、僧を招いて加持祈祷をしてもらい、帯を結ぶ。
step
4産室・調度品の準備
出産の時期が近づくと、普段の家具を取り外して産室を白を基調とした家具で揃える。
九月十日、御座処の設えの模様替えが行われ、中宮さまは白い御帳台に移った。(『紫式部日記』)
step
5僧や陰陽師が加持祈祷を行う
物の怪が出産を妨げないように、僧や陰陽師を召して加持祈祷を行わせる。
諸々の山々寺々を訪ねて験者という験者は余すところなく参り集い、祈祷をする声が三世の諸仏に届いてどのように天を翔けてくるのだろうと思いやられる。陰陽師も世にある限りを召し集めて、八百万の神々も耳をそばだてて聞いていないはずがないだろうと頼もしく感じられた。誦経の使者たちが騒ぎ合い、その夜も明けた。(『紫式部日記』)
無事に出産が終わったら褒美をもらう
妊婦が無事に出産を終えたら、加持祈祷を行った僧や陰陽師、医者などは効験があったとして褒美を賜った。
- この数ヵ月の間、集まって加持祈祷を行った僧たちにお布施を与えたり、医者や陰陽師などで特に効験があった者に褒美を与える。(『紫式部日記』)
step
6産婆が世話をする
出産するときは、産婆が世話をする。
難産・流産
難産の場合は、妊婦の頭髪の一部を切った。これは、将来出家して仏に仕えることを約束するので、代わりに功徳によって難産にならないようにしてほしいと願うために行われた。
出産に立ち会えないことも
- 寛和元年(985)4月28日壬寅の寅の刻、藤原実資のもとに女子が生まれたが、家に着いたときには出産が終わっていたので立ち会えなかった。(『小右記』)
出産後
step
1乳付け
乳母が赤子に乳を与える。
母親が赤子に乳を与える形だけの儀式も行う。
step
2産湯(御湯殿の儀)
陰陽師が産湯の日時と雑事について勘申し、産湯に用いる吉方の流水を汲んでくる。
御湯殿の儀は七日間に渡って行われ、一日に二回行う。このとき、装束や調度品などはすべて白を用いる。八日目になったら元に戻す。
- 寛和元年(985)4月28日壬寅、藤原実資は女子が誕生した後、巳の刻に源遠資の妻に乳付を行わせた。その後、鴨川の水を産湯として用いた。(『小右記』)
後産
出産後は、産屋で後産の儀が行われる。
ここでは、胎盤の摘出やへその緒の処理が行われる。へその緒は竹刀で切る。
中宮さまの頭頂部の髪を少しばかり剃って、殿が仏の加護を願って戒めを受けている間に途方に暮れて悲しんでいると、無事に出産してこれから後産の儀を行おうという時に、ひしめき合っていた僧たちも改めて声を張り上げて念誦し、額を深く下げて拝礼した。(『紫式部日記』)
湯殿
後残の儀の後、七日間、朝と夕方の二度行われる。
吉日を占って日取りを決めるので、出産当日に行われない場合もあった。
産養
赤子が生まれてから三日目・五日目・七日目・九日目の夜に産養という誕生祝が行われる。
- 寛和元年(985)4月30日甲辰、藤原実資の三夜産養が行われた。産婦の膳が饗された。包銭を男房、女房、随身所、雑色所、政所に下給した。(『小右記』)
- 同年5月2日丙午、実資の五夜産養が行われた。藤原永頼から銭五十貫が送られた。(『小右記』)
- 同年5月4日戌申、産婦の膳が饗された。(『小右記』)
- 長徳二年(996)6月13日壬午、藤原教順の七夜産養のため多くの公卿が集まることとなった。(『小右記』)
- 長徳三年(997)10月22日癸丑、藤原道長と源倫子の間に生まれた子の七夜産養があり、擲采(すごろく)が行われた。引出物があった。(『小右記』)
- 長徳四年(998)12月8日、藤原行成に男児が誕生してから七日目の夜に産養が行われた。(『権記』)
- 寛弘六年(1009)12月4日甲申、藤原道長の男児の九夜の産養が行われた。(『御堂関白記』)
産養の心づけ
『枕草子』では、産養のお祝いを品を持ってきた使者に対して心づけをやらないのはがっかりなものだとしている。
動物の産養
- 長保元年(999)9月19日戊戌、内裏の猫が出産したので、産養が行われた。藤原実資は動物にも人間の祝い事を適用しているのは聞いたことがないと嘆いた。(『小右記』)
色直
出産後八日目に行われる。
出産前に調度品や女房の装束を白で統一していたのを、元に戻す。
五十日の祝い
出産後五十日目の夜に祝宴が催される。
餅をお湯に入れて、子供の口に含ませる。
- 長徳三年(997)2月9日、脩子内親王の五十日の祝宴が催された。(『小右記』同年2月10日条)
啜粥・廻粥
生まれた子の幸せを願って祝言が述べられる。
祝言は男女それぞれ異なる。
祝言の言葉
男子:
「この殿には命長く官位高く、大臣公卿になり給ふべき若君ぞおはします」
女子:
「この殿には端正有相具足せしめて、女御后になり給ふべき姫君ぞおはします」