平安時代

平安時代の年中行事

中国の唐から流入してきた行事は以前から行われていたが、嵯峨天皇の時代(809〜823)になってようやく儀式として定着しはじめた。

特に平安時代は、年中行事が人々の心に大きな影響力を持っており、行事が人の命運を左右すると考えられていた。
そのため、天皇を中心とする中央政権に従わせる統一の源として、年中行事が活用された。

1月

四方拝(1月1日)

天皇は清涼殿の拝座につき、属星を拝し、次に天地四方と父母の山陵を拝して年災を祓い、幸福無事を祈る。

朝覲行幸(1月2日)

天皇が上皇ならびに母后に年賀のために行幸して行う儀式。

二宮大餐(1月2日)

後宮と東宮とで、群臣を召して宴会を開く。

1月7日

伴若菜(七草粥)

元日から八日までをそれぞれ鶏・狗・羊・猪・牛・馬・人・穀をあてて、七日は人日にあたる。
この日は刑を行わないと決められていた。

元々は漢代の儀式だったが、日本に輸入されて子の日の若菜摘みの風習と融合し、伴若菜という宮廷行事に発展した。
この日、七種の若菜をお吸い物にして食べると年中の邪気を避けられると信じられ、室町時代以降は七草粥として伝承されていった。

白馬節会

天皇が左右馬寮の引くあおうま(青馬)を見る儀式。
馬は陽の獣で青は春の色と考えられていたので、この日に二十一頭の青馬を見れば一年の邪気を避けることができるとされていた。
なお、この場合の”青”は本当の青色ではなく、灰色の馬をそう呼んでいた。

女叙位(1月8日)

踏歌の節会(1月14日)

1月15日

粥杖

お粥を煮た後の燃え木を削って杖を作り、その杖で女性の尻を叩くと必ず子が生まれるという言い伝えがあった。この時代に健康な子供が生まれてくることは稀であったからだという。

貴族社会においては遊びの要素が濃かったが、神聖な火の燃料となる薪を使って邪気を追い払うねらいもあった。

1月16日

踏歌の節会

男踏歌と称して灯りを灯し、男女入り乱れて踊り狂った。

賭弓(1月18日)

3月

曲水の宴(3月3日)

漢代における、子が亡くなると水辺に出て身を清めて盃を流して穢れを祓う祭りに由来する。

庭に曲溝を掘って水を引き入れ、人々がその両側に座って酒杯を浮かべ、酒杯が上流から流れてきて自分の前を通りすぎないうちに詩歌を吟じて、酒杯を取って飲む宴である。

春分の日

春分の日の前後七日間は金剛般若波羅密多教を読み、仏道に精進した。

4月

更衣(ころもがえ)(4月1日)

冬・春の服から夏・秋の服に着替える。

服装だけでなく、几帳や壁代なども夏季のものに替えられ、殿中の補設改修もこの日から始められた。

灌仏(かんぶつ)(4月8日)

釈迦の誕生を祝って五色の香水を仏像に振りかけ、法会を行う。

清涼殿に御簾を垂れ、昼御座を取り払って灌仏台を立てる。
その中に金色の仏像を置いて、道士が五色の水を三度仏像に注ぐ。それから王卿、女房が灌仏し、道士はお布施をもらって退出する。

5月

端午の節(5月5日)

五月は悪霊が現れる不吉な月だと信じられていた。
そこで、よもぎで人形を作り門戸に吊るして悪霊が取り憑くのを防ぎ、菖蒲の酒を飲んだり、ボートレースや薬草を摘んだりして邪気を祓った。

また、菖蒲・よもぎ・撫子・紫陽花などの季節の花で薬玉を作って柱に掛けると邪気が払われ、寿命も永らえ、幸福をもたらすと考えられていた。
この薬玉は、前年の9月9日の節句で掛けてあった菊瓶と取り替える。
主殿寮の官人が諸殿舎の軒に菖蒲をまいたので、後宮の女性には懐かしい古典的行事であった。

五色の粽(ちまき)

楚の屈原は5月5日に投身自殺した。
楚国人は追悼のため、屈原の命日には竹筒の中に米を入れて投げたという。

また、漢の武帝の時代に供え物が竜に盗まれて困っていると、食物を棟の葉に包んで五色の糸で縛るとよいとのお告げがあった。
そして、そのとおりにすると供え物は盗まれなくなった。

こうした中国の教えが日本にも伝わり、5月5日に粽を食べれば邪気を祓えると考えられるようになった。

7月

乞巧奠(7月7日)

七夕の星を祀る行事。

織姫と彦星の伝承は中国の漢の時代にはじまり、日本に伝わったものである。
七夕を「タナバタ」と呼ぶのは平安時代になってからで、奈良時代までは「ナヌカノヨ」と呼ばれていた。

七夕の短冊

唐から伝わった乞巧奠と日本における七夕の風習が融合し、竿の先に五色の糸をかけて願い事をすると、三年の内に願いが叶うと考えられるようになった。

盂蘭盆(7月15日)

「ぼん」または「ぼに」と略される。

中国では倒懸とうけんと呼ばれ、亡者が逆さに吊るされた苦しみを解き、救うための供養から始まった。
日本では、中元(7月15日)の季節祭と祖霊感謝祭が仏教行事として融合して成立したものと考えられている。

9月

重陽節(菊の節句)

陽の数である九が重なることから重陽節と呼ばれた。
また、重陽と同時に重九(=長久)でもあり、平安が続くように祈願した。
寒い季節に入ったことを知らせる儀式。
天皇は紫宸殿に出御し、群臣が宴会を開く。
音楽や舞妓の奏がある。
御膳を食べながら菊の花を鑑賞し、菊の酒を飲んだ。

この日、女性が菊の露に濡れた綿で肌を撫でると老けないと考えれていたので、延寿の祝いも行われた。
菊の花が延寿に効くというのは、中国から伝わった風習である。

菊の花と老化予防

魏文帝は七歳で即位したが、ある相者に十五年しか生きられないと言われて悲嘆にくれていた。
ある時、彭祖という仙人が帝に菊を折って献じたところ、帝は七十歳まで生きたという。
彭祖は菊の露が落ちた水を飲み不老不死となって、八百歳まで少年のような顔であったという。

菊のきせ綿

9月8日の夜、花を綿で覆って、翌日その花で体を拭き、老を去る呪いとした。

10月

玄猪(10月の亥の日)

十月の亥の日に餅を食べれば、一年間病気にならないという中国の言い伝えがあった。

11月

新嘗祭(十一月の丑・寅・卯の日)

収穫した穀物を神に捧げ、天皇が新鮮なお米を召し上がる行事。

五節の舞

新嘗祭では舞が行われる習わしがあった。これを五節の舞という。
舞姫の介添役である童女が御前に召されて見物される童女御覧もあった。

12月

追儺祭(12月31日)

大晦日の日の夜は、悪鬼を祓う追儺祭があった。
追儺は中国から伝わった儀式で、鬼やらいとも呼ばれる。

また、追儺祭と並行してご供養も行われた。
これは、この日の夜に亡き人が家に帰ってくると信じられていたからである。

大舎人が朱色の装束に四つ目の面を付け、高下駄を履く。
そして矢と楯を持ち、二十人の童子を従えて練り歩きながら、鬼を追った。

『徒然草』には、「晦日の夜、松明を灯して夜半ばすぎまで、人の門をたたいて走り歩く。何事であろう、ことさらに大声で騒ぐ声が、暁頃、次第になくなっていくのも、年の名残りを感じさせて心ぼそい」と記されている。

内裏では、夜中までには一通りの行事が終わるのだが、後宮の女房たちにとっては行事が終わってからが大忙しだった。
女房たちは元日に着る衣装を整え、化粧の準備のために奔走した。

参考資料

  • 山中 裕 「平安時代大全」PHP研究所、2016年

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