意外にも、二代目将軍・源頼家を支える13人の御家人には選ばれていない。
人物生平
重忠の父畠山重能は武蔵国男衾郡畠山荘を開いた、畠山の祖というべき人である。
治承・寿永の乱
重能は平氏と親密にしていたので、重忠も当初は平氏方に付いていた。
しかし、後に源頼朝に仕えることになる。
畠山重忠事件
畠山重忠事件は牧氏事件とともに、比企氏の乱の戦後処理に動揺していた武蔵国をめぐる北条氏と畠山氏の対立が幕府にまで及び、ついには北条政子・義時姉弟による時政追放にまで発展した。
息子と平賀朝雅との口論
元久元年(1204)11月4日、平賀朝雅邸で酒宴が開かれた際、嫡子重保と朝雅が口論になった。
同席していた者たちがなだめたので、大事には至らず解散したという。(『吾妻鏡』同年11月20日条)
だが、この知らせは6日に北条政範が没したという知らせと一緒に鎌倉に届いた。
元久二年(1205)6月21日、平賀朝雅は牧の方に重保から悪口を言われたと讒言した。
牧の方は腹を立て、畠山父子を誅殺しようと謀議を開いた。
時政が北条義時・時房に相談したところ、「重忠は治承四年の挙兵から忠節を尽くし父子の礼を重んじてきたので、謀反を起こすことはない」と言ったので、時政は無言で退出した。
義時も退出したが、牧の方の使者大岡時親が追いかけてきた。
重忠の謀反の件は、すでに露見しています。
そこで君のため世のためを思って時政に伝えたのです。
今あなたが申されたことは重忠の謀反を許そうとするものです。
これは継母を憎み、私を讒言人にしようとしているのでしょうか。
義時は牧の方の考えに従うと渋々返答した。(『吾妻鏡』同日条)
22日、義時率いる討伐軍は二俣川で畠山重忠の行列に遭遇した。
元久二年6月22日、義時率いる討伐軍は二俣川で畠山重忠の行列に遭遇した。
重忠は旅装のまま隊列を鎌倉へ向けて進んだが、戦闘態勢をとっていた討伐軍によって討ち取られた。
重忠は愛甲季隆の矢に討たれた。享年42歳。
北条時政と畠山重忠の対立
北条時政と畠山重忠の対立は、比企氏の仲間で畠山氏との郎等ともなっていた児玉党をどうするかという問題でお互いに譲れなくなっていた。
しかも、先任の平賀氏は畠山氏を武蔵国の有力在庁として重用してきたので、重忠は武蔵国に勢力を伸ばそうと考えていた時政に対して不満をつのらせていた。
義時の悲痛
当初、北条義時は畠山重忠誅殺に反対した。牧の方が主張する謀反の罪には明確な証拠がないので、重忠に真意を問いただすべきだと言ったのである。
だが、この勝利は後味の悪いものになった。
元久二年(1205)6月23日、鎌倉に帰還した義時は時政に合戦の経過を報告した。
重忠の弟と親類のほとんどは他所にいて、戦場にいたのはわずか100余人でした。
ですので、重忠が謀反を企てたというのは間違いでした。
あるいは、重忠は讒言によって誅殺されたのではないでしょうか。
季隆が重忠の首を陣に持ってきたのを見ましたが、長年親しくしてきたことを思い出して涙を抑えられませんでした。
時政は無言だった。(『吾妻鏡』同日条)
参考資料
- 永井 晋「鎌倉源氏三代記―一門・重臣と源家将軍 (歴史文化ライブラリー) 」吉川弘文館、2010年
- 榎本 秋「執権義時に消された13人 闘争と粛清で読む「承久の乱」前史」株式会社ウェッジ、2021年
- リスト3