鉢田の戦いは、治承四年(1180)10月14日に鉢田で行われた甲斐源氏と橘遠茂らの合戦である。
背景
治承四年(1180)8月、甲斐源氏の安田義定らが波志田山で橘遠茂、俣野景久らを撃破した。
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武田信義・一条忠頼らは石橋山で合戦が行われていると聞いて、頼朝と合流するために駿河国へ向かおうとした。
しかし、平氏軍が信濃国にいるため、まずは信濃へ出陣することにした。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉9月10日条)
経過
北条時政らと合流
9月15日、武田信義・一条忠頼らは信濃国の悪党を倒し、甲斐国へ戻った。
逸見山で北条時政と合流し、時政は信義らへ頼朝の命令を伝えた。(『吾妻鏡』同日条)
駿河国へ
9月24日、甲斐源氏と時政らが石和御厨で休息していたところに頼朝の使者として土屋宗遠がやって来た。
武田信義・一条忠頼らが話し合った結果、駿河国で合流することになった。(『吾妻鏡』同日条)
橘遠茂らの迎撃へ
10月13日、駿河国へ向かった甲斐源氏と北条時政・義時は大石駅に泊まった。
駿河国目代橘遠茂と長田入道が攻めてくるとの知らせを受けて、敵軍が押し寄せてくる前に迎撃しすることになった。
武田信義・一条忠頼・板垣兼信・武田有義・安田義定・逸見光長・河内義長・伊沢信光らは富士北麓の若彦路へ赴き、石橋山の戦いに敗れ甲斐国へ逃れていた加藤光員・景廉とも合流した。(『吾妻鏡』同日条)
橘遠茂・長田入道親子を撃破
10月14日午の刻、武田・安田の軍勢は鉢田に到着した。
そこへ、偶然にも橘遠茂と遭遇した。
鉢田は険しい地形で動きづらい場所だったが、伊沢信光と加藤景廉らは先陣を切り死力を尽くして戦ったので、ついに防戦していた遠茂軍の長田入道親子を討ち取り、遠茂を生け捕りにした。(『吾妻鏡』同日条)
影響
甲斐源氏たちが橘遠茂らに勝利したことで、後の富士川の戦いにおける平氏軍の勢力を減らすことに繋がった。