八幡神―源氏に信仰された武家の守護神

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鎌倉時代

八幡神は日本に大陸文化が入ってきた北九州に生まれ、土着のさまざまな信仰や外来の仏教を巻き込みながら武家の守護神となって日本全国に浸透した神である。その正体は応神天皇だとされている。
「応神」は諡号(送り名)で、祭神名は誉田別尊として祀られていることが多い。

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武家の守護神として

源義家は石清水八幡宮の社前で元服し、自ら「八幡太郎義家」と名乗った。
その後、源頼朝は鶴岡八幡宮を源氏一門の守護神として厚く祀ったことで全国各地の武士に崇敬されるようになり、

王朝的秩序からの独立

「武士による武士のための政権」を実現した頼朝は、王権の象徴である天照大神とは異なる八幡神を武家の守護神に据えた。

八幡神は皇祖神である天照とは別の秩序に位置し、源氏の氏神である以上に武神としての性格を有していた。『将門記』によると平将門は天慶2年(939)の末に常陸・下野を攻略し、上野に至り国庁で神託を与えられた。そして、”新皇”を宣言した将門にその地位を保証したのが八幡大菩薩であった。

このように、八幡神には天照大神とは異なる世界を創る上で大きな役割があった。
天照による王朝的秩序からの解放こそが、武家が守護神として八幡神を信仰する理由であった。

神仏習合

八幡大菩薩として

八幡神は八幡大菩薩と称され、南都の旧大寺や真言宗の寺院にも鎮守社として灌頂された。

八幡社

全国に約2万5千社ある八幡社は、応神天皇(誉田別尊)を主祭神として祀っている。

八幡信仰の発祥地である宇佐八幡宮(大分県)は欽明天皇の時代に神が現れて「我は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と名乗ったことから始まった。

歴史

東大寺鋳造の際には八幡神の託宣によって陸奥国に黄金が出る。
天平勝宝元年(749)、奈良に手向山八幡宮が創建されて国家仏教の守護神の地位を得る。
神護景雲3年(769)、道鏡事件で宇佐八幡の託宣により道鏡の野望が退けられ、国家守護神の地位を明確にする。
貞観2年(860)、奈良大安寺の僧行教によって石清水八幡宮が勧請される。
永保元年(1081)、八幡社が朝廷より特に尊崇された22社に選出される。
11世紀末、八幡神は源氏の氏神として崇められ、源義家は石清水八幡宮前で元服して八幡太郎を名乗る。
源頼朝は鶴岡八幡宮を鎌倉幕府の鎮守として、武家の守護神として全国各地に勧請された。

応神天皇

応神天皇は第14代仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子で、第15代天皇。
『古事記』では品陀和気命ほむだわけのみこと大鞆和気命おおともわけみこと、『日本書紀』では誉田別尊ほむたわけのみことと呼ばれる。

熊襲反乱の平定後に仲哀天皇が亡くなると、熊襲の背後に新羅が控えていると考えた神功皇后は天照大神や住吉神の託宣を得て三韓の攻略に出発する。
皇后は筑紫に凱旋した後、御子(後の応神天皇)を産んだ。
皇后が大和の帰路につくと、忍熊王(御子の異母兄)が帰還を阻止しようと抵抗してきた。
皇后は武内宿禰に御子を乗せた軍船を紀伊に迂回させ、山背から忍熊王を攻撃させた。
武内宿禰の攻撃を受けた忍熊王は近江の瀬田で敗死した。
神功皇后は大和の磐余に都し、69年後に皇后が100歳で亡くなると、御子は第15代天皇に即位し応神天皇を名乗った。
応神天皇は百済から三人の帰化人を受け入れたり、中国の文芸や工芸を導入した。

応神天皇は、大分県の宇佐神宮を本宮とする八幡信仰の中心的神格となっている。

『扶桑略記』

豊前国(大分県)宇佐郡の厩峰の麓の菱潟池のほとりに、容貌奇異な鍛冶の翁が暮らしていた。
ある日、この土地の神主である大神比義は翁が金色の鷹や鳩に姿を変えるのを見た。
大神は翁に3年仕え、翁に「もし神であるならば、姿を現してください」と祈った。すると、翁は3歳の童子に姿を変えて竹の葉の上に立ち、「我は十五代の応神天皇であり、護国霊験威身神大自在王菩薩なり」と名乗ったという。

参考資料

  • 「日本の神々の事典―神道祭祀と八百万の神々」学研プラス、1997

  • 関 幸彦「『鎌倉』とはなにか―中世を、そして武家を問う」山川出版社、2003

  • 戸部民夫「『日本の神様』」がよくわかる本 八百万神の起源・性格からご利益までを完全ガイド」PHP研究所、2004