陰陽道 日本神話

牛頭天王とスサノオ

牛頭天王

インドの祇園精舎の守護神で薬師如来の化身でもあり、新羅の牛頭山の神ともいわれる疫病除けの神。
日本においては、最初に播磨国明石浦に垂迹、次に広峰〜京都東山瓜生山北白川東光寺〜東山の感神院に移り、これが現在の八坂神社となっている。

『備後国風土記』における蘇民将来の伝承

北海の疫病神だった天王は、南海の神の娘に求婚するために旅に出た。
旅の途中で夜になったので「将来」という名の一族の土地で泊まらせてくれないかと頼んだ。
裕福な兄・巨旦将来はこれを断ったが、貧乏な弟・蘇民将来は天王を泊めて食事も出した。

その後、8人の子供を作って北海に帰ろうとした天王は自分を歓待してくれた蘇民将来に自分の正体を明かし、彼に「茅の輪を作って腰に着ければ、疫病を免れることができる」と教えた。
そして茅の輪を身に着けていなかった巨旦将来の一族を疫病で滅ぼした。

茅の輪くぐり

この物語で登場した茅の輪は茅の輪くぐりという風習となり、6月に夏越祓(名越祓)の中で執り行われる。
この儀式は正月から6月までの半年間の穢れを祓うために行われ、下半期の穢れは年末に行われる大祓で落とすことになっている。

『簠簋内伝』の「序 牛頭天王縁起」

牛頭天王の前世の因縁〜妃探し

天竺てんじく摩訶陀まかだ国の霊鷲山の東北、波尸那城の西に当たる吉祥天の下に王舎城があり、商貴しょうき帝という大王がいた。
かつて、彼は天竺の神々の王である帝釈天に仕え、色欲や食欲とは無縁の善現天(天界)に住んでいた。
商貴帝は天刑星てんぎょうしょうという名で星の世界の監視役である探題となり、三界(欲界・色界・無色界)を見て回っていた。
神仏への信仰が強かったので、人間に生まれ変わった商貴帝は仏と深い縁で結ばれて王舎城の大王となった。

人間界に降りた天刑星は名を牛頭天王と改めた。

鋭く尖った角と黄牛の面貌をもつ彼の姿は夜叉のようだったので、牛頭天王には妃がいなかった。
だが、牛頭天王は為政者としては優れていたので天王に后がいないことを嘆いた。

「天王がこれまで一度も政治を怠ったことがないおかげで国は繁栄した。
災害はなく、種を蒔かずとも五穀は実り、求めずとも宝物が手に入る。
このようなすばらしい治世だというのに、天王にはお妃様がいない。
このままでは天王の治世を受け継ぐ子ができず、平穏な時代は長く続かないのではないか」

人々が嘆いていると、虚空界から一羽の青い鳥が飛んできた。
瑠璃鳥という名前で翡翠のような形をしていて、鳩のような声だった。
瑠璃鳥は牛頭天王の目の前に飛んできた。

「私は帝釈天から遣わされた使者で、昔はあなたと一緒に天界で働いていました。
天界にいたときのあなたは天刑星と名乗り、私は毘首羅天子と名乗っていて、共命鳥のように親しい間柄でした。
あなたは信心深いゆえに人間に生まれ変わり、地上の王である転輪聖王の位に就いておられます。
ですが、あなたには后や側室がいません。
そこで、天帝は后となるべき女性がいる場所をあなたに教えようと私を遣わしたのです」

瑠璃鳥は牛頭天王の未来の后の居処を教えた。
「摩訶陀国から南に向かった海の向こうに、沙竭羅しゃっからという竜宮城があります。
城には三人の美しい妃がいます。
三人のうち二人はすでに嫁いでいますが、残った頗梨采女こそがあなたの未来のお后になる人です。
彼女を后にするべく沙竭羅に向かってください」
瑠璃鳥に姿を変えていた毘首羅天子は虚空界に帰っていった。

蘇民将来との出会い

牛頭天王は三日間物忌をして心身を清めた後、眷属を率いて南海へ向かった。
龍宮城は八万里先にあったが、三万里に達しない南天竺の夜叉国の辺りで馬は疲れ果てていた。
夜叉国の王は巨旦大王という鬼で国民も化け物の類だったが、一晩ぐらいなら泊めてくれるだろうと城門に目を向けた。
しかし、巨旦大王は天王を激しく罵倒して城門を閉ざしてしまったので、天王は仕方なくその場を去った。

宿が見つからないまま、一行はさらに千里進んだ。
松の生い茂る園に行き当たったのでそのまま林の中を進んでいくと、貧しそうな女に出会った。
天王が女に休ませてくれないか頼むと、女が答えた。

「私は巨旦大王の奴隷です。
城内の一角に横になれる場所があるだけですから、貴方様のようなお方に休んでいただけるようなところではありません。
それより、ここから東の方へ一里ばかりの庵を訪ねてみてはどうでしょう。
みすぼらしい庵ですが、蘇民将来という慈悲深い者がおりますから、その者に宿を求めるのがよいと思います」

天王は女に教えられた通りの道を進み、やがて蘇民将来の庵にたどり着いた。
年老いた翁の姿が見えたので、天王は泊めてくれないか頼んだ。
老翁は天王の寝場所を作り、食べるものを与えた。
老翁に感嘆した天王は彼に千金を与え、その志を称えた。

夜が明けると、天王は再び南海に向かう準備を始めた。
老翁は馬車では南海の海底まで行けないと言って、天王に宝船を贈った。
天王は馬車を捨てて船に乗り込み、たちまち龍宮城に到着した。

牛頭天王と巨旦大王の戦い

龍宮に着いた天王は竜王に来訪の理由を伝えた。
喜んだ竜王は急いで不老門を開いて天王を招き入れ、長生殿へ案内した。
天王はようやく頗梨采女と出会い、結婚を約束した。
天王と頗梨采女は仲良くなり、一日中一緒にいて片時も離れることがなかった。

こうして、二十一年の歳月が流れた。
二人の間には八人の王子が生まれた。
長男の総光天王をはじめ、魔王天王、倶摩羅天王、得達神天王、良侍天王、侍神相天王、宅神天王、蛇毒気神である。
子供が生まれると牛頭天王は八王子を呼んでこう告げた。
「息子たちよ、私は北天竺の王である。かつて妃を求めて南海を訪れた時、途中で広遠国という国を通った。
その国の王は巨旦大王という鬼王、国民も化け物の類だった。
私が一晩泊めてもらおうと門前に進むと、巨旦は私を罵倒して追い出したが。
だが、その時の私は物忌をして心身の穢れを祓った身だったので、巨旦と戦って穢れが降りかかるのを恐れて静かにその場を離れた。
けれども、こうして無事に妃を得ることができたので、私は巨旦と奴の城を破壊しつくしたいと思う」

八王子たちはすぐに出陣し、巨旦の居城に突撃した。
突然巨旦の顔に鬼の相が現れたので博士に占わせたところ、こう答えた。
「これは国の滅亡の兆しです。
昔、北天竺の牛頭天王が妻を求めて海に赴いたとき、あなた様は天王を罵倒して門を閉ざしました。
その時の天王は物忌の最中だったので戦わず通り過ぎたのですが、天王と妃の頗梨采女との間に生まれた八人の王子たちが数多の眷属を引き連れて我が国を滅ぼそうとしているのです」
鬼王がなんとかできないのか博士に尋ねると、博士は千人の僧侶を供養し、泰山府君の法を行うように言った。
鬼王は高僧たちに命じて祈祷させた。

天王は巨旦の城を眺めていたが、頑丈な城はどんな神力や法術をもってしても攻めがたいように思われた。
そこで天王は、阿你羅と摩你羅に城を偵察させた。
彼らは修行僧の中に居眠りをしている者がいるため、呪文がいい加減なものになって窓に大穴が生じていると報告した。

これを聞いた天王は神力の翼を得て鬼王の城に攻め入り、眷属とともに巨旦一族を滅ぼした。
その時松林で出会った巨旦の女奴隷のことを思い出した天王は、あの女だけは助けてやろうと思った。
天王は邪気を避ける桃の木を削って札を作り、「急々如律令」と書き記した。
そして指で札を弾き飛ばすと木札は彼女の袂に入り、彼女だけが災禍から免れることができた。

巨旦調伏の祭儀

天王は巨旦の死骸を五つに分けて五節句に当てはめ、巨旦調伏の祭儀を執り行った。
北天竺へ帰る途中で蘇民将来の家に立ち寄ったところ、蘇民将来は以前とは打って変わって立派な宮殿を造営して天王とたちの帰国を待っていた。
天王は、三日間蘇民将来の歓待を受けた。蘇民将来のもてなしぶりを喜んだ天王は彼に夜叉国を与え、子孫を守ると約束した。
「私はいずれ疫病神となるだろう。
その時、八王子や眷属が乱入することもあるだろうが、お前の子孫が『私は蘇民将来の子孫です』と言えば、その者たちを苦しめるようなことはしないと約束しよう。
お前を守る証として、二六の秘文を授ける。
末法の衆生は三毒に耽って煩悩を募らすことになり、天地の調和は乱れ、人は病に冒されることになる。
もしこれらの病苦から免れたいと思うなら、五節句の祭礼を正しく執り行い、心の内に秘文を守って厚く信敬するように」

天王は五節句の祭礼の意味を蘇民将来に教えた。
一月一日に用いる紅白の鏡餅は巨旦の骨肉、三月三日に供えるよもぎ餅は巨旦の皮膚、五月五日の菖蒲のはちまきは巨旦の髭と髪、七月七日の小麦の素麺は巨旦の筋、九月九日の黄菊の酒は巨旦の血脈で、蹴鞠の鞠は巨旦の頭、的は巨旦の目、門松は巨旦の墓じるしであり、修正の導師、葬礼の威儀は巨旦を調伏するための儀式であると告げ、天王は北天竺へと帰っていった。

長保元年(999)6月1日、祇園社で安倍晴明によって30日間、巨旦調伏の儀式が行われた。
6月1日の歯固めの儀式は五体を分断された巨旦を噛み砕くという意味が込められているので、しっかり行うことが大事である。

悪いのは巨旦の邪気とその残党であり、信じるべきは牛頭天王と太歳・大将軍・太陰・歳刑・歳破・歳殺・黄幡・豹尾の八王子なのだ。

蘇民将来と『備後国風土記』

『簠簋内伝』の牛頭天王縁起は『備後国風土記』を下敷きにしている。

祇園祭

毎年京都で行われている祇園祭は、本来は疫病神である牛頭天王を疫病を防ぐ神と解釈し、牛頭天王の祭りとして始めたものである。
祭の最後では、夏越祓も行われる。

スサノオとの習合

本地垂迹思想において、牛頭天王は素盞鳴尊と同一視される。

スサノオは最後に新羅国の牛頭山に鎮まった。
斉明天皇二年(656)、スサノオの御霊を日本に勧請して八坂郷に祀り、牛頭山から勧請したことから牛頭天王と呼ぶようになったという。

また、『備後国風土記』において、牛頭天王は蘇民将来に正体を明かした際「我は素盞鳴尊なり」と名乗ったという。

疫病除けの神としての性質

スサノオが高天原を追放される時に髭や手足の爪を切られるのは、穢れを落とす禊祓いの意味を持つと考えられている。
古代社会で魔除けの呪法を体現する存在であったため、スサノオは疫病除けの神として信仰されるようになった。

牛神信仰

牛は牛頭天王の神使であるため、本地垂迹で同一視されているスサノオを祀る神社でも神使として祀られている。

撫牛信仰

農村地帯では牛の霊である農耕神を祀る牛神信仰があった。
牛神は農耕生活を助け、稲作の神として信仰されている。

神社の境内に祀られているうずくまった牛の像の、自分の体の悪いところと同じ部分を撫でると病気が治ったり、撫でるだけで心の病が治る撫牛という風習がある。

この撫牛信仰は、陰陽道の呪法である撫物と牛の霊力が結び付けられたものである。

参考資料

  • 戸部民夫「『日本の神様』」がよくわかる本 八百万神の起源・性格からご利益までを完全ガイド」PHP研究所、2004年
  • 高平 鳴海「図解 陰陽師」新紀元社、2007年
  • 戸部民夫「神様になった動物たち」大和書房、2013年
  • 藤巻一保 「安倍晴明『簠簋内伝』現代語訳総解説」戎光祥出版、2017年

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