生い立ち
治承4年(1180)7月、後鳥羽天皇は高倉上皇の第四皇子として生まれた。
母は修理大夫坊門信隆の娘殖子(後の七条院)。
藤原範季によって育てられた。
兄弟
長男の安徳天皇は治承2年(1178)11月12日にに生まれた。母は平徳子(建礼門院)。
次男の二宮守貞は治承3年(1179)2月28日に生まれた。母は後鳥羽と同じ殖子。
三男惟明は同じ治承3年(1180)に生まれた。母は宮内少輔平義範の娘。
神器なき即位
寿永2年(1183)7月木曽義仲の大軍が京都に押し寄せ、平家は都落ちを余儀なくされた。
平家は幼い安徳天皇とその異母弟守貞、そして三種の神器とともに京都を脱した。
代わって入京を果たした義仲は、北陸から連れてきた以仁王の子北陸宮を天皇にしろと後白河を脅した。
ところが、後白河は5歳の惟明と4歳の後鳥羽のどちらを践祚させるか考え、悩んだ末に後鳥羽を践祚させることにした。
実際の即位式は、政治的な混乱を避けるために翌年7月28日に行われた。
後三条に倣い太政官庁で即位式が行われた。
以後、即位式の場は太政官庁で行われるようになる。
そして、この神器なき即位は生涯に渡って後鳥羽を苦しめた。
如在の儀
平家が安徳天皇と三種の神器を都から持ち出してしまったせいで、都には天皇がいなくなってしまった。
神器を持たぬまま後鳥羽を即位させるのか、神器が戻ってくるのを待つのか話し合われたが、結局後鳥羽は神器がないまま即位し、平家が滅亡するまでのおよそ2年近くの間神器なき天皇となった。
君臣合体
即位した後鳥羽はまだ幼かったので、五摂家筆頭の近衛家の祖として名高い近衛基通が摂政を務めた。
だが、法住寺合戦で敗れた後白河が義仲に幽閉されると、基通も摂政を罷免されて甥の師家が代わった。
そして、義仲が関東から上洛してきた源義経に滅ぼされると、基通が摂政に復帰した。
元服
建久元年(1190)、後鳥羽は11歳で元服した。
壇ノ浦の戦いで海に沈んだ宝剣の代わりに、昼御座にある剣が宝剣代として用いられた。
譲位問題
建久9年(1198)、後鳥羽は源通親の養女在子の皇子(後の土御門天皇)に譲位した。
なお、源頼朝はまだ4歳の皇子が即位することに反対していた。
次女三幡を入内させようとしていた頼朝は、幼帝ではない守貞親王や惟明親王への譲位を期待していた。
しかし、当時の政治情勢を踏まえると、後鳥羽の兄である彼らへの譲位はありえないことだった。
『新古今和歌集』の編纂
正治元年(1199)あるいは翌年の正治2年(1200)から、後鳥羽は和歌を作り始めた。
正治2年に『正治初度百首』という、歌人たちが一人百首ずつ和歌を詠む行事が催された。
当初は源通親と六条家の歌人だけで行われる予定だったが、歌壇長老俊成が後鳥羽に直訴して藤原定家ら3人が追加された。
合わせて、23人の歌人が参加した。
和歌所の設置
建仁元年(1201)、院御所二条殿の弘御所北面に『新古今和歌集』を編纂するための役所として和歌所が設置された。
寄人は左大臣九条良経を筆頭に、源通親、慈円、俊成らがいた。
当初は藤原定家ら6人が撰進を務めたが、元久2年(1205)からは後鳥羽自身が撰進を務めるようになった。
『新古今』の竟宴
元久2年(1205)3月、『新古今和歌集』の完成を祝う宴が開かれた。
実際にはまだ定家らが改訂している途中だったが、延喜5年(905)の『古今和歌集』撰進から300年という節目を祝うためだった。
後鳥羽院政のはじまり
九条家の復活
建久七年の政変以来、九条兼実は息子の九条良経が任じられていた内大臣の職も、天皇の外祖父となった源通親に奪われるのだろうと懸念していた。(『玉葉』建久九年〈1198〉1月7日)
だが、兼実の懸念に反して正治元年(1199)6月22日に藤原兼雅が左大臣を辞任すると、九条良経が左大臣に昇進し、その後任の内大臣として源通親が就任した。
慈円は『愚管抄』でこの良経の処遇は後鳥羽の意向に基づくものだったと記している。
正治二年(1200)1月には兼実の弟慈円の籠居も解かれて、院御所での修法が命じられた。
そして建仁元年(1201)2月、慈円は天台座主に再任された。
こうして、建久七年の政変によって排除されてしまった九条家の人々が中央政界に戻ってきたことによって通親の国政主導は大きく制限されることとなった。
院近臣の繋がり
関東申次(幕府と朝廷の朝廷側窓口)を西園寺公経と坊門信清が務めた。
源実朝との関係
元久2年(1205)、源実朝の妻として坊門信清の娘が鎌倉に下った。
後鳥羽の側近で卿二位の藤原兼子の勧めだった。
兼子は養女坊門局が生んだ冷泉宮を養育していた。
北条時政と牧の方の娘は信清の息子忠清と結婚していた。
信清の姉七条院は後鳥羽の母であり、実朝の妻の姉坊門局も後鳥羽に仕えている。
坊門家を介して、後鳥羽と実朝は義理の兄弟になった。
実朝暗殺
承久元年(1219)1月、実朝が頼家の遺児公暁に暗殺された。
暗殺される直前になって、実朝の御剣役を務めていた北条義時が体調不良を訴え、源仲章に代わってもらいその場を去っている。
その後、幕府は後鳥羽の皇子雅成親王か頼仁親王を鎌倉に迎えたいと奏上してきたが、後鳥羽は実朝暗殺の黒幕を義時と考えたのか、親王の鎌倉下向に反対した。
地頭の撤廃を要求
後鳥羽は愛妾である白拍子亀菊の所領・摂津長江荘の地頭撤廃を要求した。
義時はこれを断固拒否し、弟時房に幕府軍千騎を率いて上洛させた。
摂津長江荘の地頭は義時だったという。
承久の乱へ
頼茂の挙兵
義時は後鳥羽の皇子を鎌倉に下向させるよう要求した。
交渉の結果、九条道家の三男三寅が下向することになった。
しかし三寅の鎌倉到着直前になって、大内守護源頼茂が自ら将軍になりたいと言い出した。
摂関藤原家の者よりも、源氏の自分が将軍になるべきだと主張し始めたのだ。
幕府の在京御家人の訴えにより、後鳥羽は頼茂に都へ来るよう命じた。
だが、頼茂は応じなかったため、頼茂追討の宣旨を発給し在京御家人らが頼茂が立てこもっていた大内裏を攻撃した。
頼茂は大内裏に火を付けて自害した。
朝廷の権威を象徴する大内裏が焼失したのは前代未聞だったが、大内裏の再建は保元の乱後以来のことだった。
そして、再建費用は全国の荘園と公領にかけられた。
承久の乱
圧倒的劣勢
畿内近国17ヵ国のうち、少なくとも14ヵ国が後鳥羽率いる朝廷方に加わった。
九州を除いた西国からは32ヵ国のうち、若狭国・伯耆国・美作国・土佐国ほか10ヵ国を除いた18ヵ国が朝廷方に加わった。
謀議の中心となったのは後鳥羽の母七条院の関係者(坊門忠信)と順得天皇の母修明門院の関係者(高倉範茂、源有雅)だった。
しかし、大臣以上の公卿は参加しなかった。
京都守護も務めた親幕派の貴族である一条能保の子供のうち尊長・信能・能継・能氏らは朝廷方に加わった。
だが、義時の娘と結婚して鎌倉にいた実雅や、頼氏は加わらなかった。
また、後鳥羽の近臣だった西園寺公経も子の実氏とともに幽閉されている。
朝廷のすべての人間が一致団結して幕府を倒そうとしたわけではなかったのである。
だが、結局は幕府軍19万騎に対し朝廷軍は2万数千騎という圧倒的な劣勢を強いられた。
隠岐島での生活
承久の乱の敗北後、後鳥羽は隠岐に配流された。
和歌に没頭
『遠島御百首』
『遠島御百首』では、中世の民衆の姿や自身の孤独と望郷がとらえられていた。
『時代不同歌合』
『時代不同歌合』は古今・後撰・拾遺などの歌人50人の歌を左方に配し、後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今などの歌人の歌を右方に配して競わせたものである。
『新古今和歌集』撰者の中心だった藤原家隆が支援した。
『遠島歌合』
嘉禎2年(1236)秋、都の旧臣歌人たちにお題を出して歌を競わせた歌合。
『隠岐本新古今和歌集』
晩年の後鳥羽は『隠岐本新古今和歌集』の改訂に尽力した。
だが、周囲に協力してくれる者はいなかったという。
そうして延応元年(1239)2月22日、後鳥羽はこの世を去った。享年60歳。
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 平 雅行 (編)「公武権力の変容と仏教界 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第三巻)」清文堂出版、2014年
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