鎌倉時代 初心者の館

御家人制度

源頼朝は全国の武士を一つにまとめるために、新たな統合原理として御家人制を模索するようになる。
元々は「家人」という言葉に、主人に対する敬意の表現として「御」がついただけの言葉である。

鎌倉幕府の誕生によって日本中すべての武士が”御家人”になったというわけではなく、西国ではごく少数の武士しか御家人になっていない。

『家人』から『御家人』へ

家人と主人の従属関係

『家人』とは貴族や武士に奉仕する従者で、平安時代から広く使われていた言葉である。
一般的に家人は身分的従属性が強く、常に主人の側に仕えているわけではないが、主人に何かあれば運命をともにするという一蓮托生の関係だった。
家人は主人に従う証として、見参(対面の儀式)と名簿(姓名を記した書き付けの捧呈の儀式)を行った。

なお、主人としてふさわしくないと思えば、離れることもできた。

家礼

武士社会において従者が主人と結ぶ関係には『家人』のほかに『家礼けらい』という型があった。
家礼は家人よりも主人に対する従属度が低く、自立した関係で主人に殉じる必要もなかった。

家人と家礼の違い

『吾妻鏡』治承四年(1180)10月19日条で、平知盛に属して在京していた加賀美長清兄弟が頼朝に加勢しようとして母の病気を口実に休暇をもらおうとした。
だが、知盛の許可をもらうことはできなかった。
その頃、高橋守綱と逢う機会があったので、この機会を利用して鎌倉への下向を許されないことを訴えた。
それを聞いた守綱は持仏堂に向かって手を合わせ、「当家の運は今この時に終わってしまうのでしょうか。源氏の人々を家礼として扱うことさえ恐れ多いことなのに、まして帰国を引き止めるなどというのは家人を召し使うようなものだ。すぐに私が書状を送ろう」と言って、知盛に鎌倉下向を許すように書状を送った。

『家人』と『御家人』の違い

本来、家人はあくまでも一人の主君に対する精神的な意味での従属関係であり、常に主君の側にいるわけではないが、お互いに存在を認識している関係性であった。
一方、鎌倉幕府の御家人も当初は家人と主君のような関係性だったが、御家人に西国の武士たちも含むようになると、こうした関係は抽象的なものになってしまうのである。

御家人制とは

源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の将軍(=鎌倉殿)との間に主従関係を結んだ武士を御家人という。

御家人制のはじまり

「御家人」という言葉は『吾妻鏡』治承四年(1180)6月24日条「御書を送って源氏累代の御家人たちを呼び寄せることにした」や同年9月3日条「(大庭)景親は源家譜代の御家人でありながら(以下略)」など、源氏と関わりのあった武士たちについて記述する場合に用いられている。

『吾妻鏡』寿永三年(1184)3月1日条では鎮西九国住人らへ「鎌倉殿(頼朝)の御家人として元通りに所領を安堵(承認)するので、それぞれ軍勢を率いて平家を追討せよ」とあり頼朝の袖判下文が続くことから、「御家人」という言葉が用いられるようになったのは東国武士の家人化がほぼ完成する時期だったと考えられる。

御家人の義務

御家人は元々所有していた領地(本領)を将軍に承認してもらい、新たな所領の承認を受け、その代わりに将軍に対して合戦時における従軍・戦闘参加の軍役と将軍らの身辺警護、鎌倉・京都の警衛および幕府の通常時の職務や幕府財政を支えるための米・銭の拠出などの奉仕をする義務がある。

政治的発言力を持つ階層の拡大

将軍(=鎌倉殿)のもとに大小の御家人が結集することによって集団としての利害の貫徹を図ることが可能になり、これまで主君に従うだけだった武士が場合によっては国全体の方針までも左右できる政治的発言力を持つようになったことが鎌倉幕府成立による最大の変化であった。

そもそも、古代国家における武士は「国には目代に従い、庄には預所に仕え、公事雑役に駆り立てられ」るという程度のものだった。
武士階層が政治の場に登場したということは、社会層の平準化が進展したことになる。

頼朝の時代は御家人にも区分があった

源頼朝が鎌倉殿だった時代は、門葉・家子・侍の区分があった。

門葉

門葉とは清和源氏一族のことである。

『吾妻鏡』元暦元年(1184)3月17日条で、清和源氏義光流で甲斐源氏のひとりであり、治承・寿永の乱に従軍し平家追討のために西海にいた板垣兼信は「偶然にもご門葉(ご一門)に列している私は追討使に任命されて嬉しく思っていたところを、土肥実平は私の部下であるにもかかわらず(頼朝から)特別なご命令を受けていると言って、私に相談もせず西海での雑務や軍士の手分けを独断で行おうとしています。こんな調子ではやる気を失ってしまうので、私を実平の上司とするというご一筆をください」という書状を頼朝に送っている。

これに対し頼朝は、「門葉だからとか、家人だからというものではない。個人の器量によるものである」と兼信を退けた。

また、『吾妻鏡』建久六年(1195)1月8日条には、毛呂季光が豊後守に推挙された理由として「由緒有りて門葉に准ぜられていた」と記されている。
さらに、『吾妻鏡』同年11月6日条には、頼朝が下河辺行平の子孫をずっと門葉に准ずるという内容の文書を与えたと記されている。

家子

家子とは、主人と血縁関係にある者を指す。そのほとんどが武士団において主人と血縁をもち、血縁のない家臣である郎従より立場が上である家子を指している。

頼朝の家子

『吾妻鏡』建久元年(1190)9月29日条で、頼朝の上洛にお供する人の名簿で「家子ならびに豊後守・泉八郎らは殿字を加えられる」とある。
豊後守は毛呂季光のことで、門葉に准ぜられている季光と同様に殿字を加えられている家子はほかの御家人よりも上の立場にいたことになる。

頼朝の親衛隊のような存在

『吾妻鏡』養和元年(1181)4月7日条によると、頼朝は御家人のうち弓術に長け頼朝と心の壁がない者を選出し、毎晩寝室を警護させたという。
選ばれた11人の御家人には家子である北条義時や結城朝光、子孫が門葉に准ぜられた下河辺行平も含まれている。
頼朝の家子とは、御家人やその兄弟・子どものなかから特に頼朝と親しい者を選抜した親衛隊のようなものだったのではないかと推測される。

普通の御家人。
家子と違って、主人と血縁関係をもたない家臣(郎従)である。

江戸時代まで続いた御家人制

「御家人」という呼び名は江戸時代まで用いられた。
江戸幕府の御家人は旗本とともに天下の直参であり、将軍直属の家臣としての誇りをもつ武士集団であった。

一方、御家人くずれの小悪党が歌舞伎で活躍するように、所領一万石以上の大名や大名より身分は低くとも将軍に拝謁を許された旗本とも異なる御家人たちは誇り高いにも関わらず、身分的・経済的には最も恵まれない武士団であった。

御家人同士の関係

御家人同士は対等な関係

御家人たちは、建前としてはお互いに対等な関係とされていたが、実際には身分的な立場の違いが存在した。

古くから清和源氏嫡流との繋がりを持ち、頼朝の挙兵に参加した東国御家人は、そうでない東国御家人や西国御家人よりも上の立場であった。
また、所領や兵力の大きさの違いも御家人の序列に影響を与えていた。

『吾妻鏡』文治三年(1187)8月4日条で、頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を始めるため流鏑馬の射手と的立(的を立てる役目)の役を割り振った。
その中で熊谷直実に上手の的立を命じたところ、直実は不満げにこう訴えた。

熊谷直実

御家人はみな傍輩ほうばいです。しかし射手は騎馬しており、的立役の者は歩行です。
すでに優劣の差別をしているようなものであり、このようなことでは直実はご命令に従えません。

源頼朝

このような役目はそれぞれの器量を図って命じたものであり、優劣をつけるものではない。
ましてや的立役は下の務めではない。それにまた、新日吉社の祭りの院の御幸のときには本所である院の衆を召して流鏑馬の的が立てられた。
その物事の始まりを考えると、むしろ射手よりも良い役である。早く勤めるように。

直実が「御家人はみな対等な関係であるはずなのに、流鏑馬の射手と的立の役目は優劣の差別をしているようなものだ」と訴えたのに対し頼朝は「それぞれの御家人の適正に応じて役目を割り振ったのであり、優劣をつけるものではない」と言ったが、それでも直実は納得できず、ついに所領の一部を没収されてしまった。

御家人の序列問題を回避する

頼朝にとって、こうした御家人同士の身分序列に関わるさまざまな問題を解決することは意外にも難問だった。

御家人の座次問題

文治二年(1186)1月3日に行われた鶴岡八幡宮拝礼での御家人の座次(頼朝の前における御家人の席の序列)について、千葉胤頼が父常胤のほぼ真正面の位置(=身分が対等であることを示す位置)に座っていたことが御家人たちの間で問題になった。

元々、この座次は頼朝の命によるものだったのだが、その後頼朝は胤頼が五位、常胤が六位という位階の相違による判断であることを弁明させられる。
公家社会の秩序を優先した頼朝による座次だったのだが、家父長制度に慣れ親しんでいた御家人たちにとっては朝廷の位階による序列よりも父子間の序列を重んじたので、このような問題が発生した。

食事の座次を定める

建久四年(1193)正月、頼朝は御家人間の座敷次第を自筆で作成した。

これは埦飯おうばんの席次を定めたもので、それがそのまま一年間の御家人の座次を定めるものとなった。
この座次には幕府内の序列が反映されており、『吾妻鏡』によれば埦飯沙汰人の人選は千葉常胤・足利義兼・三浦義澄・小山朝政などの東国の有力御家人だった。

頼朝の時代の御家人は頼朝挙兵に加わった関東の御家人が最上位に置かれていたが、執権である北条氏は必ずしも最上位に入っていたわけではなかった。
本来であれば頼朝の後見にあたる北条氏が他の有力御家人と激しい政治闘争を繰り広げなければならなかったのも、このためと考えられる。

東国で御家人制を開くことの意義

もし、源頼朝が本拠地を鎌倉ではなく京都に置き、自ら朝廷の中に地位を占めたなら、平家と大きく変わることはなかっただろう。
京都から離れた東国でこそ、はじめて頼朝の構想は実現できたのである。

「頼朝の家人になる」ということ

「源頼朝の家人になる」ということは、頼朝の命によって(京都)大番役を務めるということだった。

大番役は、内裏大番役(平氏の家人を中心とする諸国の武士が交代で上洛し、内裏の警備に当たる)制度に由来するものである。

『承久軍物語』では、頼朝が内裏大番役を幕府の制度に組み込むにあたり、勤務期間を従来の3年から半年に短縮したと記されているが、定かではない。
実際には、3〜6ヶ月だった。

御家人へ大番役を務めるよう促すのは各国の守護であったため、西国の御家人交名は大番役の動員対象が記されていることになる。
現存する西国交名ではわずか30人程の名前しか記されていなかったので、西国ではごく一部の武士しか御家人になれなかったようだ。
また、西国御家人の中には、頼朝の御家人として働きつつ、依然として有力貴族や寺社との関係を維持する者も少なくなかった。

西国の御家人たち

幕府支配体制を整えた頼朝は、西国の御家人体制の整備に着手した。
御家人となるか否かの判断は各人に委ねられることとなり、御家人になることを選んだ武士の名前は各国の守護によって交名きょうみょう(名簿)に記され、頼朝に提出されることで晴れて御家人となることができた。

だが、西国の御家人たちが主人である頼朝に対面することはなかった。
彼らは国御家人と呼ばれ、頼朝と強い精神的結びつきを持つ東国御家人とは区別された。

『御家人』という言葉を使わない人たち

前述の通り『御家人』というのは一般名詞の「家人」に主人に対する敬意を表す「御」が付いただけの言葉だったので、鎌倉幕府の将軍に敬意を払う必要のない立場の人は「家人」と「御家人」を区別をしていなかった。

例えば、南朝の重臣だった北畠親房は著書『神皇正統記』の中で鎌倉幕府の有力武将である足利市について「高氏(足利尊氏)等は(中略)ただ家人の列なりき」と記している。

ご恩と奉公

源頼朝に従った関東武士は合戦で勝利することによって頼朝への「奉公」を行い、頼朝はそれに対し彼らの本拠地に対する支配の保障や新たな所領の恩賞を給付する「ご恩」を行った。

このような主従関係は一般的に封建関係と呼ばれる。

鎌倉殿に生じた責任

東国の主君となった頼朝には、本領安堵(頼朝に従軍し、戦功を挙げた武士たちに彼らの先祖伝来の所領の支配権を安全に保護すること)と新恩給与(戦功に応じた新たな所領を恩賞として与えること)の責任が生じた。
これらの要望に応えることが、頼朝が武士達たちの支持を獲得するためにすべきことであった。

富士川の戦い後の大規模な論功行賞

『吾妻鏡』では「あるいは本領を安堵し、あるいは新恩を給与された」とあり、「義澄は三浦介となり、下河辺行平は下河辺の庄司となるよう命じられた」とある。

介は国司の次官にあたる官職だから本来は朝廷しか任命権を持たず、庄司も荘園の領主である本所が任命するのが通例である。

奉公

頼朝軍に参加して戦ったり、頼朝館内の侍所に出仕して警備などの仕事に就くことであった。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009年
  • 永井晋「平氏が語る源平争乱 歴史文化ライブラリー」吉川弘文館、2019年

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