『源平盛衰記』巻十に収録。
基本情報
情節
治承二年(1178)11月12日寅の刻から、中宮(建礼門院徳子)が産気づいていると人々が大声で騒ぎ合っていた。
先月27日から時々出産の気配はあったのだが、特に何事もなく過ぎ去った。
それが今では休む暇もないほど陣痛が続いていたが、なかなか産まれなかった。
心配に思った二位殿(平時子)は一条堀川戻橋へ赴き、橋の東端に牛車を止めて橋占を行った。
そこへ、14~15歳程の髪を短く切りそろえた童子たちが12人、西から東へ走っていった。
童子たちは手を叩き、声をそろえて「榻は何榻、国王の榻、八重の潮路の波の寄榻」と四、五回歌いながら橋を渡り、東に向かって飛んでいくように消えていった。
榻は、牛車から牛を外したときに車の轅の軛を支えるもの。乗り降りの際は踏み台として使う。
二位殿は都に帰ると、兄の平時忠卿に童子たちの歌について話した。
時忠卿は「『波の寄榻』はどういう意味かよくわからないが、『国王の榻』は皇子が生まれる兆しであろう。めでたいことよ」と言った。
皇子(後の安徳天皇)は8歳で壇ノ浦の海に沈んでいったのだから、八重の潮路も波の寄榻も身に沁みただろう。
一条戻橋とは、その昔、安倍晴明が天文の淵源を究めて十二神将を使役していたのだが、その妻が式神の顔を怖がった。
そこで、晴明は十二神将を橋の下にまじないで隠し置き、必要なときだけ喚び出していた。
このようなことがあったので、吉凶の橋占を尋ねると、必ず式神が人間の口に乗り移って物事の善悪を示すという。
ならば十二人の童子たちは、十二神将の化身であろう。
中宮の出産が未だに終わらないので、平家一門は言うに及ばず、関白以下公卿・殿上人が馳せ参じた。
後白河法皇も西面の北の門からお出ましになった。
加持祈祷を行う御験者は、房覚・昌雲の両僧正、俊堯法印、豪禅と実全の両僧都が務めた。
さらに、法皇も内々に祈祷を行った。
内大臣(平資盛)は例の吉事にも悪事にも大騒ぎしなかったので、日が高くなってから公達を引き連れて参上した。
とても呑気な様子だった。
権亮少将維盛(平維盛)、左中将清経(平清経)、越前侍従資盛らも続けざまにお出でになった。
十二頭の馬が四手を付けて引き立てられていた。
神馬の料も見えた。
四手は、しめ縄や玉串などに付けて垂らす紙のこと。
砂金千両、南鐐六百、御剣七振を広蓋に入れて、御衣を二十領持ってきていた。
本当にきらきらして見えた。
大治二年(1127)9月11日、待賢門院の御産のときは53人の重罪人が罪を赦された。
その例に倣い、今回の御産では73人の重罪人が赦された。
内裏からその使者が止まなかった。
右中将通親、左中将泰通、右少将隆房、道資などの朝臣、右兵衛佐経仲、蔵人所々の衆、滝口らがそれぞれ二度も三度も内裏へ行ったり来たりした。
滝口とは、蔵人所に属し「滝口の陣」という詰所にいて、宮中の警護に当たった武士である。
承暦三年(1079)に皇子(堀河天皇)がご誕生なさったときは、殿上人が寮(左馬寮・右馬寮)の馬に乗ってきたが、今回は牛車で参られた。
中宮より、八幡、平野、日吉の神社へ出かけたいとの願い出があった。
全弦法印がこれを申し上げた。
神社に御願を立てるということは、石清水、賀茂の神社から新西宮、東光寺に至るまでの41ヶ所、仏寺では、東大寺、興福寺から常光院、円明院までの74ヶ所でお経を読む。
御神馬を奉納するのは、大神宮、石清水から厳島まで八社だそうだ。
小松内大臣(平重盛)が御馬を奉納した。
父子の儀式なのだから、それもそうだろう。
寛弘の時代、上東門院(藤原彰子)の出産のときに父の御堂関白(藤原道長)が御馬を進上した前例に叶っていた。
五条大納言邦綱卿も馬を二頭進上した。
「馬を献上する気持ちはいいのだが、徳が余っているだけではないのか」と首を傾ける人々もいた。
また、仁和寺の守覚法親王が孔雀経の御修法を、天台座主の覚快法親王が七仏薬師の法を、寺の長吏円恵法親王が金剛童子の法を、このほか諸寺諸山の名徳知法の人々が数々の大法・秘法の限りを尽くした。
五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇の法、六字訶梨帝、八字文殊、普賢延命、大熾盛光などに至るまで残すところなく行った。
- 五大虚空蔵……虚空蔵菩薩の功徳を五つに分け、中央と四方の五方に配したもの
- 六観音……六道それぞれの衆生を救う六体の観音
- 一字金輪……大日如来の真言の一字を人格化したもの
- 五壇の法……五大明王を中央と四方の五壇に祀る密教の修法
- 六字訶梨帝……安産を祈願して子供の守護神である六字訶梨帝を祀る
- 八字文殊……八字の真言で息災を祈願する
- 普賢延命……延命を祈願する
- 大熾盛光……熾盛光如来を本尊とし、息災を祈願する
仏師の法印が召され、等身大の七仏薬師と五大尊の像が作られた。
誦経のお礼として御剣と御衣が諸寺諸社へ奉納された。
宮中に仕える侍の中で官位のある者が使者を務めた。
平文の狩衣に剣を帯びた者たちが、御剣・御衣をはじめさまざまなお礼の品々を携え、東の離れ屋から南庭を渡って中門を連れ立って持っていくようすは、素晴らしかった。
二位殿と入道殿(平清盛)は何が起きているのかさっぱり理解できず、人になにか言われても呆れるばかりで、「とにかく、良きに計らえ」と言うばかりだった。
「それにしても、鎧を着て馬に乗り敵陣に押し寄せて戦を起こしたときは、こんなに臆することはなかったものだ」と皆思った。
「新大納言成親卿、法性寺の執行俊寛、西光法師らの怨霊どもがお物付きに乗り移っていろいろなことを言うので、中宮は御産できぬのだ」という者がいたので、入道殿と二位殿はいよいよ魂が消えて心が砕かれてしまうような思いだった。
そんなわけで、さまざまな御願を立てたのだが効果はなく、時間だけが過ぎていった。
御験者の面々に僧伽の句を唱えさせて、我が寺々の本尊に祈りを捧げたので、鈴を振る音は皇居に鳴り響き、護摩の煙が空高く上がった。
どんな悪霊や邪神でも邪魔することはできないように思えた。
諸僧の心中が思いやられて立派なことだったが、それでも効果はなかった。
後白河法皇が几帳の近くに座り、千手経を唱えた。
あまりのかたじけなさに、身を震わせて涙を流す人もいた。
踊り狂う神霊を憑依させるために依代を縄で縛っていたのも、少し静かになってきた。
勅定には「いかなる物の怪でも、老法師がこうしてお経を唱えているのだから近づくことはできないだろう。朕は『不動明王が右目で睨めば、鬼神も手をそろえて降参し、降三世明王が三度喝を入れれば魔界の軍勢も頭を振って恐れをなす』と聞いたことがある。観音による無畏のご利益であればなおさらだ。千手観音の効験だってそうだ。
だが、今顕れている怨霊は成親、俊寛、西光である。みな朕の朝恩によって官位と俸禄を授けた者どもではないか。
感謝の気持ちで顕れたのならまだしも、どうして障碍をなそうとするのか。そのようなことはあってはならない。速やかに退けよ」と仰せになった。
そして、「女人臨難魔遮障、難忍至心称誦大悲咒、鬼神退散安楽生」と貴く唱えて、念珠をさらさらと揉んでおられると、御産も安々と済んだのであった。
頭中将重衡朝臣は、そのときはまだ中宮亮だったのだが、御簾の中から現れて「御産は無事に終わり、皇子がご誕生なさった」と高らかに申されたので、入道殿と二位殿はあまりの嬉しさに声を上げて泣いた。
そのようすは、憚りがあるように思えた。
関白殿以下、太政大臣以下の人々が一同に大声で騒ぎ合う声が門の外にまで聞こえたので、けしからぬことだった。
小松大臣は蒔絵の細太刀を尻の上に反らせて着け、金銭九十九文を枕の上に置いて「天を以て父とし、地を以て母とす」と祈りを捧げた。
それから、へその緒を切って碁手の者に銭を与えた。
弁靭負佐がこれを打った。前例のないことだった。
故建春門院の妹が、皇子を抱き上げた。
平大納言時忠卿の北の方師典殿が御乳付け役として参られた。
この女房は中山中納言顕房卿(藤原顕時)の娘である。
法皇は新熊野へ参詣すると言って、牛車を門の外に待たせていたのを、急いで出かけた。
新熊野へ移花を進上させるためである。
「入道殿よりお手紙が届いております」と言う者が来て、手紙を法皇に捧げた。
手紙を読むと、沙金千両と富士の綿千両を法皇へ献上するという内容だった。
お布施と思われる。なんとも都合の悪いことだ。
法皇は送文を後方へ投げ捨てて、「つまらぬ修験者の役目を務めても、私一人でなんとかなるのだ」と仰った。
誰が立てたのだろうか、新熊野にて法皇の御庵室の前に「御験者が加持祈祷をするのはいつ振りだろうか。他の場所で修行しよう」と書いた札を立てた。
とても趣深いことだった。
代々、女御や后の御産はあったが、太上法皇が自ら御験者になったのははじめてのことだ。
これから先の未来でもこんなことはないだろう。
当代の中宮は父子の心も浅くないので、太政入道を重んじてのことである。
「故建春門院の女院が亡くなってから、このようなことは決してないだろう」と人々は言い合った。
軽率に物事を進めてはならないと思ったのだろうか、陰陽寮の頭・助以下が大勢参内してそれぞれ占った。
御産の時間は亥子の刻と占う者もいれば、丑寅の刻と占う者もいた。
姫君が生まれると占う者もいたが、陰陽頭安倍泰親は「皇子が生まれる」と申した。
その言葉が終わる前に、皇子が生まれた。
彼が指神子と言われるのも道理だ。
御産を祝いに来た人々は、
当時の関白松殿基房、太政大臣師長、大炊御門左大臣経宗、九条右大臣兼実、小松内大臣重盛、徳大寺左大将実定、その弟で左宰相中将実家、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言邦綱、藤大納言実国、中御門中納言宗家、按察使資賢、花山院中納言兼雅、左衛門督時忠、藤中納言資長、別当春宮大夫忠親、左兵衛督成範、右兵衛督頼盛、源中納言雅頼、権中納言実綱、皇太后宮大夫朝方、門脇平宰相教盛、六角宰相家通、左宰相中将実宗、堀河宰相頼定、新宰相中将定範、左京大夫脩範、太宰大弐親信、左三位中将実清、左大弁俊綱、右大弁長方。
以上の三十三人である。
右大弁のほかは直衣を着て参上していた。
参上しなかった人々は、花山院前太政大臣忠雅(藤原忠雅)、前大納言実長の二人は近年出仕していなかったので、布衣を着て太政入道(平清盛)の宿所へ向かった。
大宮大納言隆季(藤原隆季)の長女は法性寺殿の御子三位中将兼房の妻だったが、去る七日に難産に見舞われたので、隆季は出仕せず、三位中将も出仕しなかった。不吉だと思ったのだろうか。
また、前右大将宗盛(平宗盛)は去る七月に妻が亡くなったので出仕しなかった。
その出来事があったとき、大納言ならびに大将の両官を辞していた。
前治部卿光隆、近衛殿のご子息右二位中将基通(藤原基通)、宮内卿永範、七条修理大夫信隆所労、藤三位基家、大宮権大納言経盛所労、新三位隆輔、松殿のご子息三位中将隆忠も参上しなかったそうだ。
御修法が結願したので、褒美が与えられた。
仁和寺の宮(守覚法親王)は東寺を修造すること。
法印覚成は権大僧都に任ぜられた。
後七日の御修法、大元の法、灌頂などを執り行うよう命じた。
座主宮(覚快法親王)には、法眼円良を法印にした。
この二つの項目は、蔵人頭皇太后権大夫光明朝臣が承り、当人たちに伝えた。
座主宮は二品ならびに牛車に乗ったまま宮中の建礼門まで入ることを許可するとの宣旨を賜ったが、異議があったので叶わなかった。
このことを知った仁和寺宮は激しく憤り、「褒美は取らない」と言ったらしい。
右大将宗盛卿の北の方が着物の帯を進上したので乳母になるはずだったのだが、七月に亡くなってしまったので、左衛門督時忠卿の北の方が乳母になった。元々は建春門院に仕えていたのだが、皇子が受禅(先帝の譲位によって即位すること)した後は内侍典侍になって帥典侍と称した。
そもそも、今回の御産ではさまざまなことが起こった。
めでたいことは太政法皇が自ら御験者になった加持祈祷を行われたこと。
嘆かわしいことは太政入道(平清盛)の途方に暮れた様子。
慎むべきだったのは入道と二位殿が声を上げて泣いていたこと。
素晴らしかったことは小松大臣の振る舞い。
残念だったのは右大将の籠居。
奇妙だったのは御産のときに、甑を北の御壺に落とした後、それを取り上げてまた南へ落とし直したこと。
皇子が生まれたら南の方へ落とすと決まっているのに、聞き間違ったのだろうか、極めて不吉なことだと人々はささやきあった。
可笑しかったのは、陰陽師安倍時晴が千度のお祓いを勤めるため大幣を持って参上したのだが、左足の靴を踏み抜かれて、それを取ろうとしたところ、頭に被っていた冠も落ちてしまったのだが、余りの粗相にあわてていたのでそれにも気付かなかった。
華やかな装束を着た者が髻を露わにして皆が見ている前で苦々しい顔をしていた。
これほど大事なことだというのに、その場にいた者はみな腹がよじれる程笑った。
笑いを堪えきれず、人気のない場所へ逃げていった者もいた。
建礼門院を参内させて后になったら、「ああ、どうか男の子が生まれてほしいものだ。帝位に就けて入道が外祖父となり、ついに天下をこの手に収めるのだ」と思い、二位殿が日吉神社に百日間願いを捧げたが、効果は顕れなかった。
入道は「浄海に祈っているのに、どうして叶わないのだ」と言って、日頃から崇拝していた厳島へ毎月参詣するようになった。
そうしているうちに、二ヶ月後になって中宮にご懐妊の気配があり、皇子が生まれた。
祈祷の効果がはっきりと顕れたのだ。
関連
一条戻橋は死者が蘇った伝説があるため、この世とあの世の境界とされている。
また、『平家物語』剣巻において源頼光四天王の一人であった渡辺綱が鬼女に出逢った場所でもある。