治承四年(1180)6月2日早朝、平清盛は安徳天皇をはじめ高倉上皇と後白河院、藤原基通とともに福原へ向かった。
これは福原にある平氏一門の別邸に天皇たちが移動し、それから福原の南方に隣接する和田に新都を建設しようとする計画だった。
背景
源頼政と以仁王が反乱を起こしてからわずか数日後に福原への遷都が行われ、貴族たちに大きな衝撃を与えた。
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経過
清盛の専断
当初は6月3日に福原への行幸が行われる予定だったが、2日に早められた。(『玉葉』同年5月30日条)
また、福原へ行幸する人はすべて平清盛によって決められたという。(『玉葉』同年6月1日条)
さらに、『玉葉』同年6月2日条で九条兼実は福原遷都の理由について、南都の大衆による蜂起を恐れてのものだと推測している。当時の寺社は反平家の動きが盛んになっており、京都が三井寺と興福寺に挟まれている関係からだと思われる。
福原行幸
治承四年(1180)6月2日早朝、安徳天皇の福原行幸(天皇が外出すること)が行われた。
この行幸には藤原実定・平時忠・藤原実守・源通親の4人の公卿、近衛府の上級官人として藤原泰通・藤原隆房、蔵人頭として平重衡・藤原経房らが付き従い、高倉上皇の行幸には藤原隆季や藤原邦綱らが従った。
3日の朝、一行は福原に到着した。
安徳天皇は頼盛邸、高倉上皇は平野殿(清盛の山荘)、後白河院は教盛邸、藤原基通は安楽寺別当安能の房に入った。
2日後には、安徳天皇が清盛邸、高倉上皇が頼盛邸に入れ替わった。
平頼盛は正二位に叙されたが、九条兼実は著書『玉葉』で論外だと憤っている。(『玉葉』同年6月6日条)
迷走する新都造営計画
遷都先が決まらない
当初は福原の南方に隣接する和田に新都を造営する予定だったが、この地は平安京と同じ規模の都にするには狭すぎるということで取りやめになった。
高倉上皇は広大な平野部を持ち、水陸交通の要衝でもある摂津国昆陽野への新都造営を提案したが、それも厳島内侍の託宣によって中止となり、清盛の権力基盤があった播磨国印南野に変更されたり新都造営計画は迷走し続けた。
結局、7月半ばには当面は福原を皇居とし、道路や宅地を開発・整備していく方針が示された。
8月4日、高倉上皇は九条兼実に平安京は維持した上で福原を離宮として一時的な皇居とし、大内や八省院は福原に設置しないと伝えた。
『平家物語』によると、11月13日、天皇は福原の内裏に移った。
本来であれば大嘗会が行われるのだが、必要な設備が揃っていなかったので行われなかった。
大嘗会
天皇が即位の儀式を行った後、大嘗宮で行う新嘗祭。
7月以前の即位であれば当年、8月以降の即位であれば翌年に行われる。
大極殿で即位の大礼があり、清暑堂で神楽、豊楽院で宴会が催される。
福原には大極殿も清暑堂、豊楽院もなかったので、大嘗祭を行うことができなかったのだ。
公卿会議が開かれ、新嘗会と五節だけを行うことになった。
『平家物語』によると、五節は天武天皇の時代に天上から神女が降りてきて、袖を五度翻して舞ったことから五節が始まったという。
参考資料
- 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
- 杉本 圭三郎 (翻訳)「新版 平家物語(三) 全訳注」講談社、2017年
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