鎌倉時代

富士の巻狩

背景

後白河院の一周忌まで狩猟は禁止されていたが、禁止の日数が過ぎたため、頼朝が下野国那須野・信濃国三原などの狩倉を見るために狩りが行われることになった。

狩りの準備

狩猟に馴れている人々の中でも特に弓馬に練達し、頼朝と仲のいい二十二人を選出した。
それぞれに弓矢を持たせ、その他の人々は弓矢を帯びずに踏馬の衆とするよう定めた。

選抜メンバー
  1. 江間四郎(北条義時)
  2. 武田五郎(信光)
  3. 加々美二郎(長清)
  4. 里見太郎(義成)
  5. 小山七郎(朝光)
  6. 下河辺庄司(行平)
  7. 三浦左衛門尉(義連)
  8. 和田左衛門尉(義盛)
  9. 千葉小太郎(成胤)
  10. 榛谷四郎(重朝)
  11. 諏方大夫(盛澄)
  12. 藤沢二郎(清近)
  13. 佐々木三郎(盛綱)
  14. 渋谷二郎(高重)
  15. 葛西兵衛尉(清重)
  16. 望月太郎(重義)
  17. 梶原左衛門尉(景季)
  18. 工藤小二郎(行光)
  19. 新田四郎(忠常)
  20. 狩野介(宗茂)
  21. 宇佐美三郎(祐茂)
  22. 土屋兵衛尉(義清)

富士の巻狩

頼家が鹿を射止める

建久四年(1193)五月十六日、頼家が初めて鹿を射止めた。
頼朝は喜びのあまり梶原景高を鎌倉に遣わして政子に知らせたが、特に感心することもなく「(頼家は)武将の嫡嗣である。原野の鹿や鳥を獲たところで、特に稀有なことではない。軽々しく使を出すのも、たいそう煩いがあろう。」と言った。御使はかえって面目を失ったのであった。

頼家が鹿を射止めたことを頼朝がこれほど喜んだのは、頼家が武家の後継者として神意にかなう者であることが示されたからだという説もある。

山神が乗った鹿!?

建久四年(1193)五月二十七日、工藤庄司景光は優れた弓の名主で頼朝が乗った馬の左方にいた。
「この鹿は景光の分として射て取りたいと思います」と言って鹿に向かって矢を放ったが、当たらなかった。矢は鹿の一段ばかり前に抜けた。二・三番目の矢もまた同様だった。鹿はもとの山に入っていった。

景光は十一歳からこの方、七十余年間でいまだ獲物を獲れなかったことはない。
しかし今、鹿を射止めることができずに呆然としていた。
これは山神のお乗りになる鹿に違いないと皆が不思議に思っていると、その晩に景光が発病した。
頼朝は狩りを中止して帰るべきか相談したが、宿老らが適当ではないと言ったので、翌日から七日間巻狩を行うことになった。

曽我兄弟の仇討ち

篠原玉藻稲荷神社

篠原玉藻稲荷神社は、稲荷明神と玉藻前(九尾の狐)の神霊を祀った由緒深い神社である。

建久四年(1193)、源頼朝が那須遊猟のとき、この社に参詣したという言い伝えがある。

また、元禄二年(1689)四月十二日、松尾芭蕉も訪れている。
『おくの細道』には、「ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。」とある。

境内には源実朝の句と芭蕉の句がある。
実朝の句:

武士もののふの 矢並つくろふ 手の上に 霰たばしる 那須の篠原

芭蕉の句:

まぐさ負う 人を枝折しおりの 夏野哉

☎0287-54-1110
住所:栃木県大田原市蜂巣709

鏡が池

三浦介義明が九尾の狐を追跡中、姿を見失ってしまったが、この池のほとりに立って辺りを見回したところ、池の面近くに延びた桜の木の枝に蝉の姿に化けている狐の正体が池に映ったので、三浦介は難なく九尾の狐を狩ったと伝えられ、これが鏡が池と呼ばれるようになったという。

参考資料

  • 山本 幸司「頼朝の天下草創 日本の歴史09」講談社、2009
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やみみん

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