平安時代

【源平合戦】富士川の戦い

頼朝たちはついに鎌倉に入る。そして、平氏の大将軍平維盛が大軍を率いて駿河国に到着したという報告を受けた頼朝は駿河国へ向かった。

水鳥の羽音に驚いて敗走する平氏は、富士川の戦いにおいて最も印象的なできごとである。

富士川の戦い

武田信義の使者が平維盛に書状を届ける

治承四年(1180)10月16日、平氏軍は駿河国高橋宿に到着した。

17日朝、武田信義の使者二人が大将軍である平維盛の宿所を訪れて書状を届けた。
その内容は「これまで平氏一門への見参を果たせずにいたが、幸いにも追討使として維盛が下向してきたので、富士川の東にある浮島原で一戦交えて見参の志を遂げたい」という挑発的なものだったという。(『玉葉』治承四年〈1180〉11月5日条)

圧倒的な戦力差

18日、平維盛率いる追討使軍が富士川西岸に到着し、川を挟んで甲斐源氏の軍勢と対峙した。
『平家物語』によると平氏方の軍勢は都を出た時は三万余騎だったが、道中の国々で兵を集め七万余騎になったと伝えられている。
だが、実際に追討使が朝廷に報告したのは四千騎だった。
これに対して、甲斐源氏は四万騎という平氏軍の数倍以上の軍勢だった。
あまりの戦力差に、甲斐源氏に投降する兵が後を断たなかったという。(『玉葉』)

飢饉による影響

東日本の「雨年に豊作なく、干ばつに不作なし」ということわざに見られるように、この年の日照りによる大凶作は西日本に大打撃を与えたが、東日本ではむしろ豊作であった。
『常陸国風土記』でも、「長雨にあえば稲の実らない嘆きを聞き、日照りの年には豊作の喜びを見る」と記されている。
鴨長明は『方丈記』でこの当時の大飢饉の様子を詳細に述べている。

京都の道端には飢え死んだ人々が数え切れないほど多く、まして河原などは死骸の山で馬や車さえ通れない。
仁和寺のある僧が道端の死者を成仏させようと額に「阿」の字を書いて回ったところ、4月と5月の2ヶ月で、それも京都の左側の町だけで4万2300人余りに達したという。
愛する妻や夫がいる者同士では、食べ物を愛する者に譲る愛情の深いほうが先に死んでしまう。
親子の間では、決まって親が先立つ。母の命が絶えたのも知らず、幼児がまだ乳を吸いながら倒れていることもよくあった。

こうした東西における食料調達事情の差が両軍の戦力に大きな差をもたらしたと考えられている。

富士川

平氏軍は吉日の日取りにこだわり、治承四年(1180)10月18日になってようやく平惟盛・平忠度・平知度らが富士川の西岸に陣を張った。
平氏が遅れを取っている間、時間に余裕ができた頼朝は黄瀬川にまで至り、甲斐源氏・信濃源氏の武士たちや北条時政と合流し、20日には富士川に近い賀島で平氏軍と対峙したのである。

水鳥の羽音に驚く平氏軍

平氏軍の軍勢に対して武田方の軍勢は四万騎もあり、圧倒的な戦力差を前に無謀な戦いを避けて撤退するようにと伊藤忠清がひそかに維盛を説得し、退却することになったのだという。(『玉葉』治承四年〈1180〉11月5日条)

このとき、撤退しようとしていた平氏軍が宿所の傍らの池から鳥が飛び去っていく羽音を敵軍の襲来と間違えて総崩れになったことが記されている。(『山槐記』治承四年〈1180〉11月6日条)

忠清は維盛に「東国の武士はみな頼朝に味方しています。急いで都に戻り、戦略を立て直すべきです」と進言したので、維盛ら平氏軍は夜明けを待たずに都に帰って行った。(『吾妻鏡』治承四年10月20日条)

また、平氏軍が引き返す途中、手越宿で火災が起こったのを敵軍の襲来と思い込んで、ある者は甲冑を脱ぎ捨て、ある者は馬に乗るのも忘れて逃げ帰ったという。(『吉記』治承四年11月2日条)

その時、飯田家義とその息子たちが富士川を渡り平氏の従軍を追いかけた。
伊藤次郎が引き返してきて合戦となり、飯田太郎は討ち取られてしまったが、家義は伊藤を討ち取った。
また、印東常義は鮫島で討ち取られた。

この話は『平家物語』や『吾妻鏡』でも語られている。

合戦の結果がもたらしたもの

富士川合戦勝利の意義

関東武士団に自信を与えた

富士川で平氏軍を打ち破ったことで源頼朝の権威は高まり、関東武士団に大きな自信を与えた。
特に、合戦の主力は信濃源氏・甲斐源氏であったことから、彼らの存在を大きく誇示する結果をもたらした。

だが、このときの頼朝と信濃源氏・甲斐源氏との関係はあくまで一時的な同盟関係であった。
そしてこの両者の対立の深まりが、以後の幕府支配体制成立の過程に暗い影を落としていくことになる。

最初の大規模な論功行賞

10月23日、頼朝は相模国で論功行賞を行い、東国武士たちの本領安堵(頼朝に従えば所領の領有権を保証すること)と新恩給与(敵軍を倒して没収した所領を給与する)は行われた。(『吾妻鏡』治承四年〈1180〉10月23日条)
この日頼朝が行った論功行賞は、鎌倉幕府の骨格を形成する鎌倉殿と御家人の主従の在り方を明確に表現したものとなった。

大庭景親の処刑

同じ日、大庭景親が頼朝のもとに”降人”としてやってきた。
頼朝は少しでも多くの東国武士を集めるために、一度は戦った武士でも多くの帰順を受け入れ家人として組織した。
だが、この景親だけはさすがに許せなかったようだ。

頼朝は景親の身柄を上総広常に預け、3日後に片瀬川で斬罪、梟首に処している。
これは刑罰というよりは、武士の行動特性のひとつである復讐の意味を持つものと考えられる。

各地で平氏に対する反乱が起こる

朝廷が派遣した追討使が大敗を喫したのは初めてのことだった。
この敗北は平氏政権の権威を崩壊させることとなり、平氏に対する反乱が各地で起こった。

遠江以東の15ヵ国が反乱に加わり(『玉葉』治承四年〈1180〉11月8日条)、美濃でも反乱が起こった。(『玉葉』同年11月12日条)
ついには近江国で平宗盛の郎従が討ち取られ、反乱が起こった。(『玉葉』同年11月21日条)

福原遷都の断念

この事態に直面した平清盛は、新都造営と内乱鎮圧の並立は困難と考え福原遷都を断念した。

平氏軍が合戦に敗北した理由

一方、平氏軍にとって富士川の戦いの結果は、源頼朝率いる東国武士の謀反を早期に鎮圧する可能性がほぼなくなってしまうほどの手痛い敗北だった。

とはいえ、寿永二年(1183)初頭までは東国武士団よりも平氏軍のほうが優勢で、この合戦後も三年近く都を守護している。

平氏軍敗走の原因
  1. 追討軍遅延
  2. 伊藤忠清に反発した者の逃亡
  3. 源氏軍に勢いがあった

追討軍の遅延

平維盛率いる追討軍が駿河国に到着したときには、すでに東国・駿河の平氏家人たちが壊滅状態だった。
これは、9月6日に大庭景親から石橋山合戦勝利の報告を聞いて平氏側が油断していたことによる。

追討軍が福原を出発したのは9月22日、六波羅を出発したのは9月29日のことだった。(『山槐記』治承四年〈1180〉9月29日条)
駿河国に到着したのは10月13〜16日頃で、この直前に平氏の前衛部隊である駿河国目代以下の家人は鉢田合戦で全滅していた。

鉢田合戦

鉢田合戦で駿河国目代橘遠茂とその有力家人である長田入道らが甲斐源氏の軍勢に敗北した。
駿河国は平宗盛の知行国で、この国の豪族の多くは平氏家人となっていた。

参考甲斐源氏

甲斐源氏のルーツ 武田を名乗り甲斐国を拠点とする 甲斐源氏の起源は、河内源氏の源義光の子義清が常陸国武田郷を本拠地とし、武田冠者を名乗ったことがはじまりである。 ところが『長秋記』大治五年(1130) ...

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伊藤忠清に反発した者が次々と逃亡

伊藤忠清は甲斐源氏の使者を処刑した。(『山槐記』治承四年〈1180〉11月6日条)
追討軍は天皇の命による公的合戦を行うことを強調し兵士たちを鼓舞しようとしたのかもしれないが、忠清に反発する者が次々と逃亡を図った。
その結果四千騎程あった軍勢は一千〜二千騎程にまで減少したという。(『玉葉』治承四年〈1180〉11月5日条)
この軍勢では、もはや源氏軍と戦うことは不可能であった。

こうして忠清は平維盛に撤退を提案するに至ったのである。

源氏軍に勢いがあった

富士川合戦の前哨戦ともいえる波志太山・鉢田の戦いにおいて、駿河国目代橘遠茂の軍勢が甲斐源氏の軍勢に大敗していたこと、平氏軍の軍勢に駆武者の占める割合が高く、彼らの戦線離脱を止めることができなかったため、軍勢を集めることができなかった。

滅びゆく平氏の宿命を描いた『平家物語』においてこの戦いは必然的な平氏滅亡の予兆として位置づけられている。
さらに、「強い東国武士(源氏)」と「弱い西国武士(平氏)」の対比を強調しているため、後世における日本人の歴史観に強い影響を与えているともいえる。

参考資料

  • 上杉 和彦「源頼朝と鎌倉幕府」新日本出版社、2003年
  • 石井 進「日本の歴史 (7) 鎌倉幕府」中央公論新社、2004年
  • 川合 康「源平の内乱と公武政権 (日本中世の歴史) 」吉川弘文館、2009年
  • 川合 康「源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究」講談社、2010年
  • 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年

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