説話

安倍保名:連夜説教 現代語訳 第九席 童子・道満、大内にて術くらべ ならびに晴明入唐のこと

基本情報

『安倍保名:連夜説教』とは

題名安倍保名:連夜説教
著者三浦浦三 編
出版社其中堂
出版年月日明30.6

情節

折にふれ ことにふれつつ 来し方を 老いの心に 忘れかねつる

生者必滅会者定離は常のこととは言いながら、童子は龍宮にてわずか一夜を過ごしたはずが、思いのほか、帰ってくると九年の歳月が過ぎており、祖父保憲に育ての母までもすでにこの世に亡き人となっていたと知らなかったのは如何なる因果でありましょう。そうはいっても彼らは帰らぬ人となってしまったのだから、せめて父親だけでも老楽をさせようと童子は思っておりました。

けれども保名は常に顔色が悪いので、童子はどうしたのか尋ねました。すると、保名はたちまち涙を流してこう言いました。
「私は幼い頃から、何としてでも先祖代々から続いてきたこの家を興し、身を立てて名を顕そうと心に決めたのに、その甲斐もなくこうして朽ち果てようとしている。去年の九月二十四日、内裏が悉く炎上して、此度の造営成就につき帝が内裏へお移りになったその夜から、後涼殿が激しく揺れて止まなかった。諸寺諸山が祈祷したが、顕密二派の力を以てしても揺れはおさまらなかった。そこで陰陽頭を召して占わせたところ、これは天災ではないかということだった。播磨国印南いなみの郷に優れた天文者がいて、橘元方公の御取次によって都へ上り、専ら祈祷に及んだ。その者は芦屋祝部清太の一子芦屋道満と名乗り、陰陽卦卜の道に通じているらしい。もしこの者が此度の震動を鎮めれば、天下の陰陽頭となって末世に花を残すだろう。私は日陰の紅葉となり、朽ち果てていくのは口惜しいが、勅勘を受けた保憲殿との聟舅の間柄を考えると、都に上るのも憚られる。こうしていつか心願を遂げる時節が来るはずだと絶え間なく思っていたのだ。顔色がすぐれないのもそのせいだろう」

保名が己の不幸せを物語ると、童子はたちまち喜ばしげになりました。
「今はじめて、都で大変なことが起こっていると知りました。これは父上の願いを叶えて家を興す絶好の機会です。私は不肖の息子なれど、兼ねてより父上の教えを受け、さらにまことの母上の神力を受け継ぎ、その上此度の龍宮での奇縁、きっと霊験を得られます。幸いにも小野義古公は智勇兼備で廉直と聞いております。この人を頼って内裏鎮護のことを申し上げれば、必ず推挙してくださるでしょう。その時祈祷を尽くして内裏の揺れを即座に鎮めて天文陰陽頭となり、絶えて久しい家の名を天下末世に輝かせましょう」
童子がさも威勢よく言ったので、保名も兼ねてよりこの子には並々ならぬ力があると心に恐れ続けておりましたゆえ、とやかく言わず童子の心に任せました。

程なくして、童子は都へ上る途中で四天王寺の山門に至り、聖徳太子に祈願しました。
童子がしばらく山門の礎で休んでいると、東西から二羽の烏が飛んできて、山門の屋根にしばらく留まっていました。
童子は、龍仙丸を使うときが来たと、左右の耳にさしはさみ、心を澄まして烏の言葉に耳を澄ませました。
不思議にも、烏は人と同じように話しておりました。

「そなたは何処から来て、何処へ行く」
「我は都の烏であるが、紀州熊野へ行くところだ。都では去年火災があり、此度の造営があってから毎晩揺れている。これによって大内守護の三十六社をはじめ神明加護を祈れども効験はなく、南都北嶺真言天台、顕密二教の僧も祈祷したが効果はなく、本山当山の修験者が祈ってもしるしはなかった。播州より陰陽家が来て祈祷したが、揺れはかえってひどくなり、とうとう帝はご病気になってしまった」
「それは不思議なこともあるものだなあ。我は熊野の烏であるが、およそ我が国の王法として、災難のある時は神仏に祈る習わしだが、今は神明の納受もなく、仏法の威力も顕れぬとは如何なる理由があるのだろう」
「これは皆、彼の人の祟りである。後涼殿の乾の方角の柱の下に、虫類が二つある。青蛇が大きな蛙を追っている、震動がこのせいである」
「まことにそうなのか。神仏ともに彼の人を慈しんでいるゆえ、神仏に祈っても験を得られなかったのだろう。早くその二つの虫を取って鴨川に流し、彼の人の霊を祀ればよい」

……などと互いに言い合い、烏たちは再び東西に飛び去っていきました。
童子はよくよく耳を澄まして「彼の人」とは何者か考え、しばらくして菅公の霊魂だと気づきました。

程なくして童子は都に上り、保憲依頼の縁によって小野義古卿を頼ろうとしました。
このとき、橘元方の威勢は朝日が上るように高く、彼が道満を推挙していたので、義古卿も容易く童子を推挙することはできませんでした。
その上、彼がどれほどの才能を持っているかも分からないので、ひとまず置きました。
童子は早く己の才気の程を示そうと思ったのでしょうか、毎日洛中洛外をうろつき、その機会を伺いました。

この時、禁廷ではとにかく震動が止まなかったので、橘元方の推挙によって播州印南郷より芦屋道満という者を召され、陰陽道の術にて揺れを鎮めようとしましたが、かえって揺れがひどくなりましたので、卿相雲客は魂を驚かし、とうとう帝もご病気を患ってしまったゆえに、さては神仏の加護もなくなったのかと皆落ち着きませんでした。

しかしながら、この頃の都では、十二、三歳程に童子が怪しげな歌を歌いながら毎日東西をうろついているのを誰も彼も見たと、下々の人々が噂しておりました。
ある時、右大弁元方卿が参内する途中、噂の童子が通りかかり、例の如く歌を歌っておりました。
その歌は「たちまち去るべき災難を、知らざるとの不憫なれ」と、高らかに歌いながら歩いておりました。
供奉の者があれこれ言うと、元方卿の仰せに従い、雑色が童子に声を掛けて呼び戻しました。
元方卿は童子に尋ねました。
「お前は此度の異変についてけしからぬ歌を歌っているが、まず此度の怪異は何処から震動しているか知っているのか」
「後涼殿の乾の方角の柱の下から起こっております」
芦屋道満が一日一夜考えて占ったことを、童子はただ一口に言ったので、元方は驚きました。
道満は二つの生類が相争っていることまでは占えましたが、生類の形まで示すことはできなかった、試しに問うてみようと思い、元方は再び童子に生類とはどのようなものか問うと、童子は青い大蛇が大きな蛙を追い回っていると答えました。
さては只者にあらず、やはり此度の怪異より現れた童子だと思い、元方が童子へ何処から来たのか尋ねると、童子は参議小野義古卿の方と答えました。
ならば、この者は妖物でもない、一体何者なのだと思い、元方は童子に明朝白洲へ来るように仰せ付けられ、その場を後にしました。

帰ってから元方は道満を召され、参内する途中で斯様な童子に逢ったと詳しく仰せられると、道満は手を組んで仔細を巡らしました。
「私が幼い頃、何としても天文陰陽の道を究めようと法華山に登り、法道仙人に仕え『道』の一字を賜り芦屋道満と名乗り、天災地変を考えて答えを間違うことはございませんでした。しかし、此度の怪異に限っては、天変とも地怪とも判断が付きませんでしたゆえ、幼子の身でさように詳らかに申したのは理解しがたい振る舞いと存じます。願わくば彼に会って真偽を正し、もし妖物であればその場を去らせず化けの皮を剥がしてやりましょう」
道満が拳をさすって言うと、元方公も疑念が晴れず、明日召し出した際に対面し、説破されよと閑話は数刻に及び、やがて別れました。

そもそも、都で火災があったのは、去年天徳四年(960)庚申九月二十四日、内裏が炎上し、改元があって応和元年となり、内裏の造営が成就して帝が還幸なさったその晩より、後涼殿が揺れて止みませんでした。
これによって、内裏守護の神社、南都北嶺、顕密二宗の学匠たちが丹誠をこめて祈りましたが、揺れが止むことはありませんでした。
それ故、高明親王あるいは橘元方等の推挙によって芦屋道満が内裏に伺候し陰陽の術を以て揺れを治めようとしましたが、その験はなく、かえって帝のご病気は重くなってしまったのです。
そうして同年二月二十日、関白忠平公が中央にお座りになり、公卿詮議の折から右大弁橘元方は芦屋道満を連れて参内して関白忠平公に向かい言上しました。
「昨日、私は御築地の外にて稀有な童子に遇いました。身分は低そうに見えましたが、此度の禁中の怪異を退ける方法を詳しく知っているようでございます。その申すところには理解しがたいことも多いので、今朝御白洲へまかり出るよう申し付け置き……」

言い終わらぬうちに、参議小野義古卿が寛仁優美の装いにて、安倍童子を召し連れて欄近くまで来ると、童子は白洲に蹲踞そんきょしました。
関白忠平公が「お前が元方の言っていた童子か。まず第一に、此度の怪異を鎮める方法があるか」と仰せられると、義古卿は「この子も由緒ある術家に生まれたのですから、仰せに依っては祈祷をさせましょう」と答えました。
忠平公は喜び「ならば、元方と義古はよきに計らい召されよ」と仰せられました。
二人は了承し、それぞれがその術に優れている者を以て内裏鎮護の祈祷をさせようとしました。
まず、元方卿は道満に向かって試しに術を行ってみるよう命じました。
道満が白洲の石を四つ五つ取って呪文を唱えると、石はたちまち四、五羽の燕となり、翩翻として階前を飛び回りました。みな声を上げて驚いているところに、童子は少し膝を進めて二、三度指を弾くと、燕は元の石に戻って空から落ちました。それから、童子は杖程の長さの竹を取ってきて、白洲を少し凹め、水を湛えて呪文を唱えました。すると、水は次第に湧き出て、ほんの少しの間に庭一面水浸しとなり、殿上まで溢れ上るかと思うほどでした。しかし、道満は少しも驚かず手を打ち、水はたちまち消えました。
堂上堂下の人々は押し並べて両人の術に感心し、忠平公も驚きのあまりしばらく休息を取るよう仰せられました。

こうして、関白忠平公は改めて仰せられました。
「どちらの術もまことに驚くばかりで、優劣を付けがたい。ならば、この上は占卜の術にて優劣を比べさせよ」
元方・義古の両卿は密かに大きな器に柑子を十五個入れておき、道満と童子を召し出して、一人は中に何が入っているのかを示し、もう一人は中に入っている物の数を示すよう仰せられました。
道満が先に進み出て、袖の中で数を数えて、しばらく考えた後、この中に入っているのは柑類で蜜柑か柑子の類、数は十五であると答えました。
義古卿が不本意そうになさっていたところに童子が進み出て、数は十五であるが、品は生き物で鼠あるいはいたちの類か、よもや牛馬ではないだろうと笑いながら言いました。
元方卿は童子が占卜を誤ったと笑みを浮かべましたが、義古卿は戸惑った様子で童子に向かい「占いの答えが同じでも構わぬ、よくよく考えよ」と仰せられました。
しかし、童子は少しも顔色を変えず、生類に違いないと申しました。
やがて蓋を開けると、なんと鼠が十五匹飛び出したのを、童子は待ち受けていたように竹の杖を持って追い回し、鼠は四方へ逃げていきました。
満座一同に感心しましたが、元方卿は悔しそうに見えました。
この時、道満は感激に堪えきれず「まことに童子は神変で、私の及ぶところではありませぬ。願わくばあなたの弟子にしてもらえませぬか」と申しましたので、元方卿は少し憤った様子でした。
「道満、お前は三十を過ぎてわずか十二、三の子供を師に頼むとは何事ぞ」
元方卿に問われて、道満は謹んで申しました。
「この童子は、ただ者には見えませぬ。彼はまさしく摂州安倍野の安倍保名の子と思われます。およそ、今の日本でこの人のほかに斯様な不思議を申すものはないでしょう。けれどもこの人はすでに二十歳に近く、子供に見えるのは白狐の通力を受けているゆえでしょう」
道満は童子の素性や来歴を鏡に掛けて見るかのように申しましたので、これもまたただ者ではないと、皆感じ入りました。
元より、道満が先に白洲の石を燕に変えたのは、非情なるものを有情なるものに変える術でした。けれども、童子が指を弾いて元の姿に戻し、柑子を鼠に変えたのも同じ術によるものでした。
それゆえ、道満は鼠が出てきたところへ指を弾いて元の柑子に戻そうとしましたが、童子はいち早くそのことを察して、間髪入れず鼠を追いかけて散らせました。
こうして鼠はその場からいなくなってしまったので、元は柑子であったことを知る者はおりません。
鼠は、堀の外椽の下で元の柑子に戻っておりました。

童子は道満の言葉に驚きました。
「まことに、あなたは聞きしに勝る術者です。私は天暦の初め、夢か現かも分からず龍宮の地を踏んで、わずか一夜と思って地上に戻ってみると、九年が過ぎており、天徳の末になっておりました。道満殿の仰るとおりです。しかし、私が年を取っていないのは龍宮の秘符のおかげでしょうか、どうしてかはわかりませぬ」
関白忠平公が再び出てきて、仰せられました。
「此度の怪異について、道満は加持を行ったが未だ制することができぬ。童子、そなたはこれを制することができるか」
「私は、摂州天王寺の山門において、不思議にも鳥の言葉を聞くことができました。此度に限らず去る天長八年の雷災や天徳四年の火災、みな共に菅丞相の祟りだと仰られておりますが、道真公の祟りではございませぬ。かの君は今十六万八千の眷属を率いて折々祟りを為しておりますが、これは先帝のゆゆしき誤りごとゆえ、天は祟りとされていないようです。帝はまさしく醍醐帝第十四の宮でございますから、御父上の御誤りから逃れられないのでしょう。ならば、菅丞相の霊を厚く祀れば、御恨も鎮まり鎮護の神となりましょう。何の疑いもございません」
関白忠平公はただちに奏聞し、菅公の霊に太政大臣一位を賜り、洛西北野に大社を設け、西方大威徳天満大自在天神として祀りました。
すると、不思議にも毎晩続いていた震動は祈祷修験を用いずとも、たちまち鎮まりました。

さて、今晩はこれにて……。
明晩はいよいよ当席の満願にて、晴明が伯道上人に仕え、帰朝の後に一条戻橋にて奇遇にかかること、道満悔悟して安倍・芦屋の両家が陰陽道の祖として末永く繁盛し、易道暦術が今日に至るまで続き、万民に益を授ける因縁について語りましょう。早々と参詣されるがよろしい。

補足解説

生者必滅会者定離

生ある者は必ず死に、出会った者とは必ず別れる運命にある、という仏教の教え。

関連

『泉州信田白狐伝』巻三に同様の説話がある。

泉州信田白狐伝巻三

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