説話

安倍保名:連夜説教 現代語訳 第八席 保名義父に対面す ならびに子別れの和歌のこと

基本情報

『安倍保名:連夜説教』とは

題名安倍保名:連夜説教
著者三浦浦三 編
出版社其中堂
出版年月日明30.6

情節

恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信田の森の うらみ葛の葉

さて、前回お話しましたように、妻は家で悲嘆の涙に暮れ、妻が斯様に嘆いているとは知らぬ保名は、秋の稲刈時、妻子を食わせていくために農業に明け暮れました。
夕暮れになって保名が家に帰る途中、二人連れが畦を渡っているのが見えたので近寄ってみると、舅の保憲と保名の妻であった葛子かつらこが旅疲れに歩いておりました。
保憲は保名に向かって言いました。

「私はこの度、小野義古公の取りなしによって関白公に無実を証明することができた。機会を見て帝へ奏上するゆえ、密かに上れとの仰せにより、五年以来の憂き艱難かんなん、この鬱憤を晴らすために葛子とともに来たのだ。そなたも無事に大元尊神の宮殿もつつがなくあるか」

そう言われて保名は不審に思いました。
舅殿はこの度内々にお許しを蒙ってお帰りになったのはめでたいことだ。兼ねてより厚恩を蒙っていた自分は、大元尊神の宮殿の守護を束の間も怠らなかったので異変はなかったが、思いもよらなかったのは、葛子が五年前に上って自分と共に宮殿を守護せよとの父の仰せゆえにはるばる来たと語ったことだ。
名を葛の葉と改めて都の人からは姿を隠し、夫婦睦まじく連れ添って四年前に男子を設け、父の帰りを今日明日と待って暮らしていたところに、今またここに葛子が帰ってきたのは変ではないか。
葛の葉が偽物で葛子が本物なのか、葛子が偽物で葛の葉が本物なのか?

保名が途方に暮れていると、葛子は嘆き驚きながらも保名の側に近寄りました。
「心得ぬと仰せでしょうか。私はこの年月の憂いや苦労も、再び貴方様に相見えることだけを楽しみにしておりましたのに。父に仕えている間も神に祈っていたというのに、男心は変わりやすいもので、再び逢うのを待てずに他の女と契り子を設け、つれなき事の数々も、五年前に上ってきたと言い訳をするとは、あまりに白々しい嘘です」
葛子が恨み泣いているのを見ると、保名もどうすればいいかわからなくなった。

「左様に疑われるのは無理もないが、嘘偽りは言っておりませぬ。色に溺れたというのは思い違いです。とはいえ、疑念を晴らすためにはここにいてもどうしようもないゆえ、早く我が家においでください」
先に立っていた保憲が留めました。
「そなたは今、我等を連れて疑いを晴らそうとの事は理に適っているが、何はともあれ五年来、子まで為したる夫婦の間、別人のはずであるのに我が娘葛子の名を借りて来たのには理由があるのだろう。ならばただちに家に入らず、我々は門の外で事の始末を伺おう。知らないわけはない、必ず驚くだろう」

三人は示し合わせて、保名の門に生い茂る樹木の影に佇み、先に保憲が家に入りました。
「私は住吉へ詣でる者だが、道が分からぬゆえここに立ち寄った」
葛の葉は童子に乳を飲ませていたが、声を聞いて起き上がり、丁寧に住吉への道のりと方角を示しました。
その声から姿かたちに至るまで葛子とまったく同じだったので、保憲は心の中で驚きながらも早々に感謝を述べて、ただちに門の外に出ました。
この時、葛子も物陰から一部始終の様子を伺っておりましたが、すぐに葛の葉が自分とまったく同じ姿と声をしていることに気づき、却って自分のほうが偽物ではないかと呆れて言葉を失うほどでした。
父保憲も眉を潜め、保名もともに興ざめしておりました。

「兎にも角にも、私は帰ってすることもありますから、お二人はひとまず物陰に忍び隠れて私が声を掛けるまで出てこないでください」
保名は二人を薪小屋に忍ばせ置き、何事もなかったようにただ一人で入りました。
「今日に限って、どうしていつもより帰りが遅かったのですか」
葛の葉が走ってきて尋ねると、保名は答えました。
「今日は、何よりも喜ばしいことがあった。帰る途中で保憲公に逢ったのだ。連れの女がいたので、少しは暇もあるだろうと思って家に招いた。
そなたは髪を整えて童子に服を着替えさせ、いつもの癖が出ぬように言い聞かせるのだぞ。私は終日の疲れに堪え難いゆえ、そのうちしばらく一睡する」
保名は襖の陰で眠りに入ったふりをして、事を伺いました。
俗に言う、狸寝入りでしょうか。

葛の葉は保名が寝入ったのを見て、童子の側へさし寄って涙ながらに言いました。
「童子よ、幼き耳の現にも母の言葉をよく聞くのですよ。前に虫けらを食べぬように言ってからよく染み染みと聞き入れたというのに別れてしまうことがあるのなら、その悲しさはどれほどであろうかと言われたときの私の気持ちは、胸が張り裂けそうであった。遅かれ早かれいずれ一度は別れねばならぬことと知りながらも、あと一日だけと居るうちが我が楽しみであったのに、今日を限りに別れることとなってしまった。寝耳に私の言葉を聞き覚え、父上にはこう伝えなさい。
『実のところ、私は人ではなく、和泉国の信田森で年を経た白狐野干なのです。その昔、狩人に命を狙われていたところを保名殿に助けられ、その恩に報いようと姿を変えて五、六年、嬉しいことも辛いこともありました。嬉しかったのは、恩に報いる仮の身に、いつしかそなたを宿し、ありがたやもったいなや、畜生の身に人間の種を宿した喜びも、程なくしてそなたを産んでからは愛着の綱に心を引かされ、五年、六年の長さも一日二日に思えるほどあっという間に感じたものです。先程、保憲公が上ってきたことを聞いて、とうとう別れなければならなくなりました。白狐野干の通力も、子を想う気持ち故になくなりましたが、昨夜まで寝床をともにしていた夫や子と別れるとは夢にも思っていなかったのです。我が子を想う悲しみは、愚かな畜生の身には人間の百倍あるだろうと、暫し泣き入っておりましたが、思えば、その悪心ともいえるものを懺悔しますと、そもそも私の前世は日本の者ではなかったのです。
昔、私は唐の玄宗皇帝に仕えていた維州の官人玄東の妻で、右将軍隆理の娘隆昌女りゅうしょうじょという者でした。
その頃、元正天皇の勅命によって吉備大臣が唐土に渡り、夫の玄東と禁廷にて碁の勝負に及んだ際、死ぬ運命にあった夫の命を吉備大臣は情けを以て助けたのです。
その寛大な御心を感じ、さすが日本はすばらしい国なのだと思いました。
そんなとき、吉備大臣は玄宗皇帝から簠簋内伝金烏玉兎集という書を賜わて帰朝することになりましたが、安禄山の計らいによって窮地に陥りました。
私は風渡の津に駆けつけて、吉備大臣へこのことを伝え、命を捨ててでも恩に報いようとしましたが、女の執念といいますか、命に代えても吉備公を救おうとは思っていたものの、我が唐の無二の宝をやすやすと他国へ渡すのは口惜しく妬ましく、簠簋の一書を追い求める魂ひとつでとうとうこの国へ渡ってきてしまいました。
しかしながら、日本は神国ゆえ人間に憑依するのは難しく、恥ずかしや信田の森の白狐となり、兼ねてより求めていた簠簋内伝に荼枳尼天の法が記されておりましたので、何とかしてこの法術を伝え命婦の官に至ろうと思いましたが、簠簋内伝は賀茂の家にあって近づくことが叶わず、むなしく年月が過ぎていきました。
それから五年前の災変によって、かの書がこの家に移ってきたのは幸いでした。近寄って書を写し取り、はやく命婦の官に至って九万九千の眷属の狐たちにこの術を伝えようと入れ込みましたが、さすがに命を救われた恩を想うとなかなかできず、そなたを産んだその時から元の願いも忘れ、守り育てることを楽しみに心を尽くしておりました。
その甲斐もなく今日を限りに別れるのは、恩ある人が秘していた書を奪おうとした応報です』」

思い切って出ていこうとし、出ていこうとしてはまた戻り、腸を断たれるほどの哀しみに勝る野干の名残り惜しさを聞く悲しさに耐えかねて、安倍保名と保憲親子が思わず姿を見せると、葛の葉の姿は消えてなくなっていました。
この物音を聞いて幼子は驚き目が覚めて泣き叫び、保名も思わず声を上げ、童子の母は何処へ行ったのだ、詳しい事情を聞くから容易く姿を隠すな、何時何時迄もここに留まってこの子を育てよと一間をさらりと押し開ければ、向かいの障子に和歌が書き付けてありました。

恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信田の森の うらみ葛の葉

葛子は悲しみの遣りどころがなく、保名に信田の森へ行き葛の葉を探そうと勧めましたが、保名の心中は慙愧の念に苛まれて言葉も発せられずにいたところへ、保憲が進み出ました。
「そもそも保名は白狐と契り一子を設けたことは本意ではなかっただろうが、まったく恥ずべきことではない。古の天竺にいた白沢王は四足九目で、漢土の神農は牛頭人身であったという。我が朝でも神代の昔、鵜草葺不合尊は龍女の腹からお生まれになったと正史実録に記されており、世の人々も知っていることだ。たとえ人の身であっても不貞をはたらく者は畜生に等しく、畜生であっても五年もの間貧しい生活に苦労しつつこの子を育てた志を恨むようなことがあってはならぬ。ならば葛子の勧めに任せ、『恋しくば……』の和歌の通り信田の森を尋ねよ」

恩愛義理を弁えた舅の言葉に礼をして、泣き止まない童子をなだめて保名は信田の森へ赴きました。
こうして保名は童子を連れて急ぎましたが、秋の日は程なく暮れて冷たい風が吹き、草がぼうぼうと生えている信田の野辺に葛の葉と思しき姿はありませんでした。
もし童子が母を呼べば、恩愛に惹かれて姿を現すのではないかと童子に教え諭すと、童子は心得て『母上、恋し乳が呑みとうございます』と声を限りに叫びました。
父も涙を拭って「童子の母よ、我が妻よ、せめて今一度姿を見せよ」と呼べど叫べど、それに答えるものはありませんでした。
まさか、あの歌の言葉は偽りだったのだろうかと恨みに嘆いていたその時、遥か向こうから狐火が近づいてきて、葛の葉の姿になって忽然と現れました。

保名はそれを見るなり声を掛けました。
「そなたは、何を恥じて姿を隠したのだ。たとえ獣といえども、私のために二人といない妻ではないか。せめて、この子が十四、五になるまで、再び我が家に帰り連れ添うことは叶わぬのか。この子を不憫とは思わぬのか」
そう問われて、葛の葉は涙で顔を上げられませんでした。
「恩愛の道には恥ずかしきことも厭いませんが、我等の掟として、一度正体を知られてしまったら、再びその人と逢ってはならないのです。もしその掟に背けば、八百八十の親属に見放され、九万九千の眷属に捨てられて、未来永劫に畜生の輪廻から逃れることはできないゆえ、こうして別れるほかなかったのです。
たとえ姿は見えずとも、この子の影身に付き従い、永く守りの神となりましょう。親子の愛着、夫婦の因縁、今を限りに別れるしるしとして、真の姿をご覧になってください」
そう言うと、たちまち人の形は消え失せて年老いた白狐となり、草むら深く入っていきました。
保名は「如何なる姿になっても、私の心は変わらぬ」と声を上げて葛の葉の後を追いましたが、夜更けの草野原は雲霧がかかって月の光も朦朧としており、燃え残った狐火の光だけが残っていて、松風が吹き付ける音がするだけでした。
童子はしきりに泣き出して、なだめる手立てもなく、やがて家に帰りました。
保憲葛子諸共に、その年も早暮れて、春の耕し、夏の田植えと、農業に心を尽くしていたとき、誰とも分からぬ声が聞こえてきました。
毎晩数十人の女の声で「恋しさに夜はかよえど明け行けば、昼は信田の森にすみ、妻恋虫の音にぞ鳴く」と唄う文句を怪しんで、保名は童子を連れて出ていきましたが、それらしき人影はありませんでした。
夜が明けてから田を見に行くと、見事に植え付けられていました。
保憲と葛子はその志に感じ入り、朝夕童子を大切に育て躾けました。
まことの母の護りがあったのでしょうか、六、七才の頃にもなると、童子はすでに陰陽道の大意を悟り、祖父保憲も父の保名も心恥ずかしくなるほどでした。

年月が過ぎて天暦八年(954)になり、童子は八才になりました。
六月の終わり、住吉のお祭りが例年通り堺の浜辺で賑わっておりました。
数多の子どもたちが集まって一匹の亀を殺めようとしていておりましたところ、安倍童子は不憫に思い助けようとしましたが、多勢に無勢、ほかの子どもたちは許しませんでした。
そこで、童子は晴れ着として着ていた単衣と引き換えに亀を助けました。
裸になるのも厭わず浜辺で遊んでいると、突然白髪の老人に誘われ、一艘の漁舟に乗りました。
海に浮かんでいた舟はいつの間にか波間をくぐり、水底深くへ至ったかと思うと、真珠のいさごが細やかに琉璃や珊瑚で飾られた金殿玉楼が立ち並んでいる龍宮城に着きました。

やがて童子は八大龍王の御前に召され、堺の浜にて亀を助けた礼として、龍仙丸を二粒賜りました。
「人間界に帰るならば、これを左右の耳に入れよ。必ず鳥の言葉を理解できるようになり、名を上げて家を興すだろう」
龍王の声が聞こえたかと思うと、たちまち夢から醒めるようにして童子は海底から堺の浜辺に帰ってきました。
周りの景色がどことなく以前とは違ったので、童子が阿倍野に帰ると、昨日の家とは様子が変わっており、何やらおぼつかなくなって家の中へ入りました。
その時、父の保名が門の外に出てきて「お前は童子か、我が子か」と喜び驚いて尋ねました。

「私は昨日住吉のお祭りにて、不思議にも龍宮城に至りました。一晩過ごして帰ってくると、思いのほか父上はお年を召されており、辺りの景色の変わりようは、何事があったのでしょうか」
童子が尋ねると、父は涙を拭いました。
「元々、お前は数千年の白狐の腹より生まれたゆえ姿かたちが変わることもないのだろうが、浮世はすっかり変わり果ててしまった。落ち着いて聞け、お前が住吉の祭礼に行ったのは天暦八年の六月だが、今は年号も改まり応和元年(961)の正月である。しかしながら、お前が住吉にて入水したと聞いたとき、その悲しさは例えようがなく、母の護りもなかったのだと嘆くよりなお悲しい。継母の葛子も狂ったように悲しんでいた。自分が帰ってきたせいで私が葛の葉と悲しき別れをしたのだから、せめて童子を養育し無事に成長させようと思っていたところに斯様な悲しいことがあったのだ。人ならぬ身の上でさえ、義理を立てて姿を見せなかったというのに、それに比べて私は子を死なせてしまったのだと、まことの母に見せる顔がない、恥ずかしや、悲しやと。それを病の種として、とうとうその年のうちに身罷ってしまった。その上、舅の保憲殿は年頃の苦労が積もって病に苦しみ、鍼灸薬餌の効験も得られず、翌年の春に睦月の雪とともに亡くなってしまった。残ったのは私だけで、ともに消えようと思ったが、心に籠めた大願を未だ果たさぬうちに世になき人となれば、大元尊神の宮殿を守護する人にあるまじと、惜しからぬ命を生きながらえた。こうしてまたお前に逢ったのも、夢幻の世界に夢幻の身、ああ、また辛く苦しいものだ」

……などと悟ってみても、情思切なる恩愛は喜びにつけ悲しさにつけ、先立つものは涙にて、しばらく言葉もありませんでした。

さて、明晩は童子京都に赴くこと、芦屋道満と術くらべの因縁、今晩はこれにて。

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