基本情報
『安倍保名:連夜説教』とは
題名 | 安倍保名:連夜説教 |
著者 | 三浦浦三 編 |
出版社 | 其中堂 |
出版年月日 | 明30.6 |
情節
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも
何れも早々とご参詣あり、拙僧も満足です。ただ今賛題に申しました和歌は、皆さんが兼ねてよりご存知の百人一首のうちにある阿倍仲麻呂卿の御歌でございます。
歌の意味するところは、今晩の説教を聞けばよく分かることでしょう。
さて、昨晩の続きをお話しましょう。
時は霊亀二年(716)八月二十三日、仲麻呂はすでに旅の支度を整え、家事万端は兄に任せ、肥前国松浦より船に乗って出発しました。
連日天候に恵まれ、思っていたよりも船旅は順調で、同年霜月(十一月)の下旬に唐土風渡の津に到着しました。
その頃の唐土は唐の玄宗皇帝の時代、開元四年だったそうです。
こうして仲麻呂は都に訴えかけ、隣国のよしみは無視し難く、早速入洛せよと案内され、やがて都に上りました。
長安と思しき都は、元は大きな山であったのを平たくして都としたので、地面は碁盤のように高く、都の外は銀屏山より流れる川が外堀のように四方を廻らせておりました。
北の方から東南へ横に曲がって流れ出て、都の入口は三ヶ所あり、みな大きな門がありました。それぞれ南大門・東大門・西大門と名付けられ、その大門の通路は大道と名付けられ、その道幅は三十五丈、日本でいうと五十八間ばかりになります。
三つの市と六つの街が縦横に分かれて、数十万の民家がみな甍を並べ軒を連ね、この上もなく豊かであり、道に落ちているものを拾ったりすることもなく、夜はしっかり戸締まりをして、都の外廓は石壁が高くそびえ、石を積み上げて塀をなし、東西南三大門の前には橋を通して外堀に渡しています。
橋は万代不朽のため、盤石を以て礎とし、橋の長さは六十丈余り、幅は大道と等しく、左右の欄干はみな石造りになっており、両方の橋台には獅子・豹・虎・象を彫ったものを立て並べ、櫓門の額は高く、太陽の光に照らされて輝き、櫓の四方の欄干は朱で塗られており、我が身は月宮に至ったのではないかと思うほどのありさまです。
こうして程なく朝門を入り遥か向こうを見遣ると、大殿は南向きになっていて、仁政殿という額が掛かっており、中央の正面にある胡床に虎の皮が掛けられているのは玄宗皇帝の玉座でしょうか。左右には文武に秀でた官人が巍然として並びたち、誉れ高き張九齢、歌舒観、安禄山、楊国忠らを始めとして、善悪二つの忠臣と佞人が席に進みました。
やがて仲麻呂は階を上り、謹んで平伏すると、間もなく玄宗皇帝が御出座しになり、日本勅命の趣意を問われました。
仲麻呂は謹んで元正天王の勅命と金烏玉兎集懇望の由をつつがなく述べました。
皇帝はしばらく聞いた後「我が国第一の秘書を容易く他国へ渡すわけにはいかぬが、唇歯のよしみある日本が乞うてきたというのならば、評定の上追って沙汰を下す。それまでの間、お前はしばらく留まれ」と言って、鴻臚舘という他国から来た者を饗応するために設けた館へ送り山海の珍味を以て、とても丁重にもてなしました。
そもそも、玄宗皇帝とは、唐の太祖皇帝より六代目の皇帝で、姓は李、名は隆基といいます。
まことに善徳の名君にて、仁を好み驕りを省き、何事においても倹約を基本として、姚崇や宋璟などの儒臣を召して大臣とし、大聖孔子を文宜王と崇め奉り、毎年春と秋に大規模な祭礼を行われ、政道は正しく在り、下々の民は子が親を慕う如く皇帝の人徳に懐いており、上下和順四海は安穏でした。
そこへ、弘農の人楊玄琰の娘楊大真という、まことに絶世の美人がおりました。その美しさは、綻びかかった桃花の露を含むが如く、雨が降った後に秋月が雲間から現れるかのようでした。
玄宗は彼女を一目見て、より深くその美しさを寵愛なさり、貴妃の位を賜り楊貴妃として召され、昼夜お側を離れることはありませんでした。
傾城傾国と例えられるのもごもっともでした。天下大小の政事は廃れて、玄宗は酒宴舞楽に耽り、楊貴妃の兄楊国忠を丞相にして、万機の政事を任せました。
楊国忠は暴悪無道な人で政事にも僻事が多く、万民は彼を憎みましたが、その威を恐れて何も意見できませんでした。
ここに、河北漁陽の太守安禄山という人がいました。
身の丈は八尺あり、眉目清秀智勇兼備で、まことに当世の人傑でした。
安禄山は帝の行状を見て、閨門不正は戦乱の元であり、唐の時代は長くないだろうと思うにつけ、深く思慮して都へ行きました。
帝の侍臣は言うまでもなく、宮中の女官に金銀絹錦を賄賂して、密かに楊貴妃に媚びへつらい、彼女の推挙によって帝の叡慮にもかない、人知れず楊貴妃と密通して、ついには皇位を奪おうと決心しました。
帝は浅ましくもそれを知らず、結局楊国忠と同じように重用し、今となっては何一つ憚ることなく、天下の政事は彼らの意のままとなってしまいました。
それで今日仲麻呂は退出した後、帝は安禄山と楊国忠を召されてこう言いました。
「そもそも、彼が此度日本より渡って来たのは、金烏玉兎集の一巻という我が国第一の秘書のためある。
他国へ渡し難く断ろうと思ったが、彼は飄々として百官列座の中をも恐れず、心に欲することを機も逃さず申し述べた心意気は並々ならぬ者に見えて、冷たくあしらうわけにもいかず、世に益をもたらす秘書を秘して、民衆と共に楽しみを同じくしないのは君子としてあるまじきことだと恥をかかされるのも口惜しい。
だが、議論もせずに秘書を渡してしまっては、仲麻呂の手中に堕ちるようで、後で悔やむことになるだろう。
渡してもよからぬことがあるのだから、渡さなくてよい理由はないだろうか、朕の望みはもとよりこうである、如何すべきか」
安禄山が進み出ます。
「我が国は天下の中心であり、異邦の国が我が国を崇めるのは、このような無二の重宝が有るゆえでございますから、それが空しくも日本のものとなれば、我が国の威厳は長く傾き、よろしからぬことと存じます。しかしながら今理不尽にも申し上げますが、宝を惜しむと嘲笑われるばかりか、礼儀を知らぬと誹りを受けてしまうでしょうから、まずは彼を留め置き、密かにその才気を試しましょう。英才の者でなければ、彼に勝れる者を以て臨機応変に断らせれば何の憚りもないでしょう」
安禄山が決然として申し上げたので帝のご機嫌も麗しく、早々と詔を出して諸卿を退出させ、当時名の知られた詩客文人を鴻臚館に尋ね行かせました。彼らが仲麻呂に詩を賦して文を作らせたり、古今の事蹟を論じてつらつらとその器を探ってみたところ、仲麻呂の雄弁卓量には一人として及ぶものはいないほどでした。
この由が叡聞に達すると帝は仲麻呂の才気をとても稀なものだと思って、そのまま日本に帰すことをもったいなく思いました。
帝は「金烏玉兎集は追って賜るゆえ、長く我が国に留まってくれ」と、明州に居館の地を賜り、名を朝衡と改めるよう勅命を出し、数多の金銀絹錦と美女数十人を賜りました。
その昔、魏の曹操が関雲長を欽慕するあまりに三日に小宴、五日に大宴、馬の上下の度に数多の金銀を賜って上賓の礼に饗応していたというのも、このようなものだったのだろうかという程でした。
けれども、仲麻呂は忠義廉直な男でしたので、露程も心変わりすることなく、ただただ朝な夕なに故郷の空を恋しく思っておりましたが、かの秘書一巻を得るまでは死んでも帰ることはできないと心に誓ったのだから、何としても得てみせると、機嫌のよい帝に召され、玉座に控えながら勅許の日を待ち続けました。
そうして、その年も暮れて、開元五年の春に帰ることは叶わず、夏が過ぎ、秋も七月の二十日頃になりました。
このとき、安禄山と楊国忠はいよいよ威勢が盛んになり、日々の評定では陰謀密策をめぐらし、大願を成就させようとしていました。
しかし、彼らには気がかりなことがありました。それは、去年唐に渡ってきた阿倍仲麻呂が玄宗帝の叡慮に叶い、明けても暮れても玉座の側に召し出されてご寵遇を受けていたことです。
もし仲麻呂が自分たちの謀反を起こす機会を推察して、密かに叡聞に達してしまえば、事はたちまち露顕して悔やんでも悔やみきれないだろう。
事が露顕する前に彼を始末して、禍の根を刈るに越したことはない。
安禄山と楊国忠は曹勲、司馬齢らを始めとして、兼ねてから一味であった佞人原と計略を密かに示し合わせ、ある日勅命と偽って仲麻呂を呼び出し、凌雲閣と名付けられた高さ三十丈の楼上に旨酒嘉肴、杯盤狼藉、種々のもてなしに心をつくして、他意はないように振る舞っておりました。
しかし、憐れにも仲麻呂といえど神ではない、深き奸計が有るとは露ほども知らず、膝を打ってくつろぎ、雑念を忘れて時間を潰し楽しんでおりました。
まことに、天命に関わることは博識の智者にもわからないのだと、年頃秀でた英才も今となっては真逆の、姿勢を崩して盃を彼方此方へ巡らし、酒を飲み交わして盃を傾け、飲みすぎて酩酊したところで、ちょうど吹き付けた浜風に酔いが醒める心地よさに、思わず倒れて眠ってしまいました。
時は七月下旬、ただでさえ冷気を催す時節であるのに、早くも黄昏時になり、なおも激しい海風に仲麻呂はふと目を覚まして起き上がると、太陽はすでに西山に沈んでいました。
さほど広くない高楼は仄暗く灯りもないので、此は如何にと仲麻呂が辺りを見回すと、饗応役の官人はみな退出しており、坐上は暗く静まり返っておりました。
仲麻呂は不審に思いながら声を限りに人を呼びましたが、荒波が岸に打ち寄せる音がするだけでした。
誰かいないかと楼を下りて辺りを見ると、いつの間にか楷梯もなくなっていたところで仲麻呂は初めて気づきました。
さては今日の酒宴、実は奸計の落とし穴にて、安禄山と楊国忠が深く企んだ奸計であったのを仲麻呂は浅はかにも悟り得ず、みすみす彼らの毒手に斃れれば、命は惜しまないが、元正帝の勅定を以て遥か遠くへ渡唐した去年より、心を尽くした甲斐もなく不忠の身となる恥辱を今になって初めて思い知ったのです。
舎人親王先見の一言、我が身が幽冥の客となり、骨は外国の土に朽ちようとも、凝り固まった一念は長くこの世に留まって金烏玉兎の一巻をいつしか得て日本へ帰り、渡すまで死ぬわけにはいかない。
すると、仲麻呂の眼は吊り上がり、唇は青ざめて、憤怒の思いに堪えられませんでしたが、これより三七日、水も食糧も絶たれてどうやって命を繋ごうか、今日が命終かと思われました。その日は八月十五日と思われ、古今独歩の英雄もさすがに故郷を恋しく想い、三笠山の麓春日野に残し置いてきた妻や子はこの状況を知る由もなく、去年の冬より今年の秋まで自分の帰りを待ちわびているのだろう。兄もさぞかしこの年月心苦しく思っているだろう。私はどうして生まれ故郷の秋津洲を遥かに離れて、君命とはいいながらも屍を異国の土に晒すとは、過去の修因あるいは今生の現果か、拙いこの身であることよ。愛着心の思いの闇に仲麻呂が涙に暮れた目を開くと、三千里の海上が眼下にあり、海士が釣りをしている舟もなく、蒼々飄々たる青海原を仰いで遥かに眺めると、東の方から玲瓏と三五の月が輝き昇っておりました。
盈虚開落有為轉變、嗚呼、我ながら迷ってしまったのだ。いずれ死ぬ運命にある人の身で、何を悔やみ何を恨むのか。私は苟しくも豊葦原に生を受け、忝なくも神の御末に仕る身で、我が国の習わしである和歌敷島の道を忘れるほど、仲麻呂ほどの忠臣も最期には心取り乱し、辞世の歌もなかったのだと世の人々に噂されたのでは死後の妄念はこの上ない。
とはいえ、筆も、墨も、紙もないこの状況で何に記して遺そう。心は曇り胸中の霧は晴れず涙の雨に濡れているのを知らぬかのように明るく輝いている月の影が冷たく差し入っているのは、昔故郷の三笠山で家の中から眺めた月と今の月は変わっていないのに、自分の身の上はすっかり変わり果ててしまったと思いました。
仲麻呂は狩衣の左袖を引きちぎり、右手の指を食いちぎって、滴る血を血筋への恩愛として、もし縁あって故郷の人がここに来たらこの歌を見て伝えてくれるだろうと、一首の辞世の歌を書きました。
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
そうして最期の一句を遺し、和歌に心を託した仲麻呂はそのまま死んでしまいました。
唐の開元五年八月十五日、行年三十四才、未だ惜しまれる年齢でした。
こうして安禄山と楊国忠は計略が成就したと悦び、帝へは病死だと言って、万事己の意のままに振る舞いました。
この時、帝も楊貴妃の色香に溺れなさっておりましたので、強いて事の虚実を尋ねさせなさることもなく、そのまま彼らの計らいにお任せになり、ついに唐の時代は滅びました。
濫觴として思われて、忠義の心のある者のなかには眉を潜める者も数多おりましたが、大廈が崩れようとした時に一本の木を以て支えるのは、益がないだけではなく、佞奸邪智の舌頭に忠も不忠と取りなされ、無実の罪に身を果たして家を失うような事があれば、時務を知らない浅智の至りだと思われました。
さて、今晩はこれまで。
明晩は養老の滝の由来となる孝子物語ならびに好根不義の事などをお話いたしますゆえ、また早々と参詣されるのがよろしい。