平安時代の一年は正月の四方拝に始まり、宴会や祭祀が行われる。
行事と物忌期間が重なったり触穢があると中止・延期になる場合がある。
平安時代の一年(1~6月)
一月
1月1日 四方拝
天皇は清涼殿から属星(本命星)を拝し、続いて天地四方の座を拝した。
自分の属星に向かって、以下の呪文を唱えた。
賊寇之中過度我身。毒魔之中過度我身。危厄之中過度我身。毒気之中過度我身。五兵口舌之中過度我身。五危六害之中過度我身。百病除愈、所欲従心。急急如律令(『内裏儀式』)
属星(本命星)
自分の運命を司る星。
生まれた年の干支によって決まり、貪狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星の七種類がある。
平安時代では、毎年元日に自分の属星に対して身の安全を祈る呪文を唱えていた。
また、10世紀半ばに藤原師輔が著した家訓書『九条殿遺誡』では、毎朝起きたら属星の名前を七度唱えるように記されている。
平安時代の人物の属星(本命星)を確認する一覧表(和暦・西暦対応)
属星ぞくしょうとは、自分の運命を司る星のことである。生まれた年の干支によって決まり、貪狼星・巨門星・禄存星・文曲星・廉貞星・武曲星・破軍星の七種類がある。平安時代では、毎年元日に自分の属星に対して身の ...
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- 寛和三年(987)1月1日甲子の寅の刻、今年から初めて、属星の座と天地四方の座を拝する四方拝を行った。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)1月1日辛亥、土御門第において四方拝が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)1月1日乙亥、枇杷殿にて天地四方拝が行われた。(『御堂関白記』)
1月1日 供御薬
天皇に御薬(お屠蘇)を供する。
陰陽寮が前年の十一月にお屠蘇を飲む童女(薬子)と御生気方色(その年の吉方の色)を選定する。薬子は元日に前年の生気方色の衣を着て、二、三日には新年の生気方色の衣を着る。(『江家次第』)
- 天暦九年(955)1月1日辛未、例年通り御薬が供された。(『西宮記』)
- 天徳五年(961)1月1日丙申、御薬が供された。(『西宮記』)
- 康保三年(966)1月1日丁卯、御薬が供された。(『西宮記』)
- 天元五年(982)1月1日甲午の申の刻、円融天皇へ御薬が供された。(『小右記』)
1月1日 朝賀・小朝拝
天皇に新年の挨拶をする。朝賀の際、東側には日像幡・朱雀幡・青龍幡、西側には月像幡・白虎幡・玄武幡が立てられる。(『内裏式』)
朝賀の後、清涼殿の庭上において小朝拝が行われる。六位以上の王卿・殿上人が天皇に拝謁する。仙華門から庭に入って王卿一列・四位・五位一列・六位一列をなして拝謁し、退出する。雨が降っていたら、王卿は仁寿殿の西の砌の中で、侍臣は南廊で拝舞する。(『西宮記』)
中止になる場合
- 天徳五年(961)1月1日丙申、物忌のため小朝拝は停止となった。(『西宮記』)
- 天元五年(982)1月1日甲午、円融天皇の物忌のため小朝拝は停止となった。(『小右記』)
1月1日 元日節会
元日は天気もよく、普段とは違って、世の人々はみな入念に身繕いをして祝い事をしている。(『枕草子』三段)
元日節会では、天皇が紫宸殿に出てきて宴が開かれる。暦が献上されたり、舞楽が行われる。酒も飲む。
- 永観三年(985)1月1日丙午、元日節会が行われた。雅楽寮による演奏があった。(『小右記』)
- 寛和三年(987)1月1日甲子、元日節会が行われた。雅楽寮による演奏があった。本来であれば承明門の壇上にて演奏が行われるべきだが、南庭にて行われた。(『小右記』)
- 永延二年(988)1月1日、元日節会が行われた。理由なく早退した公卿については先例がないため、見参簿から除外することになった。(『踏歌節会次第』)
- 永延三年(989)1月1日癸未、元日節会が行われた。雅楽寮による立楽があった。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)1月1日辛亥、元日節会が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)1月1日乙亥、申の刻に元日節会が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)1月1日己巳、元日節会はなかった。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月1日癸巳、日が暮れてから元日節会が行われた。藤原超子の御忌月だったのて、三条天皇は来なかった。(『御堂関白記』)
1月1日 七曜暦の提出
中務省が新年の七曜暦を天皇に提出する。
陰陽寮が前年の12月11日までにまでに作成する。(『延喜式』)
七曜=日・月・火・水・木・金・土。
- 天慶三年(940)1月1日丁卯、朱雀天皇は紫宸殿にお出ましにならなかった。卯杖と七曜暦は内侍所へ献上された。(『園太暦』)
1月 最初の卯の日 卯杖
邪気を祓うために、杖を天皇に献上する。
- 延喜二十三年(923)1月4日己卯、醍醐天皇が紫宸殿にお出ましになり、卯杖が行われた。(『勘例』)
- 延長四年(926)1月10日丁卯、例年通り東宮へ卯杖が行われた。(『貞信公記抄』)
- 承平七年(937)1月2日乙卯、日食のため廃務になった。卯杖は、内侍所へ献上された。(『日本紀略』)
- 天慶六年(943)1月12日辛卯、朱雀天皇は紫宸殿にお出ましにならなかったが、卯杖は例年通り献上された。(『近衛家文書』)
- 天慶七年(944)1月6日己卯、朱雀天皇は物忌期間中のため、卯杖は内侍所へ献上された。(『近衛家文書』)
- 天暦三年(949)1月11日乙卯、卯杖が献上された。(『日本紀略』)
- 天暦五年(951)1月5日丁卯、村上天皇が紫宸殿にお出ましになり、卯杖が献上された。(『近衛家文書』)
1月2日 二宮大饗
中宮(皇后)と東宮(皇太子)の二宮が大規模な饗宴を開く。
玄輝門の東西の郎で行われた。(『公事根源』)
- 延喜二年(902)1月2日己酉、二宮大饗が行われた。(『撰集秘記』)
- 寛弘七年(1010)1月2日壬子、二宮大饗が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)1月2日丙子、二宮大饗が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)1月2日庚午、二宮大饗が行われた。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月2日甲午、二宮大饗が行われた。(『御堂関白記』)
1月2~3日 臨時客
新年の挨拶に訪問してきた上達部をもてなす。公的な行事ではないため、宴会は対屋で行う。
- 天徳四年(960)1月2日壬寅、左大臣藤原実頼は臨時客を行った。(『九暦』)
- 天徳四年(960)1月3日癸卯、右大臣藤原師輔は臨時客を行った。(『九暦』)
- 天元三年(980)1月2日丁丑、関白太政大臣藤原頼忠は臨時客を行った。(『小記目録』)
- 天元四年(981)1月2日辛丑、関白太政大臣藤原頼忠は臨時客を行った。(『小記目録』)
- 寛和三年(987)1月2日乙丑、摂政藤原兼家は臨時客を行った。(『小右記』)
1月3~4日 朝覲行幸
天皇が父母に新年の挨拶をしに行く。
陰陽師も参列に加わり、反閇を奉仕する。
- 昌泰二年(899)1月3日乙未、醍醐天皇は朱雀院において宇多上皇に朝覲行幸を行った。庭で梅の花の詩を作った。(『日本紀略』)本康親王が琴を弾き、雅楽寮が音楽を演奏した。(『御遊抄』)
- 天慶十年(947)1月4日庚寅、村上天皇は朱雀院において太后藤原穏子と朱雀上皇に朝覲行幸を行った。(『日本紀略』『貞信公記抄』)
- 正暦四年(993)1月3日壬辰、一条天皇は東三条院藤原詮子に朝覲行幸を行った。一条天皇は笛を吹いた。御忌月であるにも関わらず行幸・御遊が行われたので、藤原実資や藤原行成は不審に思った。(『小右記』『権記』)
1月5~7日 叙位儀
叙位者(位階を授ける者)を決める。
- 永延三年(989)1月5日丁亥、叙位儀が行われた。亥の刻に終わった。(『小右記』)
- 寛弘八年(1011)1月5日己卯、叙位儀が行われた。夜に終わった。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月6日戊戌、申の刻に叙位儀が行われた。(『御堂関白記』)
1月7日 七草粥
七種の若菜をお吸い物に入れて食べると、一年間の邪気を防げると信じられていた。
この日、人々は雪間から若菜を摘んできて、普段は間近に見ることもない若菜を見て大騒ぎしている。(『枕草子』三段)
1月7日 白馬節会
天皇が左右馬寮の引く白馬(あおうま)を見物する儀式。実際には白馬ではなく、灰色の馬が用いられた。
白馬を見物すれば、邪気を避けられると信じられていた。
この日、家庭の女たちはきれいに飾り立てた車に乗って白馬を見物しに行く。待賢門を通り過ぎる際に、車が揺れて中に乗っている者同士が頭をぶつけ合い、櫛も落ちて、不注意で櫛が折れて笑うのもまた趣がある。建春門の左衛門府の陣には、殿上人が大勢立っており、舎人の弓を取っては馬を驚かして笑っている。車の中からその光景を見ていると、立蔀などが見えて、主殿司や女官たちが行き来している。(『枕草子』三段)
- 永延三年(989)1月7日己丑、白馬節会が行われた。申の刻に一条天皇が来た。妓女が南廂にて舞を披露した。天皇は体調が思わしくなかったため、早々と帰った。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)1月7日丁巳の午の刻、藤原道長は白馬節会に参列した。未二刻に天皇が来た。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月7日己亥、白馬節会が行われた。(『御堂関白記』)
1月8日 叙位者が諸方へ感謝を述べる
この日、加階が決まった人々が諸方へ感謝しに行く。(『枕草子』三段)
1月8~14日 御斎会(ごさいえ)
宮中にて『金光明最王経』を読み、国家安穏と五穀豊穣を祈願する。
- 寛弘七年(1010)1月8日戊午の夜、藤原道長は倫子とともに大極殿の御斎会に参列した。(『御堂関白記』)
- 寛弘八年(1011)1月14日戊子、御斎会があった。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)1月8日丙子、大極殿にて御斎会があった。夜に終わった。(『御堂関白記』)
1月 上の子の日 子の日御遊
1月最初の子の日、野に出かけて遊興する。野原で摘んだ若菜を食べれば、春の精気を体内に取り込めると考えられていた。
十二種類ある:若菜、薊(あざみ)、苣(きょ)、芹、蕨(わらび)、薺(なずな)、葵、芝、蓬、水蓼、水雲、松。
康保四年(964)以降は、2月の子の日に行われている。
- 天慶六年(943)1月9日戊子、朱雀天皇の御前にて子の日宴が行われた。(『日本紀略』)
- 天慶七年(944)1月27日庚子、子の日宴が行われた。(『日本紀略』)
- 天暦三年(949)1月8日、子の日の御遊があった。松を引き抜いて、若菜を摘んで長寿を祈願した。(『朝忠集』)
- 応和四年(964)2月5日壬子、為平親王が北野に出かけて子の日の御遊を行った。(『日本紀略』)
- 康保三年(966)2月5日庚子、守平親王と童子たちが東庭において子の日の御遊を行った。その後、侍臣は梅の木の下で酒を賜り、殿上人は管弦を演奏し和歌を詠んだ。(『日本紀略』)
- 安和二年(969)2月5日壬子、藤原実頼は子の日御遊を行った。藤原伊尹も白河院において子の日御遊を行った。(『元輔集』)
- 天禄三年(972)2月5日甲子、摂政藤原伊尹が子の日御遊を行った。(『元輔集』)
- 永観三年(985)2月1日丙子、宗子内親王が飛香舎において子の日の宴を行った。(『小右記』)
- 永観三年(985)2月13日戊子、円融上皇が紫野において子の日御遊を行った。(『小右記』)
1月14日 踏歌節会(女踏歌)
足踏みをして拍子を取り、歌って踊る。
男女別々の日に行う。男踏歌は1月14日、女踏歌は1月16日に行われる。
1月15日 望粥(十五粥)
この日、望粥の祝い膳を家の主人に差し上げる。粥の木を隠し持って、女房たちが隙を伺っている。打たれまいと常に背後に気をつけている様子はとてもおもしろい。「ここの物をいただきましょう」などと言って近づき、走り寄って打って逃げると、その場にいた女房たちはみな笑う。女房同士で打ち合ったり、男を打つこともあった。打たれた人の中には、本気で腹を立てたり、打った相手を呪ったりする女房もいておもしろい。(『枕草子』三段)
かつて1月15日に黄帝が蚩尤を倒したとき、蚩尤の魂は天狗と化し身は蛇霊となって人民を悩ませた。そこで黄帝が天に祈ったところ、託宣があった。それ以来、毎年1月15日の亥の刻に小豆の粥を煮て、庭中に天狗を祀り、東に向かってこの粥を食べれば一年間病気にかからないという言い伝えがある。(『世諺問答』)
1月16日 踏歌節会(男踏歌)
- 天元五年(982)1月16日己酉、踏歌節会が行われた。雅楽寮による立楽が行われ、大唐・高麗楽が通例通り行われた。(『小右記』)
- 永観三年(985)1月16日辛酉、踏歌節会が行われた。申の刻に天皇が出御した。亥四刻に踏歌が終わると、天皇は本殿に帰った。昌子内親王・遵子の両后が他所にいるため、妓女は献上されなかった。(『小右記』)
- 永延二年(988)1月16日甲戌の申の刻、紫宸殿にて踏歌節会が行われた。(『小右記』)
- 永延三年(989)1月16日戊戌、踏歌節会が行われた。通例通り、紫宸殿に御簾が懸けられた。御膳はなかった。子の刻に終わった。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)1月16日丙寅、踏歌節会が行われた。天皇は来なかった。(『御堂関白記』)
1月17日 射礼
建礼門前にて五位以上親王以下及び左右近衛・兵衛・衛門府の官人が弓を射る儀式。
前月の二十日に、親王以下五位以上の者が試験を行い、二十人が選出される。(『延喜式』)
- 延長二年(924)1月17日丙辰、射礼が行われたが、醍醐天皇は武徳殿にお出ましにならなかった。(『貞信公記抄』)
- 延長四年(926)1月17日甲戌、建礼門前において射礼が行われた。(『貞信公記抄』)
1月中旬 賭弓
- 永観三年(985)1月18日癸亥、賭弓が行われた。右大将は触穢、左大将は持病のため来なかった。申の刻に天皇が射場殿に来た。(『小右記』)
- 永延三年(989)1月20日壬寅、賭弓が行われた。左右大将は触穢のため来なかった。未三刻に天皇が来た。(『小右記』)
- 寛弘七年(1010)1月18日戊辰、賭弓が行われた。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)3月14日乙巳、賭弓が行われた。(『御堂関白記』)
1月19~22日 摂政大饗
- 永延元年(987)1月19日壬午、摂政殿にて大饗が行われた。(『小右記』)
- 永延三年(989)1月22日甲辰、摂政殿にて大饗が行われた。終わった後、源為相が遅れて来た。(『小右記』)
1月20~23日 内宴
天皇が仁寿殿において公卿以下の侍臣たちに宴会を開き、詩歌管弦の遊びを行う。
- 延喜二十二年(922)1月21日壬寅、内宴が開かれた。詩題は「氷開春水暖」であった。(『日本紀略』)
- 延長六年(928)1月21日戊辰、内宴が開かれた。詩題は「晴添草樹光」であった。(『日本紀略』)
- 承平七年(937)1月23日丙子、内宴が開かれた。詩題は「春可楽」であった。(『日本紀略』)
- 天慶六年(943)1月24日癸卯、綾綺殿において内宴が開かれた。詩題は「花間訪春色」であった。(『日本紀略』)
- 天禄二年(971)1月21日戊午、淑景舎において内宴が開かれた。詩題は「鶯啼宮柳深」であった。(『日本紀略』)
1月20日~22日 左大臣・右大臣大饗
- 永延元年(987)1月20日癸未、左大臣府にて大饗が行われた。藤原実方が請客使を務めた。(『小右記』)
- 同年1月22日乙酉、右大臣府にて大饗が行われた。源近光が請客使を務めた。(『小右記』)
- 永延三年(989)1月23日乙巳、右大臣府にて大饗が行われた。藤原実資は三献の盃を執った。(『小右記』)
1月下旬 除目の儀
この日、宮中の人々は申文を持って行き来している。(『枕草子』三段)
- 永延三年(989)1月27日己酉の未の刻、28日庚戌の未の刻、29日辛亥の申の刻、2月1日壬子の辰の刻に除目の儀が行われた。(『小右記』)
- 寛弘六年(1009)1月27日癸未、除目の儀が行われた。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)1月25日癸巳、除目の儀が行われた。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)1月23日乙卯の未の刻、除目の儀が行われた。亥の刻に終わった。24日丙辰の未の刻、除目の儀が行われた。丑一刻に終わった。(『御堂関白記』)
二月
2月最初の卯の日 大原野祭
大原野祭は、毎年2月と11月に行われる。
春は2月最初の卯の日、冬は11月の2番目の子の日に参議以上が集まる。(『延喜式』―太政官)
藤原氏が参拝し、一族の女子が皇后になれるように祈願する。参加した藤原氏の者は二日間の休暇が与えられる。
弁・外記・史・史生・左右史生・官掌それぞれ一人が祭りの行われる場所に参って職務を行う。(『延喜式』―太政官)
2月最初の午の日 稲荷祭
2月の初午の日には、京中の人々が貴賤を問わず稲荷社へ参詣する。近衛府の官人や有名な舎人たちもいた。女につきまとって口説き始める者もいた。(『今昔物語集』28-1)
2月最初の申の日 春日祭
春日祭は毎年2月と11月の最初の申の日に行われる。参議以上が集まることが定められている。(『延喜式』―太政官)
弁・外記・史・史生・左右史生・官掌それぞれ一人が祭りの行われる場所に参って職務を行う。(『延喜式』―太政官)
春日祭に参列する皇族・藤原氏の五位以上・六位以下は当日と往復の四日間休暇が与えられる。(『延喜式』―太政官)
春日祭前日の未の日に使いを発遣する
- 延喜五年(905)2月6日乙未、春日祭使を発遣した。(『日本紀略』)
- 長保五年(1003)2月11日辛未、春日祭使を発遣した。(『権記』)
春日祭の後の丑の日 園・韓神祭
園・韓神祭(その・からかみさい)は二月の春日祭の後の丑の日に行う。
参議以上のうち一人が参加する。(『延喜式』―太政官)
弁・外記・史・史生・左右史生・官掌それぞれ一人が祭りの行われる場所に参って職務を行う。(『延喜式』―太政官)
2月4日 祈年祭(としごいのまつり)
神祇官斎院にて、一年の豊穣を祈願する。
祈年祭で幣帛を捧げるとき、大臣及び参議以上の者は神祇官に赴く。
弁・外記・史それぞれ一人及び諸司五位以上・六位以下の者はそれぞれ一人が集合する。(『延喜式』―太政官)
中止になる場合
- 延長三年(925)2月4日丁卯、犬の死穢によって祈年祭と大原野祭が延期となった。(『貞信公記抄』)
- 天慶九年(946)1月22日甲寅、触穢によって祈年祭、春日祭及び釋奠などが延期となった。(『日本紀略』)
2月最初の丁の日 釋奠
大学寮にて、孔子とその弟子を祀る儀式。
毎年、春(2月)と夏(8月)の最初の丁の日に行うことが定められている。(『養老令』-釋奠条)
- 天慶九年(946)2月16日丁丑、釋奠が行われた。上の丁の日は、触穢によって延期になっていた。(『日本紀略』)
- 天慶十年(947)2月1日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
- 天暦二年(948)2月7日丁亥、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
- 天徳二年(958)2月5日丁巳、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
- 応和三年(963)2月14日丁酉、釋奠が行われた。(『日本紀略』)
2月11日 列見
大臣または式部・兵部卿が六位以下の叙位候補者を見る。
3月
ちょうどこの時期に桃の花が咲き始める。柳の風情は言うまでもなく、美しく咲いた桜を折って大きな花瓶に挿すのも風情がある。(『枕草子』三段)
3月3日 曲水宴
- 天徳三年(959)3月3日戊申、曲水宴が行われた。御製水に桃の色が映って紅く見えた。(『日本紀略』)
- 応和元年(961)3月3日丙申、曲水宴が行われた。村上天皇が釣殿にお出ましになり、酒杯を流水に浮かべた。王卿は詩を献上した。(『北山抄』)
- 応和二年(962)3月3日庚申、曲水宴が行われた。村上天皇は侍臣に詩を献上させた。お題は、桃の花であった。(『日本紀略』)また、中宮安子は侍臣たちに絹を与えた。(『西宮記』)
- 康保三年(966)3月3日戊辰、曲水宴が行われた。詩題は、春の水に浮かぶ桃の花であった。(『日本紀略』)
- 寛弘四年(1007)3月3日庚子、藤原道長は土御門第において曲水宴を催した。新中納言藤原忠輔と式部大輔菅原輔正の二人が詩題を出し、輔正の方が採用された。皆で詩を作った。(『御堂関白記』)
3月3日 御灯
北極星に御灯を奉る儀式。御灯の日は廃務になることが多い。
3月3日と9月3日に行われる。
- 天慶九年(946)3月3日甲午、御灯が行われた。(『日本紀略』)
- 天慶十年(947)3月3日戊子、御灯が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
- 天暦二年(948)3月3日壬子、御灯が行われた。廃務であった。(『日本紀略』)
触穢、諒闇の場合は中止になる
- 承平七年(937)3月3日丙辰、触穢によって御灯は停止となった。(『年中行事秘抄』)
- 天慶五年(942)3月3日丁巳、内裏の触穢によって御灯は停止となった。しかし、例によって廃務となった。(『本朝世紀』)
- 天暦三年(949)3月3日丙午、触穢によって御灯は停止となった。
- 天暦八年(954)3月3日丁丑、諒闇のため御灯は停止となった。(『江次第』)
3月 最初の巳の日 上巳祓
3月 午の日 石清水臨時祭
- 『吏部王記』天慶五年(942)4月27日条:御在所において、宇佐奉幣使・石清水臨時祭使を発遣した。宇佐使は右衛門佐道風、石清水使は播磨守源允明朝臣である。その舞人は、五位が四人で、六位が六人である。陪従・雑事については、悉く賀茂臨時祭と同様である。思うに、去る二年の兵乱(承平・天慶の乱)により、祈り申された。「毎年、祭ることになった」という。
- 『小右記』天元五年(982)2月25日条:今日は、石清水臨時祭の調楽始である。この祭を平安に遂げられるようにと、彼の宮の別当の元に仰せ遣わした。
- 『小右記』寛和元年(985)3月24日条:石清水臨時祭試楽。未時、御座に出御した。次に召しにより、公卿が御前に伺候した。舞人・歌人が参入した。申時、舞が終わって退出した。
- 『小右記』永延元年(987)3月20日条:石清水臨時祭。その儀は通例のとおりであった。舞人の下襲、躑躅の張重は、通例では桜色である。
3月 春季御読経始
- 天元五年(982)3月25日丁巳、季御読経始が行われた。→28日庚申、結願した。(『小右記』)
- 永観三年(985)3月5日己酉の未の刻、季御読経が行われた。→8日壬子の未二刻、結願した。(『小右記』)
- 寛和三年(987)3月23日乙酉、季御読経が行われた。→26日戊子、結願した。(『小右記』)
- 永延二年(988)3月21日戊寅、季御読経が行われた。→24日辛巳、結願した。(『小右記』)
- 寛弘六年(1009)3月23日戊寅、春季御読経が行われた。→26日辛巳、結願した。(『御堂関白記』)
- 寛弘七年(1010)3月6日乙酉、春季御読経が行われた。→9日戊子、結願した。(『御堂関白記』)
- 寛弘九年(1012)3月23日庚寅、春季御読経が行われた。→26日癸巳、結願した。(『御堂関白記』)
季御読経が行われてから、三日後に結願している。
最勝講始
- 寛弘八年(1011)3月24日丁酉、25日戊戌、27日庚子に最勝講が行われた。→28日辛丑、結願した。(『御堂関白記』)
四月
4月最初の申の日 松尾祭・平野祭
松尾祭・平野祭は4月最初の申の日に行われる。
松尾祭は、弁・史ならびに左右史生・官掌それぞれ一人が現地に参って職務を行う。
幣帛は、神祇官が大蔵省かた受け取ってこれを供える。諸司も同じ供奉する。(『延喜式』―太政官)
平野祭は、参議以上が参集する。皇太子が参る場合は、自ら奉幣を行う。(『延喜式』―太政官)
また、桓武天皇の子孫(改姓して臣下となった者も同じ)及び大江・和氏の人は参列者の名簿に名前を連ねる。(『延喜式』―太政官)
4月1日 更衣(衣替え)
夏・秋の服に衣替えし、寝殿の模様替えも行う。
4月8日 灌仏会
釈迦の誕生を祝う儀式。まず、御座を片付けて灌仏台を立てる。五色(青・赤・白・黄・黒)の香水を仏像に振りかける。その後、導師にお布施を渡す。
中止になる場合
- 寛和二年(986)4月8日丙午、杜本祭使の発遣によって灌仏は停止となった。(『小記目録』)
- 永延二年(988)4月8日甲午、一条天皇の物忌によって灌仏は停止となった。(『日本紀略』)
- 永延三年(989)4月8日戊午、神事によって灌仏は停止となった。(『日本紀略』『小右記』)
4月 2回目の酉の日 賀茂祭
別名:葵祭(あおいまつり)。旧暦4月の2回目の酉の日に行われる。
行列を歩く人々は、冠に双葉葵を挿す。
賀茂神社への行列は庶民も見物可能。上流貴族は牛車の中から見物する。貴族の中には、笠や衣で顔を隠しながら見物する人もいた。
賀茂祭が近付くにつれて、みな青朽葉や二藍の着物地を巻いて紙などにほんの少しだけ包み、行き来している。末濃や村濃などが普段より風情があるように見える。(『枕草子』三段)
賀茂祭の使いなどで参列するのは、名誉なことである。(『枕草子』二一段)
- 延長九年(931)4月21日己酉、賀茂祭が行われた。行列だった。命婦と蔵人は出さず、騎馬女が一人いた。また典侍車の下仕者もいなかった。(『貞信公記抄』『西宮記』)
- 天慶八年(945)4月20日乙酉、賀茂祭が行われたが、病気のため束帯を着て礼拝することはできなかった。(『貞信公記抄』)
- 天慶九年(946)4月25日乙酉、賀茂祭が行われた。(『西宮記』)
- 天暦二年(948)4月18日丁酉、賀茂祭が行われた。村上天皇は紫宸殿にお出ましになり、馬をご覧になった。(『日本紀略』)
- 康保三年(966)4月14日己酉、賀茂祭が行われた。(『蜻蛉日記』)
五月
『枕草子』において、5月は御精進の月とされている。
5月3日 左近衛府荒手結
- 寛和元年(985)5月3日丁未、左近衛府の荒手結が行われた。(『小右記』)
- 永延元年(987)5月3日甲子、左近衛府の荒手結が行われた。(『小右記』)
5月5日 端午の節句
粽(ちまき)と呼ばれる、米を笹の葉で巻いたものを食べる。
- 天暦九年(955)5月5日壬申、端午の節会が行われた。王卿たちは薬玉を給わった。(『西宮記』)
中止になる場合
- 延喜二十二年(922)5月5日甲申、京中の病苦によって端午の節会は中止となった。(『扶桑略記』)
- 延長四年(926)5月5日庚申、伊勢神宮への臨時奉幣によって、端午節は中止となった。(『日本紀略』『小野宮年中行事』)
5月5日 左近衛府真手結
- 寛和元年(985)5月5日己酉、左近衛府の真手結が行われた。(『小右記』)
- 永延元年(987)5月5日丙寅、左近衛府の真手結が行われた。(『小右記』)
5月6日 右近衛府荒手結
- 寛和元年(985)5月6日庚戌、右近衛府の真手結が行われた。(『小右記』)
- 永延元年(985)5月6日丁卯、右近衛府の荒手結が行われた。(『小右記』)
5月7日 右近衛府真手結
- 永延元年(985)5月7日戊辰、この日行われる予定だった右近衛府真手結が延期された。(『小右記』)
六月
【神祇官】6月1日 御体御卜の開始
6月1日から、神祇官の中臣が卜部を率いて、天皇の体に祟りがないか占う。(『延喜式』―太政官)
6月1日 忌火御膳
早朝、内膳司が忌火で炊いたご飯を天皇に献上する。天皇が潔斎に入るための儀式である。6月1日、11月1日、12月1日に行われる。
- 延喜十年(910)6月1日己未、前日に内膳司から淑景舎において死穢があったとの報告があったが、触穢であっても停止することはできないとして忌火御前が供された。(『江次第抄』)
- 延喜十五年(915)6月1日庚寅、触穢があったが、例年通り忌火御膳が供された。(『西宮記』)
- 天元四年(981)6月1日丙寅、忌火御膳が供された。(『小記目録』)
- 寛和元年(985)6月1日甲戌、忌火御膳が供される予定だった。(『小右記』同年5月29日条)
- 長和五年(1016)6月1日癸酉の早朝、内膳司から忌火御膳が供された。(『左経記』)
【神祇官】6月9日 御体御卜の終了
6月9日に御体御卜を終える。(『延喜式』―太政官)
【神祇官】6月10日 御体御卜の結果報告
6月10日、神祇官が御体御卜の結果を奏上する。(『延喜式』―太政官)
6月11日 月次祭
神祇官が行う祭祀。夜に、神今食を行う。
6月14日 祇園御霊会
- 天延二年(974)6月14日辛卯、初めて祇園御霊会を行った。(『祇園社記』)
- 長和二年(1013)6月14日甲戌、祇園御霊会が行われた。藤原道長は、神馬と十列を奉納した。(『御堂関白記』『小右記』)