両介、那須野の原狐狩 #泰親降雨の法を行う
時は保延三年(1137)9月、播磨守安倍泰親は下野国那須の郷に到着し、領主那須八郎に対面した。
道案内を頼んで修法を行う場を選んでいると、那須野の原の南方に久良神山(黒髪山とも)という高山がある。
ここは極めてよい場所だから、その山頂から北に向かい、那須野の原の方を正面から見下ろし陣を張って壇を設け四方を臨めば、今は秋の終わりだから寂莫とした風が身を貫くように吹き付ける。草葉も枯れて、木の葉は散り影も形もなく、目を慰めるものは梢が残っているだけだ。
葉の色が変わっていく様子に心を澄ますのはよい場所だ」と泰親が指示して、山を降りて休息をとった。
八郎は那須野の原のを中央から三里に区切り、四方の所々に仮の宿を作った。
三浦介と上総介の到着を待っていると、翌日二人が到着して仮宿に入った。
その後に続いてやってきたのは一番目に赤旗、二番目に槍二千筋、三番目に幕、四番目に犬千匹、五番目に太鼓三百、六番目に法螺貝三百、七番目に撥三百だったという。
決戦・悪狐退治
時は9月27日、北の借家に一文字の菊の幕を張り、同様に菊の旗を立てた。
八郎は器込み腹巻き・小手脛当てを付け、柿色の狩衣を着て、烏帽子の上に鉢巻をして、鶴淵の馬に金覆輪の鞍を置き、夏毛の行縢と鹿の皮の切り付けを付けて、節巻の弓と切り符を背負った。
案内役として家来三百人余りを連れて、勢子として土地の百姓八百人余りを従えて陣を敷いた。
東の借家には丸に三つ引きの旗幕を張り、三浦義澄は鬱金色の腹巻と赤い狩衣、たくましい連銭葦毛、沃懸地の鞍置き、大斑の行縢、虎の皮の切り付け、小房の鞦を鞍に通し、諏訪大明神より授かった白木の弓を掴んで、鷲の元黒の征矢を背負った。
西の借家には月と星の旗幕が張られた。
上総介広常は腹巻・小手・脛当ての狩衣を着て、栗毛の馬に螺鈿の鞍置き、大星の行縢、熊の革の切り付けと付けた。
高良大明神より授かった大振りの槍を馬の首の側面に付けて控えた。
三浦介と上総介の両名に従う騎馬・士卒・勢子は思い思いの者を身に着けて、きらびやかにして控えていた。
南の借家二ヶ所には、両将の配下の武士が二十五騎ずつ士卒・勢子ともに三千人が連なって両家の旗を押し立てて陣を敷いた。
久良神山では安倍泰親が紫の腹巻に猩々緋の陣羽織を着て、舎人に馬を引かせて、山に到着して壇に上がった。
悪狐退治にて那須野の原の三里四方の範囲内で飛行を封じ、悪獣が逃げようとしたら行く先々に骸すら貫くほどの激しい雨を降らせ、妖狐が逃げられないような法を修した。
狩場では、三浦介と上総介が東西から馬上で采配を振り、二十五騎を先鋒として向かわせ、那須野の原へ押し寄せて進んだ。北からは八郎が手勢を従えて進んできた。南からは五十騎と六千人の軍勢が押し進んだ。
数多の勢子たちが銅鑼を鳴らし、太鼓を打ち、割り竹を叩きたて、弓矢・槍・鉾・刃を携えていた。
法螺貝の音が鳴り響くのを合図に鬨の声が上がり、数多の鳴り物が一斉に天に鳴り響いて山彦にこだまし、大地も裂けて奈落さえ崩れてしまうのではないかというほどだった。
おびただしいというほかなく、夜になると十里四方に絶え間なく焚かれた篝火の光は天を焦がして昼のように明るくなり、二日二夜に渡って休むことなく狩りが行われた。
けれども、白面金毛九尾の狐の姿は見えずにいたので、三浦・上総の両名は悪狐を狩れと大将に任ぜられてはるばる下野国まで下っておきながら、むなしく撤退すべきかと考えた。
「どのように隠れ逃れていても、絶対に見つけ出してやる」と怒りを露わにし、大量の松明を打ち振らせてそこら中に投げて火を付け、草を焼き払って激しく狩り立てた。
久良神山では泰親が丹精を込めて祈祷を修した。
三日目の未の刻が過ぎた頃、どこからか子牛ぐらいの大きさの白面金毛九尾の大狐が現れた。
身の丈は七尺余り、頭から尾にかけて1丈50尺もあるように見えたものが飛び回るのを、三浦介と上総介は旗を振って八郎と兵士たちにも、他の獣は無視してこの悪狐を倒せと指示した。
あちらを塞げ、こちらを遮れと呼び合うにつれて狐は激しく追い回され、逃げようとして群がっていた勢子二、三人を蹴飛ばし、駆け出して走り出そうとしたが、泰親をが修した降雨の術によって三里より先に逃げることができない。
引き返して人馬の区別なく飛び越え、またはつかみ殺し、蹴り殺し、数え切れないほどの者がこの妖狐に害された。
三浦介は今だ、と思い諏訪明神から授かった弓に矢を打ちつがえ、声高らかに「神力よ、お守りください!」と唱えながら矢を引き放つと悪狐の脇腹に突き刺さった。
妖狐がこれにも怯まず射手めがけて飛びかかろうとしたところを、二本目の矢で首筋を射抜いた。
この時、三浦介は大声で「安房国の住人・三浦義澄が悪狐を射止めたり!」と叫んだ。
それでも悪狐がなおも暴れて飛びかかるのを、上総介が高良明神から授かった大振りの槍でぐさりと突き伏せた。
狐は槍に噛みついたが、剛力の上総介は少しも槍を動かさず、大声で「上総介広常、妖狐を仕留めたり!」と叫んだ。
大勢の士卒・勢子が我も我もと折り重なり、突く者もあり、切る者もあり、ついに妖狐は息絶えたが、不思議なことに狐の姿はたちまち大きな石となった。
皆驚きながら士卒たちが二十人程近づいて石を引き起こそうとしたが、将棋の駒が倒れるようにしてその場にはたはたと倒れた。
それぞれ大いに訝しみ、次々に集まってきた勢子と士卒も近づく者や触れる者はみな倒れ、骸となった。
泰親もやって来て石を見ると、
「狐は毒石に姿を変えたのだ。近づかなければ害はない。ここに札を立て、人が近づかないようにしよう」と八郎に伝え、三浦・上総の両名には
「悪狐退治の武功を立て、勅命の役目は済んだから、勝利の凱歌を歌い早速都へ戻って報告せよ」という泰親の言葉に応じて八郎とともにその場を引き上げた。
こうして播磨守泰親、三浦介義澄、上総介広常は八郎に暇を告げ、下野国を出発してまもなく京都に到着した。
関白忠通に那須野の悪狐退治について詳細に報告すると、天皇は大いに感動してそれぞれに恩賞を与えた。
彼らの名は後世に伝わり、特に泰親は老年に及んで二度の大功を上げた恩賞として内裏への昇殿を許され、その名誉を子孫代々に伝えた。
これは類稀なる手柄だった。