大内に於いて狐狩り稽古犬追う物の権与 #三浦・上総・両介那須野へ発向
悪狐再び
那須八郎が領内の妖怪を神鏡の徳によって鎮めたので、近国・近隣の民は安心した。
八郎は事の顛末を書いた手紙を関白殿下と検非違使庁へ送り「朝廷の威光によって私の領内の騒乱が静まったので、軍勢を下す必要がなくなりました。今後再び災害が起こるようなことがあれば、またお願いします」とお礼を申し上げたことによって、軍勢の派遣は中止となり、八郎は上洛して神鏡を返納した。
けれども保安4年(1123)1月28日、鳥羽天皇はまだ壮年だっだが、在位わずか16年で譲位して皇太子・顕仁親王が即位した。
翌年に改元があって、天治元年とした。後に崇徳院と称されたのがこの顕仁親王である。
母は大納言・藤原公実卿の娘で名は璋子、後に待賢門院と称された。
月日の移り変わりは早いもので、天治から大治・天承・長承の年号を経て保延3年(1137)までの14年間、那須八郎の領内は平和だった。
ところが、この年になって那須野に隠れ棲んでいた白面金毛九尾の狐が昼夜姿を現しては人を傷つけるようになった。
領内の百姓、父母、妻子、兄弟、眷属を失い、嘆き悲しむものが溢れかえっているのは悲しいことだ。
昼であっても外に出られず、農業をすることもできず、庶民が飢えて困窮するさまは言葉も出ないほどだった。
その上、隣国や他国から行き来する者もいなくなり、彼らを尋ねてきた者も同じく傷つけられ、あるいはかろうじて助かり逃げてきた者が領主へ訴え出た。
八郎は領内はいうまでもなく隣国も大変な目にあっているのだと嘆いた。
民は領主へ命乞いをして露のように儚い命を繋ぎ、なんとかその日を過ごした。
領主の家ですら被害を蒙り、領主は徴収もできず給料を払うこともできなかった。
八郎はやむを得ず、以前上洛して奏聞したときのように前摂政・太政大臣・関白忠実公への手紙を書き、彼の家の長臣・秦弾正少弼量満と西山左京亮長暢のもとまで飛脚を遣わした。
「妖狐の災いが再び起こり、領内と近国・隣国はとても困窮しています。私の国の人間だけでは対処できないので、軍勢を派遣してもらえませんか」
忠実はこれを聞き、翌日参内して公卿らとの評議を開いたが、関白忠通公、左大臣家忠公、右大臣有仁公、内大臣宗忠公をはじめ議論が難航して決まらない。
以前八郎が上洛した時、播磨守安倍泰親が悪狐退治の良策を講じたので、忠実は彼に従うのが上策だろうと考えた。
「今、在京している武士のなかで英雄・豪傑・大将を任せられる者はいるか」と問うと、その場にいた公卿らはすぐには答えられず、忠実の意向に添える者は誰だろうと考えても一人の武士も思い浮かばない。
「いずれにせよ武勇に優れた者で、なおかつ東国の一大事なのだから東国の武士が大将を務めるべきだ」という声があったので、忠実は重ねて、
「それぞれこの人と思う武士がいたら遠慮なく申せ。大切な任務なのだから、よく考えてほしい。まず東国武士で在京しているのは安房国の住人・三浦介義澄、上総国の住人・上総介広常の二人の英雄がいると聞く」
それぞれの公卿も殿下のお眼鏡にかなう者が大将に任ぜられ、官兵を率いるべきだ。英傑で下野国の地理にも詳しいだろう。これ以上の賢明な判断はない」と衆議一決した。
忠実は六位の蔵人を派遣して安倍泰親を階下に呼び出し、泰親が畏まって到着すると、自分の考えを伝えた。
「下野国で以前の悪獣が再び害をなし、自国他国の人民がたくさん殺められ、とても困窮している。那須八郎から退治の官兵を派遣してほしいとの願い出があったので、評議の結果、東国武士の三浦介義澄・上総介広常を大将として官兵を向けることになった。これは以前、そなたが講じた良策に従うものだ。そういうわけだから、そなたも二人とともに下野国へ向かい、かねてより話していた悪獣の飛行を留める修法を行ってくれ。以前と異なりそなたは年老いて苦労をかけてしまうが、国家人民のためと思って精勤を励まし、もう一度大功を上げてほしい」
泰親は畏まって引き受け、今の関白である忠通公にこのことを伝えて三浦介・上総介を内裏の階下に召した。
再び悪狐退治へ
公卿・殿上人が堂上に並んで座り、勅宣の旨を達した。
「下野国那須野に隠れ棲み、民を傷つける悪獣・白面金毛九尾の狐退治の大将に任ぜられ、節刀を授かり一将につき騎馬五十、騎士卒・列卒・惣官兵七千五百余騎ずつ授け、二人合わせれば一万五千騎の軍勢となる。
武功を上げ、悪獣を滅ぼし、人民の害を除き、宸襟(天皇の心)を安心させよ。領主の報告によれば、厳しい戦いになるだろう。
猛威を振るう狐にして大軍を恐れず、虎や豹でもかなわないと言うから、出陣の前に狐退治の稽古・修練を行うように」
三浦介と上総介は畏まり、
「多くの在京武士の中から大将に任ぜられたのは名誉なことです。家の面目は冥加に余る光栄ですのでお受けします」
退出して泰親を召すと、改めて今度の下野国下向の宣旨を下し、泰親は畏まって退出した。
その後、三浦介と上総介は忠実の邸宅で木幡左衛門佐光隣のもとで狩りの稽古をした。場所はどこにしようかと聞くと、関白の許可のもと内裏の広庭で犬を選び、それを狐だと思って士卒・兵卒、勢子がそれぞれ訓練して出発せよと命じられた。
三浦介は上総介と相談した。
「此度の狐狩りにおいて、奴は神通力があるから武器だけでは勝てないだろう。この国の神の加護がなければ武功を上げることは叶わぬ」
三浦介は普段から信仰していた諏訪大明神を礼拝し、
「この度は勅命を蒙りました。那須野の悪獣退治に神力の加護をお貸しください」と祈願した。
上総介も高良明神に誓いをかけて祈念した。
神々の加護
ある夜、三浦介は霊夢を見て、諏訪大明神からのお告げがあった。
「そなたは那須野の悪獣退治をせよとの勅命を受け、神力の加護を願う心が切実なものだったから、弓矢を授けよう。これを使って悪狐を退治せよ」
目が覚めて起き上がってみると、白木の弓に鷲の羽の征矢が二筋添えられていた。
三浦介は感動して嗽手水で身を清め、弓矢を取って抱き、諏訪明神に礼拝した。
「大願成就に協力していただき、ありがとうございます」と喜ぶさまは限りないものだった。
上総介も同じ日の夜に霊夢を見て、高良明神の神勅によって大振りの槍を授かった。
「これを使って悪狐を倒せ」
なおも神力を加えると告げると思いきや、夢から覚めた。
ふしぎだなあと思って起きて振り返って見ると、夢で授かった槍が枕元の近くに立て掛けてあった。
上総介は身を清めてから槍を胸に抱いて、神が自分の思いに応えてくれたことを喜んだ。
やがて二人は内裏の稽古場に出て、武士を五百人ずつに分けて、犬を集めて狐狩りの訓練をした。
その日の稽古を終えて三浦介が霊夢を見て弓矢を授かったことをこっそり伝えると、上総介も夢で神から槍を授かったと語り合い、神徳の素晴らしさに感嘆し、ふしぎなこともあるのだなあと思った。
稽古の日々も終わりに近づいたので、皆狩りの技術も上達していたので、その旨を報告して検分を依頼してから出発の準備をした。
これをきっかけに犬追物の射術が始まり、騎射三物が定まった。
所謂「流鏑馬・笠懸・犬追物」として後世に伝わっている。
那須野へ向かう
こうして、狐狩りの訓練は熟したのだから、出発を延ばしてはいけない。悪狐の退治が遅れれば下野国の被害は増すばかりだろうということで、那須野への出陣の日が決まった。
八郎へもその旨を伝え、播磨守泰親は三百騎を従えて一日早く出発した。
翌日、三浦介義澄と上総介広常は騎馬五十騎と士卒・列卒七千五百余騎、合わせて一万五千余騎を率いて旗をなびかせ、刀と槍を日の光に輝かせて隊伍を並べ、辺りを払って武威を示しながら下野国へ押し進んだ。
洛中・洛外はいうまでもなく、道中でこれを見たものはみな感動した。
さらに、関東八カ国に宣下があり、数万の軍勢が派遣された。