藻女に依って、行綱恩顧を賜ふ #小町以上女房歌道名誉の話
さて、人王七十三代堀河院の時代、勅免によって朝廷の本官に復帰した北面武士の従五位左衛門尉坂部行綱は天皇からの恩義を感じて真面目に仕事に励んでいた。
しかし嘉承二年(1107)7月19日、天皇は在位21年で崩御なさった。享年30歳だった。
同年12月1日皇太子の宗仁親王が即位した。後の鳥羽院である。
母は太政大臣実季公の娘で、諱は苡子という。
翌年改元があり、七十四代天皇である鳥羽院の天仁元年(1108)となる。
鳥羽院の時代になって行綱は出世し、一階を加えられて右近将監となった。
元々、行綱は身分の低い役人で殿上することが許されず、天皇の許しを得て奉るほどの勤務実績もなかった。
ところが、先帝の時代に娘の藻女が召し出されて官女となった。
成長した藻女は美しく聡明で、比べようがないほどの智慧があったので天皇に寵愛されるようになり、父行綱も昇進した。
そうこうしているうちに元永二年(1119)春、行綱が亡くなった。
続いて母も亡くなったので藻女は独りになり、いよいよかわいそうに思われた。
そもそも藻女が内裏に召されたのは、先帝が下した和歌の課題が難題だったので誰も歌を詠むことができなかったところを、彼女がお題にかなう歌を献じたので、その褒美として勅命を蒙ったからだ。
この褒美によって、父の勅勘まで許されたのもすべてこの藻女の和歌の徳によるものだ。
和歌というものは朝廷に古くから伝わる風習で、伊弉諾・伊弉冉が天の浮橋で互いに歌を詠んだのがはじまりだ。
そして、素盞鳴尊が八雲で詠んだ歌が三十一字だったことが世に広まって、三十一字で詠まれるようになった。
和歌は天地の神々の心を震わせ、眼には見えない鬼神すら哀れだと思わせた。
武士の心も和らげる歌の徳は厚く朝廷の恩を蒙り、詔を受けた官女は数え切れないほどいる。
ここにその例をひとつ、ふたつを記そう。
その昔、人王五十四代仁明天皇の時代、承和年中の頃、参議だった小野篁の養子・左衛門佐従四位出羽郡小野良実には小町という娘がいた。
玉のように美しく才智に秀でて、幼い頃から和歌を愛し、優れた歌を多く詠むとの噂が帝のもとに届いた。
やがて、小町は殿上に召された。
祖父の篁に小町を連れて参内せよとの詔があったので、かしこまって小町を連れて天皇が住む宮中に参上した。
この時小町は七歳で、帝もその美貌を見て感心し、どうして美しいだけでなく和歌にまで通じているのだろうと思った。
元より、祖父は博学多才で詩文に長け、歌道においても並ぶものがいなかった。
愛する孫のために、自分で考えた歌を小町の詠んだ歌として披露したのではないだろうか。
たとえ見よう見まねで詠んだとしてもまだ七歳の少女なのだから、男女の情はわからないだろう。
そこで、難しい恋歌を詠み、その場で返歌を書いてもらおうと思って、歌を小町に渡して返歌を求めると、たちまち短冊を手に取り返歌を差し出した。
帝はこの様子を見て「高らかに吟ぜよ」と命じた。
大納言源融卿が畏まって元の歌とともに辺歌を高らかに吟じると、帝は深く感心して「あっぱれ、さすがは篁の孫だ。成長した姿を見てみたい。 今後は歌会に招待せよ 」と称賛した。
小町は采女となり、所領として山科の郷を賜った。
篠右大臣源常公から勅命があり、篁は誉れを得て退出した。
それから、篁が再び朝廷に召された時に「小町は皇太子の妃として迎えるから、年頃に育つまでそなたが大切に育てよ」との勅諚があった。
篁は真に身に余る幸せと感じながら、車に乗って朝廷を後にした。
帝が小町と結婚させようとしたのは、惟喬親王だったらしい。
この時から、小町は小野小町と呼ばれるようになった。
けれども程なくして、嘉承三年(850)3月25日、任明天皇が四十一歳で崩御なさった。
それから三年が経ち、文徳天皇の時代の任寿二年(852)12月22日、祖父の篁も逝去した。
文徳天皇の時代になると、父良実の身分では小町を親王に嫁がせることは叶わなかった。
そのため先帝の思いも考慮されることはなく、小町は不本意だと思い、恋をすることはあっても結婚はせず、縁のない生活をしていた。
それは惟喬親王も同じで、小町以外の人と結婚することはなかった。
その後貞観十四年(872)7月11日、惟喬親王は出家して山科の里にある小野小町の家の近くの館に住むことになった。
それからというもの、小町は昼夜を問わず惟喬親王の和歌の相手をしたらしい。
小町が和歌で高名になり、神泉苑にて雨乞いの勅命を蒙った。
従四位に任ぜられて后に准し、糸毛の車を授かって優れた和歌で天下の干ばつを救った。
清和天皇の歌合わせでは、「水辺の藻」というお題を賜って歌合わせの会を開いた。
歌の相手は山城権守大伴黒主だった。
小町が相手では勝てないと思った黒主は、侍女に小町の歌を盗ませた。
そして、『万葉集』に小町の歌を書き込み、歌会の席で小町の歌を「そなたの歌は『万葉集』に書かれている」と妨害した。
小町は殿上で「自分の歌が書かれている箇所だけ墨が新しい」と異議を申し立てた。
そして『万葉集』を水に浸してみると、小町の歌は一文字も残らず消えた。
このような不興もあり、その日の御会は中止になった。
黒主は面目を失い、夜に紛れて都を去ったらしい。
そして小町は、幼少から七十歳余りになるまで歌道の名誉は数えきれないほどだった。
ここにまた、人王六十八代後一条院の長元の時代、丹後守平井保昌という者がいた。
彼の妻は和泉式部といって、元和泉守橘道貞の妻で上東門院に仕え、内侍として和泉式部と呼ばれた。
後に平井保昌に嫁いで夫婦で丹州に下った時、娘の小式部は都に残ったので内裏の御会に招待された。
若い殿上人が「小式部はあんな優れた歌を詠むのは、まだ幼いから母の式部が詠んだ歌なのだろう」と言った。
その人は、大納言公任卿の息子だった。
中納言定頼卿局に仕える女房が来て「歌はどうなさいますか。丹後の母君のもとへ使者を遣わせましょうか」と冗談交じりに言った。
小町は殿上人の袍の袖を引き止めて、
大江山 いくののみちの 遠ければ まだ文も見ず 天の橋立
(大江山から生野への道は遠いので、私は天の橋立を踏んだこともなければ、母からの手紙を見たこともないのです)
と詠んだので、若い殿上人は袖を振り払い顔を真っ赤にしてその場を立ち去った。
母の和泉式部はイワシが好きでよく食べていた。
夫の保昌はこれを見て「イワシは身分の低い者が食べる魚だ。身分の高い者が食べるものではない」と笑われたので、式部は和歌を以て返答した。
それ以来、イワシを「おむら」と名付けて世の貴族たちも食べるようになったそうだ。
また、一条天皇に仕えた藤式部は左衛門佐藤原宣孝の妻で、曾祖父は中納言兼輔、父は従五位下藤原為時である。
藤式部は博学で和歌に通じ、石山寺の観音へ参籠し、湖水を照らす月の光に心を澄ました。
そんな中生まれたのが『源氏物語』である。
帝の感心は深く、特に『紫の上』を評価したので、藤式部に最も高貴な色とされる「紫」の称号を与え紫式部と呼ばれた。
その娘も大弐である高階成章の妻となり、後一篠院の乳母だったので故三位に任ぜられ、大弐三位と呼ばれる歌人となった。
また、上東門院の母源倫子に仕えた赤染衛門は大和守赤染時用の娘で、父が右衛門尉だったことからこう呼ばれた。
それから、赤染衛門は大江匡衡の妻となって匡衡右衛門とも呼ばれた。
ある時「四方のホトトギス」という和歌のお題があったが、書くことが思いつかず、独りで笠で顔を隠して洛外をぶらぶら歩いた。
北は平野、南は伏見、東は粟田口まで及んだ。
毎日歩いて胸に思い浮かぶ景色が現れないだろうかと工夫を凝らしたが、どうしても思い浮かばなかった。
その時、北へ行き南へ帰り、東の山に月が出る景色を見て「神様がこの景色を詠めと言っている」と四方を拝してこのように詠んだ。
北にきく 南にかへる ほとどぎす 月の出入る 山にこそなけ
これもまた秀逸な歌だったので帝に深く感心された。
その後、和泉守となった息子の大江挙周は国主に任ぜられた後で重病を患った。
住吉神の祟りだというので、
かはらむと 祈る命は 惜しからで さてはわかれん ことぞかなしき
(自分の命を子の命に代えることは惜しくないけれど、息子と離れ離れになるのは悲しい)
と詠んで、御幣として住吉神社に奉った。
その日の夜、夢で白髪のおじいさんがその幣を取るのを見て、挙周の病は治ったという。
このほか、源頼光の娘で相模守の大江公資の妻でもあり、入道一品宮の女房である相模。
周防守平継仲の娘で後冷泉院の女房周防内侍。
周防内侍祭主大中臣能宣朝臣の孫娘伊勢大輔。
清原元輔の娘で『枕草子』を書いた清少納言。
紀伊守平重経の妹で後朱雀帝の皇女・祐子内親王に仕えた紀伊神祇伯の源顕仲女。
鳥羽院の后・待賢門院に仕えた源頼政の娘で二条院に仕えた讃岐。
このような名家の歌人の娘たちの歌は、それぞれの家集を読んでもらうことにしよう。
ここに書ききれないほど和歌を詠む女性も多かった時代に身分の低い藻女が殿上の人々と交わり、幼くして高名になったのは、類まれなことだった。