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絵本三国妖婦伝 仲麻呂の亡霊、吉備大臣を佐く 并びに、吉備公邪馬台の文を読む

基本情報

絵本三国妖婦伝とは

『絵本三国妖婦伝』は江戸時代に高井蘭山によって描かれた読本。 中国(殷、周)・インド(天竺)・日本の三国に渡って悪事を為した白面金毛九尾の狐の物語である。

内容

日本において、国常立尊くにのとこたちのみことから天神七代地神五代がその統治を継がせた最初の人王は、神武天皇という。

鵜葺草葺不合尊うがやふきあえずのみことの第四皇子で、母は海神の娘・玉依姫たまよりひめである。

天皇の御諱は神日本磐余彦尊かんやまといわれひこのみことと称する。

十五歳で立太子され、五十二歳の正月に即位した。

在位七十六年、都を大和国畝傍山に造り橿原宮かしはらのみやと名付けた。

蹈鞴五十鈴媛たたらいそすずひめを皇后とし、天種子命とともに政務を執り、民に誠実な国風を理念とし、仁義を以て富を導き、智・仁・勇の三徳を以て国を治め、武芸を磨いて賊を鎮めた。

小国とはいえ万国よりも秀でていたので、異国から謀を伺う者が渡って来たこともあったが、敵対することは浅はかだということになった。

これも、神武の国、正直の徳によるものである。

第四十四代元正天皇の御代、多治比県守たじひのあがたもり藤原宇合ふじわらのうまかいが遣唐使として渡海した。

阿倍仲麻呂・玄昉げんぼう僧正もともに入唐した。

この当時、唐の国は第六代玄宗皇帝の御代であった。

開元四年(716)、遣唐使たちはそれぞれ玄宗帝に謁見し使命を終えて帰朝したが、阿倍仲麻呂と玄昉僧正の二人は特に優秀で博学だったので、帰朝を惜しんだ玄宗によって唐に留め置かれることになった。

ある時、玄宗帝は乾元殷の楼閣に二人を召して、黄門監宗係・御史中丞宇文融らを侍り詩文を作らせたところ、仲麻呂と玄昉の作った詩の素晴らしさに感動した。

仲麻呂は秘書監の官位を賜り、姓名を朝衡と改めたが、その後帰国の願いを許された。

明州の津から船出する際、唐で親交を深めた李太白・王緯・包佶ほうきつらが仲麻呂へ餞別の詩を送り、互いに別れを惜しんだ。

この時、仲麻呂は海面から月が上るのを見て、歌を詠んだ。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

この秀歌は『古今和歌集』や『百人一首』にも取り上げられており、遍く人々に知られている。

ところが、海上で暴風や荒波に揉まれ、仲麻呂の船は空しく唐土の海に漂い、帰国することは叶わなかった。

異国である唐土に留まり、とうとうその地で亡くなった。

そうして本朝では養老五年(721)となり、吉備大臣が遣唐使に命じられて入唐することになった。

吉備公もまた、秀才博学にして他と比べようがない程だったので、唐の皇帝は深く感動して何とか彼を唐土に留めようと思った。

吉備大臣の才智を試し、彼を負かして唐土に留めようと策略を企て、日本に未だ伝わっていない囲碁ならば吉備の才智でも及ばないだろうと考えた。

次の日、帝は勅命を下した。

「張説は囲碁の勝負で吉備大臣を負かし、唐の人の智恵を見せつけて吉備をこの地に留めること」

そのとき、吉備大臣は客館にいた。

「どのようにして勝つかあれこれと考えたが、手慣れぬ術で唐人に及ばなければ我が日本の恥となってしまう。どうすればよいだろう」

吉備公が心を屈し灯火の下で黙々と案じ続けていたところに、突然何者かが現れた。阿倍仲麻呂であった。

吉備公は仲麻呂に声をかけた。

「貴方は仲麻呂殿ではないか。絶えて久しく変わりないのを見て嬉しく思います。貴方は、すでにこの地で亡くなられたのではなかったのですか」

「三笠の山を詠んだ秀歌を日本に伝えて形見としました」と吉備が涙を流しながら言うと、仲麻呂も涙に咽びつつ、

「私はすでに冥土の鬼となったが、朝恩のために貴公に力添えに来た。
明日、朝説と囲碁の勝負をするらしいが、貴公は負けてはならぬ。
そもそも囲碁というものは、盤面に四百九十三の升目があり、白黒の碁石三百六十個を一年の数にたとえたものである。
石の白と黒は、月光と月魄を表している。この石を交互に盤面に置いていき、両目が相続くのを生とし、続かざるを死とする。
そのやり方は、このようにせよ。明日、盤面に向かって勝利を心に浮かべるのだぞ。

その後、唐人は貴公に邪馬台の詩を読ませ、文才を苦しめようとしてくる。だがこれもまた、文字を読む順序が分かれば心労も休まるだろう」と告げたかと思うと、煙のように幻のように、仲麻呂の姿は消えてなくなった。

吉備公は仲麻呂の節義に感謝して、仲麻呂の消えた方に向かって三拝し、少しの間心労を案じた。

夜が明けて、吉備大臣は殿中に召されて張説と碁盤を囲んだ。

帝の叡覧あり、諸官も列座して誠に眩く晴れがましい勝負となった。

吉備公は碁盤に向かって石を置いているうちに自ずと勝利し、喜んだ。

やがて、李林甫が詩を取り出して吉備の前に置いた。

「これは貴国の未来を記したものです。お読みなさい」

吉備公が紙を手にとって見ると、ひとつひとつの字ははっきり見えるが、句読点が分かりづらく解読が難しい。

「(読めなければ日本の恥だ)」

吉備公は何度が思案を巡らせ熟考したが、どこから読み始めてどこで読み終われば文章の意味が通じるのか、ほとんどその首尾も分からず途方に暮れていた。

その時、天井から小さな蜘蛛が下りてきて、文字の上に落ちたかと思うと、半ばに留まった。

蜘蛛はそこから縦横に文字をつたい、文字が折り返されるところまで来たら次の文字まで飛び越え、糸を引きながら歩いていった。

吉備公は蜘蛛から目を離さず、その辿った道筋に沿って文字を読んでいくと、文章の意味がはっきりと分かり、高らかに読み終えた。

唐の帝をはじめ列座していた諸官に至るまで「日本は小国とはいえ、その才智は唐土の及ぶところではない。この上は飽くまでそなたを賞美し、恩賞を与えて唐土に留めようぞ」と感嘆した。

しかし、吉備公は「私は博学ではございません。我が国にて遣唐使に命じられたので、至らないところを学び熟して帰朝しようと、この国を頼みに学問において未熟なところを用いただけです」と答えたので、唐の帝はいよいよ驚き「唐朝の諸臣は学問が足りず、愚かである。日本に叶わぬとは残念なことだ」と吉備公の心中にも恥じて留めようとした。

「心も穏やかな人だったとは、まことに英知の言葉は君の命を辱めないものだなあ」と後世の人々も称美した。

この時、吉備公が読んだ文章は梁の時代に宝誌和尚という碩徳せきとく博識の僧のものである。

どこからか日ごとに天童が一人ずつ代わる代わるやってきては、紙に一字ずつ書き残して去っていき、やがて百二十日のうちに百二十人が来て百二十字を残し、その後は来なくなった。

宝誌和尚が書き残された字を集めると、ひとつの文章になった。

読んでみると、日本のことを述べていたので、邪馬台の文と名付けた。

梁の時代から遥かな年月を過ぎて唐の時代となり、習わずしてたやすく読めるものではないものを、吉備公が初めて明らかに読んだそうだ。

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