資料室 文学

絵本三国妖婦伝より「蘇妲己、殷の紂王を惑わす #摘星楼の遊宴」

あらすじ

遥か昔、宇宙の根源である太極は陰陽の両義に分かたれた。
天があれば地があり、暑いものがあれば寒いものがあり、男があれば女があり、善があれば悪があり吉があれば凶があった。
そうして乾坤開闢けんこんかいびゃくが起こり、呂律りょりつの気が清くて軽いものは天となり、濁って重いものは地となって、天と地の中間の霊気は人となった。

日本では國常立尊くにとよだちのみこと唐土もろこしでは盤古、天竺てんじくでは毘婆尸佛びたしぶつを最初の人類と定められた。
その大気が禽獣きんじゅうを形作ろうとしたとき、よくない陰気が集まって一匹の狐になった。
狐は世界のはじまりから長い年月を経て、ついに体中が黄色の毛に覆われ、白い顔と九つの尾をもつ獣に変じた。
これを白面金毛九尾の狐という。

この狐は邪悪な妖気に満ちているため、世の人々を屠り尽くし魔界にしようとする。
『釈迦に提婆だいば』の例えにあるように善があれば悪もあるといわれている。
中国・天竺・日本の三国では聖王・賢王・神明が相次いで国を治めていたので、悪狐は万遍奇異の術を駆使して唐土では殷の紂王の后・妲己に化けて紂王を惑わして国を滅ぼした。
その後、天竺に渡った狐は班足太子の寵姫・華陽夫人を名乗って政治を思うままに操った。
狐は再び唐土に帰り、周の幽王の妃・褒姒に化けて周王朝を傾けた。

その後、狐は日本に渡り玉藻前として鳥羽院に近付いたが、安倍泰親によって正体を見破られて那須野へ逃げ去った。
玉藻前は那須野の原に潜んで人々を害していたので、鳥羽院は三浦介と上総介に勅命を下して退治させた。
しかし、彼女の魂魄は残って石となった。石になってからも世の人々を害し、幾千万もの鳥獣がこの石の毒気にあたって命を落とした。
こうして、その石は殺生石と名付けられた。

白面金毛九尾の狐の由来を考えると、唐土の殷王朝の時代までさかのぼる。
殷の皇帝・紂王は初代皇帝の湯王から数えて二十八代目の皇帝である。
聡明で勇猛であり、大小八百余国の諸侯を従え政務を執り行い、万民に慕われていた。

この時代、冀州の侯・蘇護には一人の娘がいた。
名を寿洋といって歳は十六、容姿端麗で裁縫や管弦、文学、筆墨は世に並ぶものがいないほどだった。

寿羊の評判を聞いた紂王は彼女を後宮に入れたいと思い、蘇護に娘を連れてくるよう命じたが、蘇護は断った。
「天下の君主が色を好むのは、国が滅びる兆しです。娘を後宮に入れるわけにはいきません」
このときから、蘇護は貢物をやめて出仕しなくなった。

蘇護の態度に怒った紂王は西伯侯姫昌に命じて蘇護の征伐に向かわせた。
西伯は出兵をためらい、臣下の散宜生さんぎせいを遣わして「後宮に入れるため娘を連れてこいと言うのは道理に反することではありますが、王の命令に背いて冀国を失ってはいけません」と説得した。
蘇護は利害を考えて渋々了承し、自ら寿羊を紂王に送ることにした。

やがて寿洋は母と兄弟に別れを告げ、涙で袖を濡らして都へ向かい、恩州の宿に泊まった。
寿羊は数十人の侍女に見守られて中堂で寝ていた。
外には守勤の兵がもしもの時に備えて警護にあたっていた。

夜も更け行くと思えたその時、一陣の妖しい風が戸の隙間から吹いてきて蝋燭の灯りを尽く消していった。
侍女のなかで一人だけ寝ずに起きていた者が、白面金毛九尾の狐を見た。
狐は寿羊の寝床に近付いていくのを見た侍女は短刀を引き抜いて狐を斬りつけたが、返り討ちに遭ってしまった。
狐はとうとう寿羊の血を吸い付くし、身体ごと入れ替わって眠っていたことを知る者はいなかった。

夜が明けて、侍女たちが蘇護に「深夜に邪悪なものが人を襲いました。襟に氷が注がれたかと思う程ぞっとしましたが、燈火が消えてしまったので何が起こったのかわかりませんでした」と報告した。
驚いた蘇護は臣下に命じてあちこちを探させたが、戸は固く閉まっていて怪しげな人影もなかった。
ところが、家の傍らにある池の辺りの草むらに女が一人死んでいた。
驚いて早々とその場を立ち去ったが、自分の娘が狐によって命を落としていたことは知る由もなかった。

数日後、蘇護は都に到着して紂王のもとに出仕し、娘を後宮に差し出した。
紂王は喜んで蘇護の姫君を観ると、顔は温潤にして玉のように美しく、海堂の雨を帯び、芙蓉の露を纏っているようで、眉は青く遠い山の色のようで、雲がかかっているような髪は楊柳のように垂れていた。
美しい衣にも負けないほど美しくしとやかであったので、紂王は彼女を寵愛するようになった。
蘇護には有り余るほどの美しい絹織物を与え、休暇を与えた。

紂王は寿羊を寵愛し妲己という名を与え、昼夜淫酒に耽り政務を怠るようになったので、国は荒んでしまった。
諸官が諌めても聞き入れず、師涓しけんという音楽に秀でた者を集めて歌舞に興を催し、さらに師涓の勧めで受仙宮を造り、妲己とともにそこで宴に耽った。

司馬遷の『史記』では、紂王は師涓に新しい淫歌『北里の舞』『靡々ひびの楽』を作らせたとある。

ある晩、終南山の道士・雲中子うんちゅうしが空を見ていると、冀州の方角から妖気が立ち上っていた。
怪しく思って照魔鏡を手にとって映すと、千年を超えているであろう老狐が殷の都にいるのが見えた。
驚いた雲中子は「私がこの狐を追い払わなければ、万民を害しやがて殷を滅ぼすだろう」と思って都へ向かい、事態を報告した。
太史令の官・杜元銑とげんせんも「都に妖の気配がある」と聞いて紂王を諌めた。
しかし妲己は智謀に秀でていたので、紂王に「一体、何の祟りがあるのですか。これは方士が邪悪な術であなたを惑わそうとしているのです。早くあの者を処刑しましょう」と言った。
紂王は妲己の言葉を信じ、杜元銑を処刑し「再び不吉を唱えて私を諌める者はこのようになる」と見せしめにした。
詔が下されたので雲中子の言葉も聞き入れられず、再び紂王を諌める者もいなかった。

紂王は府庫に金銀を費やし民を苦しめ、妲己のために高さ十余丈の眺望台を建てた。
玉の甍は雲の中に現れるかのようだったので掴星楼てきせいろうと名付けられ、紂王は妲己とともにこの楼に上り佞幸の諸臣を集め、盛大な酒宴を開いた。
それは春の半ばのことだったので、花は美しく咲き誇り眼前には木々の梢が広がっていて、遠くを見れば山水の景色が霞の中に細やかに見える。
紂王は媚びへつらう侍臣たちを控えさせ、文を綴り、万歳を祝った。
柳の緑は砌を担い、梅の木の枝にとまった鶯が鳴く声の麗しさよ。
幾度も酒盃を巡らせ高貴な女たちに管弦を催させ、興を添えつつ紂王は一首の詩を歌った。

緋花緑水浮(緋色の花が緑水に浮かび)

黄鶯高枝鳴(黄鶯が高い枝の上で泣く)

興終不知足(興は醒めやらず)

萬年長若斯(いつまでも長く続くだろう)

やがて妲己は立ち上がって舞い、袖を翻して一曲奏でつつ錦繍の裳をふり乱すさまは、天女が羽衣を着ているようだと感じずにはいられなかった。

楼邊黄鳥囀(楼の周りで黄鶯がさえずっている)

紫白花満枝(枝には紫と白の花が満開に咲いている)

不浴雨露澤(豊かな雨露を浴びないのなら)

濃香何及斯(なぜこのように濃い香りが漂っているのでしょう)

紂王の妲己の才智に感じ入り、その寵愛はいよいよ限りないものになった。

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