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夢想の記録と影響
夢の内容
神仏のお告げ
- 永延三年(989)4月14日甲子の朝、藤原実資は春日明神の夢を見た。(『小右記』)
- 正暦四年(993)7月19日、源俊賢は藤原行成に「先日の夜、比叡山延暦寺において行成にとって吉想となる夢を見た」と言った。(『小右記』)
- 長徳四年(998)7月16日の明け方、藤原行成は夢の中で剛力の者から腸を引き出された。腹に残ったわずか二寸ばかりの腸には「不動尊」の文字が見えた。初めは小さな文字だったが、徐々に大きくなったかと思うと、腸は腹に戻っていった。行成が不動尊を念じたところ、すでに剛力の者の姿はなかった。幼少の頃から不動明王を信仰してきた行成は、明王の効験を受けたのだと感動した。目が覚めた行成は周囲の者に夢で起きたことを言い広めた後、寺で諷誦を行った。(『権記』)
- 長保五年(1003)5月8日丁酉の夜、藤原行成は円縁阿闍梨から「五節に準備することがあれば訪ねるように。また、絹十疋を送るように」と言われた。その後、行成は不動尊に呼び寄せられて「『しだ』と言え」と言われたので、その通りにした。それから諸々の呪文を賜り、目が覚めた。(『権記』)
- 寛弘七年(1010)3月20日己亥、一条天皇は石山寺にて祈願を行った際に、石山寺の僧が如意輪観音経を持ってくる夢を見た。藤原行成は、一万巻の寿命経を転読させることを一条天皇に申した。(『権記』)
夢のお告げ
- 長保元年(999)8月18日戊辰の夜、藤原行成は蔵人頭を辞める夢を見た。(『権記』同年8月19日条)
- 長保三年(1001)2月3日乙巳、藤原行成は夢の中で誰かから書状を渡された。行成が何の書状か問うと、書状を渡してきた者は源成信の書状だと答えた。行成は出家のことだと思った。そこで、目が覚めた。行成は成信に会って夢の内容を伝えたところ、成信は正夢であると言い、ここ何ヶ月か出家について考えていると話した。(『権記』)
- 同年3月16日戊子、藤原行成は昨夜藤原詮子のために慎まなければならないとの夢想があったことを申した。(『権記』)
- 同年5月21日壬辰の夜、藤原行成の夢に故平高義が現れた。高義は「今日から五位以上で死ぬ者は六十人であり、お前もその中の一人である」と言った。(『権記』)
- 同年5月24日乙未、一条天皇の夢想が騒がしかった。(『権記』)
- 同年5月26日丁酉の夜、藤原行成は夢の中で8月15日は重く慎むようにとのお告げを受けた。(『権記』)
- 長保六年(1004)2月26日庚辰、夢想によって、藤原行成は修学院参詣において諷誦に信濃布を用いなかった。(『権記』)
- 寛弘元年(1004)10月27日丁未の夜、その日に行われた宇佐宮についての陣定に参加した者が藤原行成に「一同の人はみな禄に預かる」と言った。(『権記』)
- 寛弘五年(1008)3月19日庚辰の夜、藤原行成は夢の中で陣の辺りにいた。たくさんの僧たちがやって来て、藤原彰子のご懐妊に対してお祝いの言葉を申していた。行成が赤子の性別を尋ねると、男だということだった。その後、後涼殿の南屏が倒れる夢を見た。(『権記』)
- 寛弘八年(1011)7月12日癸巳、藤原行成は夏の末に夢を見たことを思い出した。夢の中では大雪が降っていたが、夏に雪が降る夢を見るのは凶兆であるという俗説があったので、一条天皇が崩御される予兆だったのだと思った。また、ある者は天から検非違使が大勢降ってくる夢を見て、山陵を卜占したという。(『権記』)
- 寛弘九年(1012)5月1日戊辰、賀茂斎院の下部と選子内親王は賀茂祭を催す夢を度々見ていた。(『御堂関白記』)
- 長和二年(1013)2月26日戊子、藤原道長は丑の刻と寅の刻に夢想があった。丑の刻の夢想は、8月に重い厄があるということだった。(『御堂関白記』)
外出しない
- 寛和元年(985)6月15日戊子、藤原実資は夢想によって内裏に参らなかった。(『小右記』)
- 寛和三年(987)2月2日乙未と3日丙申、藤原実資は夢想によって外出しなかった。(『小右記』)
- 寛弘八年(1011)11月7日丙子、藤原道長は人の夢想によって物忌を行った。(『御堂関白記』)
行事を延期する
- 永延二年(988)11月19日壬寅、藤原高遠は12月15日に予定されている賀茂臨時祭を延期すべきだという夢を見た。慶滋保遠と安倍吉平が占ったところ延期すべきだということになった。(『小右記』)
- 永延三年(989)3月12日癸巳、円融上皇は二度に渡ってよくない夢を見たということで、春日行幸の日を延期した。(『小右記』)
- 同年3月15日丙申、円融上皇に不快な夢想があったため、春日行幸を行うべきか議論になった。(『小右記』)
寺社へ参詣して祈る
- 永延三年(989)1月18日庚子、『今年の春、公家は慎むように』との夢想があったので、石清水宮に参詣して祈ることになった。(『小右記』)
- 同年5月13日壬辰、義蔵曰く10日の夜に一条天皇の夢想があった。藤原実資が義蔵を介して円融上皇と藤原詮子に報告させたところ、長谷寺に祈るべきだということになった。(『小右記』)
- 永祚元年(989)11月7日甲申、円融上皇は夢想によって一条天皇のために石清水八幡宮に一晩泊まるということだった。(『小右記』)
- 長保二年(1000)7月7日壬午の夜、藤原行成は夢のお告げによって、順朝阿闍梨に大威徳息災法を修させた。(『権記』)
- 同年12月21日甲子、夢想によって、藤原行成は諷誦を七ヶ所の寺に奉仕させた。(『権記』)
僧を呼ぶ
- 永延三年(989)7月28日丙午、藤原実資は物の怪の夢を見て不快になったので不動調伏法を行わせた。(『小右記』)
- 長和二年(1013)3月3日甲午、藤原道長は前月に重い厄が訪れる夢を見たので、明救僧都を土御門第に招いて修繕を行わせた。(『御堂関白記』)
祓を行う
- 寛弘二年(1005)2月6日甲申、藤原行成は前日の夜に夢想があったので、神官に祓を行わせた。(『権記』)
その他
- 永延三年(989)7月13日辛卯、藤原実資のもとに円照が来て、昨夜夢想があったことについて話し合った。(『小右記』)
- 永祚元年(989)8月19日丁卯の朝、藤原実資に夢想があった。(『小右記』)
- 長保二年(1000)9月4日戊寅の夜、藤原行成は太政官文書請印の夢を見た。夢の中で、行成のもとに束帯を着用した源致書がやって来て「太政官文書に請印してください」と頼んできた。小槻奉親が印を持っていた。行成は大弁の前で太政官文書に請印することは無いと思ったが、致書は請印を求めてきたところで夢から覚めた。(『権記』)
- 同年9月6日庚辰、藤原行成は4日に見た夢について藤原道長に話した。道長は行成の夢は吉兆であると言い、誰にも話してはいけないと言った。また、行成は道長から藤原兼家が二十歳のときに初めての叙位の夢を見たことを教えられた。(『権記』)
- 同年10月15日戊午、源成信は藤原行成へ夜の夢想を慎むべきか話した。(『権記』)
- 長保三年(1001)4月24日乙丑、藤原惟弘は藤原行成に昨夜の夢の中で惟弘が金峰山に参って金の帯と金の太刀を得たことを話した。(『権記』)
- 同年5月24日乙未の夜、藤原行成は夢の中で慶命阿闍梨と忍寿大威儀師を両脇に従えて居礼を行った。また、行成は聖武天皇の日記と往来書の草案に諱の首の字を発見した。誰かが「首」の訓みは悪い意味だと言ったので、行成は良い意味だと言い返した。その他にも様々な夢を見たが、内容を詳しく思い出せないので書き残さなかった。(『権記』)
- 長保四年(1002)2月9日乙亥の夜、藤原行成の妻は、行成とともに明月を見る夢を見た。(『権記』)
- 同年9月25日丁巳、藤原行成は夢の中で淫らなことをした。今、最も感応のある夢であった。(『権記』同年9月26日条)
- 長保五年(1003)3月3日癸巳、不浄の疑いのある夢想があった。(『権記』)
- 同年11月25日辛亥の夜、藤原行成は夢の中で小野道風に会った。行成は道風から書法を授けると言われ、雑談した。(『権記』)
- 寛弘二年(1005)9月29日甲戌の夜、藤原行成は夢を見た。東対の東廂のような場所に人々がいた。行成が東の方を見ると、南北に細い雲が浮かんでいた。雲の上に火が見えたかと思うと、南北に行き合った後に南へ向かった。雲の中にいた人が地上に降りてきて人々を捕らえていったので、騒ぎになった。誰かが「あの人は検非違使別当を連れて行こうとしているのだ。今度は左大弁(行成)を連れて行くに違いない」と言った。すると、別の誰かが「左大弁を連れて行ってはならないから、代わりに近江守(藤原兼隆)が連れて行かれるだろう」と言った。行成は「私は何も悪いことをしていないのに、どうして連れて行かれなければならないのだ」と言って手を洗い、布袴を着用して不動明王を詣でた。すると、杖刀を持った者が来て行成を連れ去ろうとした。行成は、先に本尊である不動明王に挨拶をさせてほしいと言った。そして、行成を連れ去ろうとする者に腰を抱えられながら、行成は不動明王に礼をした。それから五大尊と薬師如来、地蔵菩薩、普賢菩薩、阿弥陀如来を念じた。そうしているうちに、行成を抱えていた者は行成から離れた。行成は思わず涙を流し、その者を踏みつけた。行成は十斎仏・五大尊・六観音の像を造り、特に阿弥陀如来は立派に造るべきだと思った。その後、目が覚めた。(『権記』)
- 同年12月8日壬午の明け方、藤原行成は朝日に照らされる夢を見た。(『権記』)
- 同年12月12日丙戌、藤原行成は伊勢国の鈴鹿関戸駅において夢を見た。(『権記』)
- 寛弘四年(1007)2月29日丙申、藤原正光は夢を見た。松明の前に唐車があり、女が乗っていた。翳(貴族が外出するときに、従者が貴族の顔を隠すための団扇)を持った女もいた。(『権記』)
- 寛弘六年(1009)9月9日庚申の夜、藤原行成は夢を見た。夢の中で行成は故清原滋秀真人に紅雪を服用させられ、厚朴の汁に入れて飲んだ。(『権記』)
- 寛弘七年(1010)3月12日辛卯の夜、一条天皇への祈願を奉仕した藤原行成は、讃岐の円座が数百枚積まれた上に臥している夢を見た。(『権記』)
- 寛弘八年(1011)11月14日癸未の夜、藤原行成は故一条天皇の御忌の頃に見た夢を思い出した。夢の中では、高階明理、藤原章信と他の旧臣らが言い争いをしていた。藤原近信がひどいことを言っていたので、行成は灯台を持って近信の顔を打った。近信は激怒したが、その様子はひどく愚かであった。さらに、行成はその場にいた藤原重通と藤原時頼らに近信を踏みつけさせようとした。しかし、つまらないことだと思い直して、行成は松明をうち棄てた。行成は「夢の中に菩薩のような姿をした僧を見た。僧は『近信を踏みつけてはならない。ここは帝の居室でもあるのだから、情けをかけろ』という夢を見た」と虚言を述べた。(『権記』)