平安時代

壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦い

追い詰められた平氏

平氏一門は讃岐国塩飽荘まで逃れたが、源義経の攻撃を受けて安芸国厳島に逃れたという噂が流れた。(『玉葉』3月16日条)

翌日には平氏が備前国小島、伊予国”五ヶ島”に移ったという噂、九州から300艘が加勢したという噂が流れた。(『玉葉』3月17日条)

これらの噂の真相は定かではないが、源氏の攻撃を回避するようにして平氏は長門に逃れた。
長門で敗北すれば国内に逃れられる場所はなくなるため、戦いに勝利する以外に平氏が生き延びる方法はなかった。

合戦に至るまで

熊野水軍との連携

2月19日、源頼朝は熊野山領である三河国竹谷たけのや荘と蒲形かまがた荘について審議を行った。
この荘園は平忠度が一ノ谷の合戦で討たれた後に平家没官領となった。
しかし、平忠度の妻から訴えがあったので、両荘を彼女に安堵した。(『吾妻鏡』元暦二年〈1185〉2月19日条)

源範頼は「熊野水軍が参戦すれば、自分の面目を失うだけでなく、ほかに武士がいないも同然です。人はみな私の恥と思うでしょう」と懸念していたが、頼朝は熊野水軍の参戦は事実ではないとしている。(『吾妻鏡』同年3月9日条、3月11日条)

壇ノ浦へ出陣

元暦元年(1185)3月21日、源義経が平氏追討のため壇ノ浦へ出陣しようとしたが雨で先延ばしとなった。
そこへ、周防国の舟船奉行であった五郎正利が数十艘の船を献じたので、義経は正利を鎌倉の御家人にすると約束した。

22日、義経は数十艘の兵船を集め、壇ノ浦を目指して出発した。
このことを聞きつけた三浦義澄が、周防国の大島の津で合流した。
義経が「お前はすでに門司関を見ているのだから、戦闘を進んで案内せよ」と命じたので、義澄は先頭を進み、平家の陣から三十余町のところにある壇ノ浦の奥津辺りに到達した。
このことを聞いた平家も彦島を出発し、赤間関を通過して田浦に至った。

源氏方の軍勢

源氏方の軍勢は水軍を主として、三浦義澄が先陣を務めた。
水軍の中心は西国武士で、彼らは海上での戦闘に慣れており、周辺の地理にも通じていた。

先帝入水

24日、長門国赤間関の壇ノ浦の海上で源平両軍が出会った。
各々が三町を隔てて船を漕いで向かった。

平家軍は五百余艘を三手に分けて、山鹿秀遠と松浦党らを大将軍とし、源氏軍に戦いを挑んできた。
午の刻、平氏軍がついに敗戦濃厚になると、二品禅尼(平時子)は宝剣(草薙剣)を持ち、按察局は安徳天皇を抱きかかえてともに入水した。
建礼門院(平徳子)も入水しようとしたが、渡部党の源五馬允が熊手で引き揚げた。按察局も同じく救出された。
ただし、安徳天皇はついに浮かび上がらなかった。

後鳥羽の兄にあたる守貞親王は生き残った。
平教盛・平資盛・平有盛は入水した。
平経盛は戦場から陸地に上がって出家し、それから立ち返って入水した。
平宗盛・平清宗は伊勢義盛によって生け捕られた。

合戦は午後から始まり、夕方には終わったという。(『玉葉』元暦二年〈1185〉4月4日条)

天皇の神威

源氏軍の武士たちが先帝の船に入り、賢所を開こうとしたが、両目がたちまちくらんで心神喪失状態となってしまった。
平時忠の制止により、彼らは退去した。
これは尊神の別体であり、朝廷の加護であるという。(『吾妻鏡』元暦二年〈1185〉3月24日条)

合戦後の動向

元暦元年(1185)4月4日、前日の夜、源義経の使者が京都に平家をすべて滅ぼしたと知らせてきたので、源広綱を使者として後白河のもとに遣わした。
5日、藤原信盛が勅使として長門国へ向かった。
平家討伐で武門の威光を示し、この上ない功績を上げたので、後白河院はたいそう感心されたこと、朝廷の宝物を無事に京都に戻すように義経に伝えるためである。

三種の神器

源頼朝は鬼窪行親を使者として源範頼のもとへ派遣し、賢所ならびに宝物などを無事に回収して朝廷へ返すように命じた。(『吾妻鏡』元暦元年〈1185〉3月14日条)

参考資料

  • 元木 泰雄「治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史) 」吉川弘文館、2013年
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やみみん

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