『絵本三国妖婦伝』の現代語訳です。長いので中国〜インド〜中国〜日本に分割します。
今回は白面金毛九尾の狐が殷の妲己に化けた時の話です。
あらすじ
蘇妲己 殷の紂王を惑わし摘星楼に遊宴
太極の一理は陰陽の両義に分かたれた。
天と地、暑い季節と寒い季節、男と女、善と悪、吉と凶……。
乾坤開闢呂律の気がきれいで軽いものは上って天となり、濁って重いものは下りて地となり、中和の霊気は大となる。
日本では國常立尊、唐土(中国)では盤古氏、天竺(インド)では毘婆尸佛を最初の人間とする。
その大気が獣となる時、邪悪な陰気と混ざり合い一匹の狐となった。
その狐は、世界のはじまりから長い年月を経て白面金毛九尾の狐に変じた。
白面金毛九尾の狐は邪悪な妖気に満ちているため、世の人々を屠り尽くし魔界にしようとする。
『釈迦に提婆』の話に見られるように善あるところには悪があるというけれども、三国の聖王・賢王・神明が国を治める権力者であったがゆえに、悪狐万遍奇異の術によって唐土では殷の紂王の后・妲己に化けて紂王を惑わして国を滅ぼし、その後天竺に渡り班足太子の寵姫・華陽夫人を名乗って政治を思うままにし、再び唐土に帰り周の幽王の妃・褒姒となり王室を傾け、その後日本に渡り玉藻前として現れて鳥羽院に近付いたが、陰陽師安倍泰成によって正体を明かされ那須野に逃げて、三浦介と上総介によって討ち取られる。狐の魂魄は石と化した後も近付く人々や動物を害した。こうして、その石は殺生石と名付けられた。
殷の紂王とは湯王から数えて二十八代目の皇帝で、聡明で勇猛であり、大小八百余国の諸侯を従え政務を執り行っていた。
冀州の侯・蘇護に寿羊という美しい一人娘がいた。歳は十六歳で、縫業管弦や文学筆墨は右に出るものがいないほどであった。
寿羊の噂を聞いた紂王はぜひ後宮に連れてこいと蘇護に命じたが、「天下の君主たる皇帝が女を求めるのは、国が滅ぶ兆しである。どうして娘を皇帝の妾にしなければいけないのか」と言って命令を聞かず、朝廷にも参内しなくなった。
怒った紂王は西伯侯姫昌に征伐を命じる。
西伯は出兵をためらい、臣下の散宜生を使者として「蘇護の言葉は道理に叶わないが、眼前の翼国を失ってもいいのだろうか」と利害を咎めたが、渋々了承し、自ら寿羊を朝廷に送ろうと考えた。
やがて家族に別れを告げ、涙を拭いて都路の旅に赴き、恩州の宿に泊まった。寿羊は数十人の腰元にまとわりつかれ、中堂に臥せっていた。外には守勤の兵がもしもの時に備えて守護していたが、夜中に差し掛かる頃に、戸の隙間から一陣の妖しげな風が吹き、蝋燭の火を消した。
侍女のうちでただ一人起きていた女は白面金毛九尾の狐であった。寿羊の寝床に近付くと、寿羊は短刀を引き抜いて斬りつけたが九尾の狐に蹴り殺されてしまう。狐は寿羊の血を吸い付くし、身体ごと入れ替わっていたことを知る者はいなかった。
夜が明けて衆婢が蘇護に「深夜に邪悪なものが人を襲いました。襟に氷が注がれるくらいぞっとしましたが、燈火が消えてしまったので何が起こったのかわかりませんでした」と報告した。
驚いた蘇護は家臣に命じてあちこちを探させると、戸も閉まっていて怪しげな人影もなかったが。池の辺りの草むらに女が一人死んでいたのを見て驚き、早々とその場を立ち去るが、女が自分の娘寿羊であるとは知る由もなかった。
さて、寿羊に扮した狐は数日を経て都に至り、宮中に参内し紂王に出会った。
寿羊の顔は温潤にして玉を欺き、海堂の雨を帯び、芙蓉の露を含めるかのごとく黛青くして遠い山の色を見せ、雲の鬢は麗しく楊柳の姿、羅綺でも耐えられないほどの粧い、美しくしとやかであったので、紂王は彼女を寵愛した。
蘇護にはたくさんの美しい絹織物を与え、暇を与えた。
紂王は寿羊を寵愛し名を妲己と改めさせ、昼夜淫酒に耽り、政務を怠り、荒んでしまった。
百人の官吏が諌めても聞き入れず、師涓という音楽に秀でた者を集めて歌舞に興を催し、さらに師涓の勧めで受仙宮を造り、妲己とともにそこで宴に耽った。
雲中子という仙人が夜空を見上げていると、冀州の方角から妖気が立ち上っていたので、怪しく思って照魔鏡を手にとって映すと千歳であろう老狐が殷の都にいるのが見えた。
驚いた仙人は「私がこの狐を追い払わなければ、この国は滅んでしまうだろう」と思って都へ向かい、この事を報告すると、太史令の官・杜元銑も「都に妖の気配がある」と聞いて紂王を諌めた。
しかし、妲己は学問に秀でていたので紂王に「金屋良堂に何の祟りがあるのですか。これは方士の邪術で皇帝を惑わそうとしているのです。早くあの者を処罰してください」と言った。
紂王は妲己の言葉を信じ、方士を処刑し「再び不吉を唱えて諌める者はこのようになる」と言った。
このような詔が下されたので、雲中子の言葉も聞き入れられず、紂王を諌める者もいなかった。
紂王は府庫に金銀を費やし民を苦しめ、妲己のためだけに高さ十余丈の眺望台を建てた。
玉の甍は雲の中に現れるかのようだったので、掴星楼と名付けられ、妲己とともにこの楼に上り佞幸の諸臣を集め、盛大な酒宴を開いた。
それは春の半ばであったので、花を味わい眼前には木々の梢、遠くを眺めれば山水の景色が霞の中に見える。媚びへつらう侍臣たちをふし、文を綴り、万歳を祝す。柳の緑は砌を担い、枝には梅が咲き鶯の声は麗しいことだ。幾度も酒盃を巡らせ高貴な女たちに管弦を催させ、興を添えつつ一首の詩を歌うその言葉よ。
緋花緑水浮(緋色の花が緑水に浮かび)
黄鶯高枝鳴(黄鶯が高い枝の上で泣く)
興終不知足(興は醒めやらず)
萬年長若斯(いつまでも若い時が続くかのようだ)
やがて妲己は立ち上がって舞い、袖を翻して一曲奏でつつ錦繍の裳を乱すさまは、天女が羽衣を着ているかのようであった。
楼邊黄鳥囀
紫白花満枝
不浴雨露澤
滾香何及斯
紂王の妲己への寵愛はいよいよ限りないものになった。
紂王孕み女の腹を裂く 西伯候を囚え伯邑考を醢す
こうして紂王は妲己の色香に惑わされ、比翼の語らい同穴の契りを交わした日にも増して寵愛は厚くなり、後宮へ行くこともなくなった。
皇后は東伯侯・姜桓楚の娘で殷郊という太子を出産し、帝が妲己に誘惑されているのを諌めようとしたが佞臣費仲の讒言によって怒った紂王に高楼の上から投げ落とされてしまった。太子も配流された。
茲において費仲の勧めにより妲己は皇后となり、三年かけて高台と花園を作らせたが、そのために莫大な費用がかかり、万民を苦しめることとなった。
鹿台と名付け、その下に池を造らせて酒を拵え、一方には糟を畳んで丘とし、一方は肉を懸けて林とし、その間に酒盛りを設けて享楽に耽った。これを”酒池肉林”という。
妲己は人を殺すことを好み、新たに刑罪を作った。銅の柱を鋳造させその中に炭火を焚き、外には脂膏を塗って、罪人を裸にさせてこの柱に抱きつかせた。罪人の皮は悉く爛れて骨は砕け、灰になった。これを炮烙の刑という。
また、穴を掘って蛇百足蜂などを入れ、女を捕らえては裸にして投げ入れた。虫は女の皮肉を噛み砕き、その苦しみは言葉にもならないほどであった。これを蔓盆の刑という。紂王と妲己がこれを見て手を叩いて笑うその顔は、春の雨を浴びる桃のようであった。
皇帝はその笑いを善として、人を殺すことを楽しみとするようになった。
上下貴賤を問わずこれを怒り恨んだが皇帝を恐れて意見することはできず、この国はどうなってしまうのかと不安を抱くばかりであった。
妲己は妊婦の胎内にいる子の性別を判別することができるという。
これを信じた紂王が「試しに妊婦の腹を開いて見てみよ」と命じると、たちまち十数人の妊婦を捕らえてその腹を裂いてみると、その性別は妲己のものと完全に一致していた。
二人とも手を打って笑いあった。
このような非道な行いが増長していく程に今では天上の神々も地上の人々も怒り、紂王と妲己が肉を喰らわないことを願った。
ところで、紂王の父・帝乙に三人の御子がいた。長子は微子啓、次子は微中衍という。みな庶子で優秀な子であった。第三の御子・受辛は皇后の子であったため、兄を飛び越えて帝位を継いだ。これが紂王である。
また、王子・比干箕子などの賢臣はみな紂王の親族であったため深く憂いていた。諸臣を率いて「ご先祖の湯王は優れた君主で夏に代わって国を興しなさった。桀王のような悪行を行っていてはこの国は滅んでしまう」と紂王を諌めたが、言い訳をするばかりで取り合わなかった。
西伯候も言葉を尽くして諌めたが、妲己に讒言されて捕らえられてしまった。
そもそも西伯候姫娼とは后穉から数えて15代目の子孫である。これは伏犢の八卦を広めた聖人で、岐州に住み西方諸侯を率いていたので西伯と呼ばれた。
臣下には太顛、閎夭、散宜生などの賢者が多く、子を想う親のように百姓を想い、その仁恵は天下に轟き国富も豊かであった。
紂王は西伯に怒れども聖人である彼を恐れて殺すことはせず、牢獄に入れた。
西伯の長子伯邑考は嘆き悲しみ、都へ向かい「私の父は西方の伯で諸侯や仁徳を評する。今、大王に逆らって捕らえられ、ここ数年の間は父の苦しみを想って、願わくば私が父の代わりに捕らえられ、父が国にお帰りになったならば、死んでも恨みはしない」と嘆き訴えた。
感心した紂王は妲己に西伯を赦して国に返すべきか聞いたが、妲己は「彼は琴に秀でているというので、これを聞いてみたいと思います。試しに一曲弾かせ、その後西伯を赦してはどうでしょう」と言って琴を持ってこさせた。
すると、伯邑考は「父母は病の時は琴を弾かなかった。今父が捕らわれているのを遠くから来てこのように願い出ていると言うのに、どうして琴を弾けようか」と言った。
紂王は「皇后がそなたの雅曲を聞きたいと言っているのだ。辞退しなければ父を帰してやろう。今辞退してしまうのは父に悪いだろう」と言ったので、伯邑考は仕方なく琴を弾き、紂王を諌める心を訴えた。
よい君主は徳を敷き、仁を行うものだ。炮烙の刑や蔓盆の刑で民を苦しめ、万民の精血で酒を浴びる。百姓の脂膏で肉を林に懸ける。空に向かって鹿台の財が満ちる。私が願うのは、帝がよい政治を行い天下が平らかになることだ。」
曲を聞き終えた妲己は、伯邑考の詩は紂王を非難するものであるため鉄を加えて罰せよと言った。
伯邑考はこれを嘲笑い妲己の顔につばを吐いて「お前が帝を誘惑して諸々の悪行を為し、私の父を苦しめ殺そうとしているのだ。私が父のためなら命も惜しまない。惜しむべきは、湯王の代から二十八代に渡り続いてきた天下が遠からず滅んでしまうことだ」と罵った。
琴を妲己に投げつけると、妲己は早々と逃げていった。
紂王は大いに怒り、臣下に伯邑考を斬り殺させた。
妲己が言うには「聖人といわれる西伯に子を食べさせて、その事を知らせたらどんな反応をするか試してみよう」と。
「伯邑考の肉を塩漬けにして西伯に与え、これを知って肉を食べないならば先智の聖人なので処刑しましょう。知らないで食べないならば常人なので赦して国へ帰しましょう」と。
紂王はその言葉に従い、伯邑考の肉を塩漬けにして使者を羹里の囚獄に遣わせ、西伯に与えた。
西伯は国を出る時、易によって七年もの厄があることを知った。そのため、たとえ都で自分の身にどんなことが起こっても厄年が終わるまでは驚いてはならないと自分を戒めていたが、伯邑考は父が苦境に立たされていることを知ってついに都に至り、災いに遭ってしまった。
この時、囚われの身であった西伯は一日中易卦を占っていた。ある日、怪しげな鳥が来て庭で鳴いていたので妙だと思い占ってみると、長子を失う兆しとの結果が出た。「これは、伯邑考が私の罪を赦してもらおうと都に至り、妲己の謀に陥れられてしまったのだ」と黙然と息子の身を案じているところに、紂王の御使が来た。近々国に帰らせてくれると聞いて鬱憤を癒やしているところに、肉を賜った。
西伯はそれが伯邑考の肉だとわかったが、これは自分を試す謀だと察してその肉を食らい尽くして御使を帰し、紂王はついに西伯を赦した。
十人の美女と金帛を紂王に貢ぎ、西伯の厄は終わった。
それから年月が経ち、散宜生ら賢臣が取り計らうと紂王は大いに喜び西伯を召して、「そなたは西方の伯として徳政を行っているゆえ殺すのはもったいない。ここに留まることすでに7年になるので、帰国させる。」と西伯を帰すと、君臣は初めて安堵の思いにかられた。
西伯は伯邑考のことを嘆き悲しんだ。徳政を施すことは限りなく国を豊かに治めていたので、紂王をよく思わない殷の民衆はみな祇州に赴き西伯に従った。西伯に従うものは次第に増えていき、ついに天下の三分の二を占める強大な勢力となった。
呂子牙奇術、樵夫の難を救ふ 西伯熊を夢見る
こうして西伯候は虎の口を逃れたような気分で帰国し仁恵を施すのみであったため、刑罰を定めずとも民は進んで善行に励み、たまに罪を犯す者がいたら土で牢屋を作り、木偶人形を用いて獄吏とした。
皆その徳にひれ伏し、国を去るものはいなかった。
ある時、災祥を観ようとして城の外に高い望楼を建てると、夫役の百姓たちは父母のために働くかのように勤しみ、この建物を霊台と名付けられた。その下には園を拓き鹿や鳥を放って、沼を掘って魚や亀を入れて遊覧の備えとした。
諸臣を集めて酒宴を開き、民へ金銀を与えた。
「楽しいことが好きなのは下々の民も変わらぬ。身分の低い者であっても、ここで遊んでよい。私だけが楽しむためのものではない」と言う仁徳の深い君主であったため、民は西伯を慕い自然と威風も盛んになり、諸臣もみな殷の都に攻め入って紂王を滅ぼし、七年の苦難と伯邑考の仇を討てば万民の憂いも救われるだろうと進言したが、西伯はこれを叱り「たとえ君主が非道な者であっても、臣下ならば職務を遂行しなければならない」と承諾せず、紂王を重んじて仕えることに専念した。
ここに、姜尚子牙という者がいた。
後の太公望であり、夏の禹王の代に四獄の笛裔であり、先祖の呂の領地の名を取って”呂尚”と名乗った。現在は殷の民である。
この男は鬼神を使役し雲を呼び雨を降らせる奇術に長け、智略に富んだ者であったが、時代にそぐわず齢七十にして家も貧しかった。
紂王の暴政を見た彼は家族を連れて東海の浜辺に移り住み漁猟で生計を立てていたが、西伯の仁政の噂を聞いて祇州に移り、山奥にある磻渓に釣りをして隠れ住んでいた。
夫の貧しさに苦しんでいた妻・馬氏が離婚しようと願い出ると、子牙は「私が八十になれば、諸侯に上るだろう。今しばらく耐えれば、暮らしも豊かになる」と答えた。
またある日、釣りをしているところへ昼の鰈を持ってきて、馬氏は密かに魚が釣れるか見ていると、一匹の魚も釣れなかった。子牙が針を治めているのを見ると、なんと針に餌も付けていなかった。怒った馬氏は
「今まで時勢に合わず仕方なく貧しく暮らしていたと思っていたのがばかだった。今日このありさまを見て、なんて落ちぶれたのだろうと思うのは不思議なことではない。餌を付けず、針も曲げずにどうやって魚を釣るのか。日に日に生活は苦しくなって餓死してしまうかもしれないと思いながら、時間が過ぎ去るのを待てというのか」と呆れていると、子牙は
「女にはわからない。私が釣ろうとしているのは魚ではなく王侯だ。西北に祥雲の端が姿を現したから、三年以内に明王がここに現れる。富に恵まれるのを待とう」とあれこれ慰めたが、
「早く故郷に戻って親の面倒を見たい。餓死はしたくない」と袖を払い除けて去っていったので、妻の望みを尊重して追わなかった。
子牙が岐州に入り隠れ住むところを探していると、一人の木こりに出会った。この辺りの地理を問うと磻渓の地を教え示したので名前を尋ねると「武吉」と答えた。
いつものように磻渓で一日中釣りをしていると、偶然武吉が尋ねて来たのでそのまま釣りをやめて草の庵に連れて行き、「何の用だ」と聞けば、「暇だからこの辺りに親しい友人を訪ねて来た。ついでに子の庵に来たのだ」と言った。
二人は酒を交わして語り合ったが、子牙は武吉の顔を見て大いに驚き、凶相が見えると言う。
武吉が、どんな凶事が起こるのか教えてくれと問うと、子牙曰く「他人を傷つけなければ、必ず他人に傷つけられる。黒気が天庭を障え、その兆しがはっきりと見えている」と。
それを聞いた武吉は「私は死んでも惜しくないが、家に年老いた母がいて他に面倒を見る者もいない。どうすればよいのだろうか」と。
子牙は笑って「死生と禍福はどちらも神のみぞ知ることだ。人間の力ではどうにもならない。けれども、もし何かあった時はまたここに来られよ。私が何とかしてお前を救おう」と。
武吉がひどく心配になって物思いに耽っている様子を見た武吉の母が何かあったのかと聞いても、母に苦労をかけまいと他の理由を言って凶相のことは話さず時が過ぎていったが、ある日採樵で城の中で売ろうとすると、門番が銭を取ろうとした。
武吉は「西伯の仁政で、このように城門を守らせているのは出入りを禁じるためで、商人から税金を取るためではない。まして自分はわずかな柴の売上で暮らす貧しい身であるのに、どうして銭を取り上げるのですか」と。
怒った門番は武吉を打とうとした。武吉は仕方なく斧で防御したが、誤って門番の眉間に当たり、一撃で殺してしまった。
城内は騒然として兵士を遣わし、たちまち武吉を取り囲んで西伯のもとに引き連れていった。
西伯が武吉を糾明すると、武吉は事の始終を説明した。西伯が言うには
「ああ、これは私の教えが至らなかったことによるものだから本来ならお前を許すべきなのだが、人の命は軽くない。死罪にはしないから三年の間牢獄にいなさい」と土牢に入らせた。
武吉が衛兵に引き立てられて牢に着くと、門を銷すことなく、監司も置かず、ただ木を切って刻んだ人形があるだけであった。ふしぎに思った武吉が理由を尋ねると、衛兵は「西伯の徳政では、罪人を縛る縄や監獄を利用しない。愚かな民の教えに値しないものであれば、土で牢屋を作って木を刻んで獄吏としている。罪人もその徳義を感じて脱走しない」と答えた。
武吉は「西伯の仁恵はこのようなものだったのか。私はたとえ死んでも恨みはしないだろう。けれども年老いた母がいて、面倒を見る者もいない。三年の間どうしたものか」と涙を流して嘆き悲しんだ。
衛兵は憐れんで
「お前に母がいて兄弟もいないのであれば、お前の母を殺したくはない」と再び武吉を召し出し、
「お前は家に帰り母を養う方法を考えてから、またここに戻ってこい。十日以内に来なければ、兵士を集めて搦め捕り、死刑にする」と言った。
武吉は拝謝して家に帰ると、武吉の身に起きた事の一部始終を知っていた母は涙に暮れていたところに武吉が帰ってきたので怪しみ、
「どうして家に帰って来れたのか」と。
武吉は西伯の仁徳のおかげだと母に告げると、母はむせび泣き
「上の人の慈悲がこのようにすばらしいものであるなら、お前は早く戻って罪を償いなさい」と。
武吉が泣きながら「私が囚われの身となったら、誰が母の面倒を見るのだ」と言った。
母が言うには「私は織紡の仕事をして生活するから、心配しなくていい。早く戻りなさい」と言ったけれども武吉はこれに従わず、子牙のもとに行き相談しようとその日のうちに磻渓に行って子牙に対面し、どうすればいいか尋ねると、子牙が言うには
「前にも言ったが、人の生死は天の定めるところだ。人の力ではどうにもならないと言えども、私はそなたの教え蒙りここで暮らしている。恩を返したい」と。
ここにひとつの術がある。石室の中に置いて一個の壇を構え、武吉の背丈の分だけ草を束ねて人形を作り中に置く。五星二十八宿をそれぞれの方位に布いて祀り、燈を灯し髪を乱して素足になり、壇に向かって静かに呪文を唱えて、口に清水を含んで燈を吹き消し、西方に向かって左手を上げて一度手招きをすると、俄に黒雲が立ち込めた。
やがて武吉の星辰を覆い隠し、その人形を渭水に投げ入れ祀って武吉に、
「七日間家に籠れば、此度の難を逃れられるだろう」と言ったので、武吉は大いに喜び家に籠もった。
十日が過ぎても武吉が来なかったので西伯が怪しく思っていると、群臣はみな武吉を捕らえて首を刎ねようと唱えた。
西伯が卦を以て言うには
「天の数を調べたところ、武吉は川に身を投げて死んだ。再び探しに行くには及ばない」と。
そこへ役人が来て訴えるには、
「渭水に死人が流れてきたので調べたところ、解放した木こりの罪人が乱杭に引っかかり死んでいた」という報告があった。
西伯は岐州にいたが、ある夜、夢に一匹の熊が現れて東南から殿中に飛び入り座の傍らに立ったのを、群臣たちが拝伏する光景を見て目が覚めた。
翌日、夢の意味を群臣に聞いたが、誰一人わかる者はいなかったところに散宜生が進み出て言うには、
「この夢は、主君が賢人を得る兆しです。」と。
西伯がなぜそう思うのか問うと、
「熊は元より冥獣で翼を持ちますが、その賢さを知りません。御座の傍らに立って百官が拝伏するのは熊が諸臣の上に立ち、主君の側にいるものです。これが東南から飛び入るのは、賢人がまさにその方向から現れるということです。東南へ赴き、賢者をお求めになってください」と。
西伯は「夢の中でのできごとなど、本気にしなくてもよいだろう」と言ったが、散宜生が言うには
「昔、殷の高宗は天神から良い粥を賜るという夢を見て、その夢が賢人の現れる兆しだということで国中を探してついに賢人を得て側近とし、天下をよく治め、湯王の社は良く、中頃衰えたのを再興したのです。夢を軽く見て賢人を棄ててはいけません」と。
西伯は「そなたの言うことはもっともだ」と大いに喜び、その言葉に従って軍票を遣わし、九龍の車を引かせて数十人の武官を従え賢人を探し求めた。すでに洛陽の渓の辺に至った。
西伯 子牙の庵を訪ふ 子牙を太公望と改め軍師に拝す
今日、西伯が狩り出かけるのは猪鹿を求めてではない。王者に仕える賢人を探すためである。
ただまっすぐに渓に沿って進んでいくと、三人から五人の漁師あるいは釣師が磐石の上に休んで竿を弾き、石を叩いてそれぞれ詠んでいる詩を聞いていると、その詩には紂王を非難する言葉が多く見られたので、辛甲という武将を遣わせて「何者だ」と尋ねると、「俺たちはこの辺りに住む貧しいもので、釣りを生業として暮らしている。将軍様はどこからおいでなさったのですか」と。
辛甲が「西伯様と狩りに来ているのだ」と言うとみな驚いて跪き、拝伏した。
西伯は「そなたらは釣りを生業としているのに、風雅な詩を詠むではないか」と。
皆が伏して答えるには、
「ここから遥か西へ行くとおじいさんがいます。世を捨てた賢人で磻渓に隠居し、釣り糸を垂れること数年、詩を作って私たちに教えてくれるのです」と。
西伯は群臣の方を向いて、
「賢者はきっとそこにいる。里に君子がいれば賤しい民まで変わるという。今、渭水の漁家はみな清く高い風が吹いていると感じながらしばらく道を歩いていると、鋤で耕し、笛を吹いて互いに詩を聞きあい、鳳凰も麒麟もなきにしもあらず、龍が興れば雲が出て、虎が出れば風が生まれる。殷の湯王も三度頭を下げて頼んだからこそ伊尹という賢人も現れ、大きな才能を抱きながら山奥に隠れ住んでいた。古くより賢者は貧しくとも賢君に出会えば富に恵まれるという」と。
西伯はため息つき、群臣に向かって
「この中にこそ賢人がいる。訪ねてみよ」と命じたので、畏まって数人を連れてきた。
西伯は車から礼をして、賢明の君子に会えるようにと願ったが、目で見ただけでは判断できなかったので、「私たちは貧しい者です」と拝伏する人々にその詩の素晴らしさを問うと、「渭水をしばらく進むと賢いおじいさんがいます。私たちにこの詩を教えてくれました」と言った。
西伯が「そのおじいさんはどこにいる」と聞くと、この渓に沿って進むように言われた。
「その人は釣りをしますが、釣り針を曲げず、餌も付けず、魚を釣りません。これは王侯を釣るためだと言って、いつも磻渓の岸の口にいます」と言ったので、西伯は大いに喜び車に戻って進んでいったのだが、おじいさんの姿も見えなかったので、車を停めて休憩をしていた。
すると、岩山の後ろから一人の木こりが現れ、斧の柄を叩いて詩を歌いながら山を下っていった。
その詩の意味は、
「磻渓に隠れ住む賢者がいるのを世間は知らない。もし訪ねてくる君子がいたなら渓の傍らの磯辺で釣りをしている」というものだった。
西伯が見ると、以前囚われていた武吉だったので、側近の武士がこれを引き連れて西伯の車の前まで来ると、西伯は
「川に沈んで死んだことにしていたのに、嘘をついて刑を逃れたのか」と。
武吉は頭を地面に擦り付けて
「嘘ではありません。この辺りに壺人の漁翁がいました。陰陽の理に通じ、兵法の奥義を究めていました。私はこの人と水魚の交わりで、今日まで生きながらえて老いた母の面倒を見ていたのです。どうかお許しください」と言うと西伯は驚き、
「そのおじいさんはどこにいるのだ」と聞くと、「もし会いに行くのであれば案内します」と答えたので大いに喜び、罪を許して案内させ、磻渓にたどり着いた。
子牙は三日前、西の方岐州の空に一道の雲が渭水に向かって行くのを見て、賢君が来た印だとわかり敢えて釣竿を岸のほとりに捨て置き、奥深くに隠れて出ていかなかった。
武吉が西伯たちを連れて石室に着くと、壺人の童子が出迎えた。西伯の数十人の従臣とともに歩いて庵に入り、「おじいさんはあそこにいるのか」と問うと
童子は「今朝、薬を採りに山奥に行きました。三日後には帰ってきます」と答えた。
西伯はため息をついたが、「賢人に会えない方が不幸だろう」と筆を取って詩を書き、おじいさんの机の上に置いた。
その詩の内容は、
宰割山河布遠猶
大賢抱負可充謀
此来不見垂竿老
天下人愁幾日休
散宜生が言うには、
「昔、湯王が伊尹を招く時は使者を三度遣わしてやっと現れたといいます。我が君も賢者に会おうと思うならば、志が誠であると尽くさなければ会うことはできないでしょう。ここはしばらく群臣とともに三日間物忌して身を清め、またここに来てはどうでしょうか」と。
西伯は善きかな善きかな、と草の庵を出て車で帰った。
その後、三日間の物忌と沐浴を経て再び向かおうとするところに辛甲が進み出て、歯を食いしばって言うには
「我が君は西方諸侯の総領としてその名は天下に聞こえ、国土の広さは殷に劣らず文武に秀でた臣下もいます。
ですから、老いぼれの漁夫に逢うのであれば一通の手紙を送って召し出してはどうでしょうか。自ら赴かずとも、兵士を遣わして捕らえて連れて来たらいいでしょう。どうして父母のように奴を丁寧に扱うのですか」と。
西伯は笑って、
「そなたは間違っている。昔の人も君子の郷に入る時は車を下りて挨拶し、通り過ぎることは賢人を敬う道だ」と言ったので、辛甲も平伏して謹んで物忌した。
こうして殷の紂王十五年辛酉九月、西伯候姫昌は再び子牙の庵を訪ねようと数人の文武に秀でた臣下を従え車に乗って出発した。
時に、武吉を武将の列に加え、賢人が求める篤い志を表し先頭に立って渭水へ進んだ。
子牙は、西伯が狩りのために来たならば賢君の精神はないだろうと隠れて出ていかなかった。
西伯が置いていった句を見て、その志の篤さを感じて三日後また来るだろうと磻渓で釣りをしていると、果たして西伯たちの人馬が北からやって来た。
子牙は磐石に座って竿を垂れて動かなかった。西伯の駕籠が近付いてきたので、車から下りて渓の辺りに近付いてその人を見ると、子供のように額が広く、白い辮髪は鶴の毛のようであった。凡人の顔ではなかった。挨拶をしようと思ったが、竿を垂れて振り返らず石を打って歌う。
西風起また白雲飛ぶ
歳既に暮れぬまた将焉為
西伯は恭しく石の側に立ち、子牙が歌い終わるのを待って群臣とともに挨拶した。
子牙は、その謹しみ敬う気持ちが誠であるのを見て急いで竿を投げ、西伯を助け起こし礼を返して拝伏した。
「私は西方諸侯の司、姫昌である。
今は、紂王が悪政を行い天下の民を殺し尽くす勢いだ。私は民を救いたいと思っていたが仁徳は薄く智恵も足りなかったので、民の願いを叶えることができなかった。今、あなたは道高く徳の重いことを聞き、もし私を助けてくれたら天下万民は救われるだろう」と言うと、子牙は
「私は浸辺の小民で、深謀遠慮もない。けれどもあなたがこうして訪ねて来たのを見て、忠義を尽くそうと思いました。今、あなたは仁徳を民に施し国富財豊にして天下三分の二を治めて群臣も多く、殷を滅ぼそうと思っています。しかし、まだその時ではありません。紂王は非道な帝とはいっても、湯王の恩沢は未だ尽きていません。しかも、殷には百万もの兵がいます。まずはもっと徳政を布いて下々の民を養いましょう。紂王が民を陥れる非道を改めなければ、時を待って天に向かい、人に応じる戦を出して殷に向かえば、攻めずとも勝てるでしょう」というと、西伯は大いに喜び教えとした。
「あなたの名前は何というのですか」
子牙は答えて、
「姓は姜、名は尚、字は子牙飛熊といいます。
紂王の残害を避け、西伯の政は老人を憐れむと聞いて、ここに従います」
西伯はこれを聞いて諸臣の方を振り返ると、
「飛熊の夢を見たのが真になった」と感嘆した。
「私の先祖太公は、かつて数十年後に聖人が現れて国を興すと言い、太公の子を望んで久しい」と言い、名を太公望と改めた。太公望は西伯の車に乗って帰り、吉日を選んで鎮国大軍師となったが、その時すでに八十歳になっていた。
その後、西伯は病に臥せり危篤になった。よって、世子姫発(後の周の武王)を託し、世子にも「私に仕えるのと同じように太公望にも仕えよ」と言って、ついにお亡くなりになった。
御歳九十七、文王の諡を賜った。
太公望、雲中子に遇ひて照魔境を撃つ 雷震が伝
西伯侯がお亡くなりになったので、太公望は西伯の長子・姫発を立て位に就かせた。
その頃、殷の紂王は妲己とともに昼夜淫楽に耽り、昼は寝て、夜は歌舞酒宴を開き、長夜の宴といった。
悪行が増長していったので、民が国を去って武王のもとへ帰すと、妲己は「刑罰が軽いからこのようなことになるのだ」と言って四方に逃げようとする者を捕らえて酒の池に落とし、蟇盆に投げ込んで皆殺しにしたので、民の泣き叫ぶ声は天地を震わせた。
箕子は紂王の叔父で賢人であったため紂王を厳しく諌めると、紂王は箕子を捕らえて南牢に入れてしまった。
兄の微子も諌めたが聞き入れられなかったので逃げ去り、続く比干も強く諌めると、妲己が「聖人には七つの心の痣があり、諸々のことを覚えると聞いたことがあります。比干が聖人であるか胸を開いて確かめてみてはどうでしょう」
紂王はついに比干を殺し、胸を見た。親族の賢者でさえもこのような始末であったから、紂王を諌める者はいなくなり、悪行は増長していった。
妲己は心の中で悦び、「人類を滅ぼす時が来た。我が願いを成就させよう」と心にしめて毎日人の命を奪うことを勧めた。
その頃、太公望は岐州から天を見上げると殷の運数も尽きてしまったので、「殷を滅ぼしましょう」と武王に申し上げると、
「私は元より殷の民で岐州で人に仕えることは道に反することだと思っていたけれど、明君に招かれたのを辞するのは天命に背くと思ってあなたの父西伯侯の志を誠に感じ、身を投じて愚忠を尽くす所存です。今、殷の運数が尽きようとしています。私はあなたを助け、元いた国の君主を討つのは道に反することとは言えども、その天下は私のための天下ではなく、万民のための天下。あなたもまた、殷の臣下として紂王を討つのは謀反に当たるけれども、殷の徳はますますなくなっていき、民を陥れることここに極まれり。今紂王を討ち、天に代わって民を救いましょう」と。
武王はこれを了承し、吉日を選んで挙兵することを決めた。
また、太公望は
「終南山の雲中子仙人は妲己を倒そうとしたが紂王は彼の言葉を信じなかった、この人のもとを訪れて心の内を明かそう」と思い、一人で密かに出発し終南山に登った。
松柏枝を交えて木々が生い茂り流れる泉が石を洗い、白露が樹の上から落ちる風景に勝るものがあろうか。
尖った岩を削るように雲を開き霧を払い、数百歩行くと竹が茂り瑞草奇花籬を巡り、悶々としながら袖を薫風に当て裳を翻し、百篠の飛泉天より降り、洞門をうろうろしていると飛閣湧楼が甍をつらね鑿を犯し、日の光を覆っていた。
まるで仙境のようだと感嘆し、太公望は洞門に寄りかかり誰かいないか訪ねると、子供が出てきて
「誰だ」と問う。
「私は呂尚、先生にお会いしたい」と言うと、子供は太公望を連れて階に着くと、雲中子がゆっくりと歩いてきて出迎えた。
その顔は世俗から離れ道服を着て、手に如意を持って礼をして座っていた。瓊台文机の上に書簡が積んであり、雲中子が言うには、
「名前を聞こうと思ったが、まだ顔も見ていなかった。今そちらの方を向く」
太公望が言うには、
「先生の名を聞いて久しくなります。その下風に立って高論を聞きたいと思いますが、家は貧しく生活するために暇もなく、八十年の年月がむなしく過ぎ去りました。けれども殷の天下・湯王の恩沢が尽きようする時に紂王は妲己に溺れ、民衆は罪なく罰されています。私もまたこれを恐れ、国を出て渭水の磻渓に隠れて時を待っていると、西伯が自ら駕籠に乗って頭を下げて愚老に礼をし、岐州に連れられ、側近にされました。西伯の治める国土は安泰で、武王も仁徳があります。愚老を大軍師に任ぜられて近い内に紂王を討ち取って万民の苦しみを救おうとすれども、殷には百万もの軍勢があって容易に攻められないばかりか、神弁不測の妖婦が傍らにいて、機を察して蜜を知ります。西伯と言えども捕らえられ、箕子比干もみな紂王に苦しめられました。先生は妲己が妖物であると知って紂王を諌め、これを除こうとされましたが、いち早く悟った妲己によって口を塞がれてしまいました。今、私がこの大義を背負うにあたって先生のお言葉があれば明教を受けようと思いひそかに来た次第です」と言うと、雲中子は頷いて
「足下軍学兵法の党略においては、その奥義を極めれば言うことはない。私はこれをよく知っている。また、天を見ると殷の運数は尽きて変革の時が来た。武王の大軍が一斉に押し寄せれば、戦わずとも殷を滅ぼすことができるだろう。けれども足下誠心を以て自分に問う。贈るべきものがひとつある」
錦の袋に入っていた一個の鏡を取り出し太公望に渡して言うには、これは照魔鏡と言って、唯一無二の宝器である。知慮の及ばない時に使うと真実が映し出される。隠すべし、隠すべし」
太公望はこれを三度見て感謝した。
「先生は愚老の丹心を捨てず、希代の宝鏡を授けてくださった。これは愚老の幸せではなく、万民の幸せです」と拝辞して別れようとしたその時、雲中子が太公望の袖を引っ張って言うには
「私はまた一人の豪傑に助太刀させよう」と童子に呼んでこさせると、身の丈は九尺余、羅刹のような大眼潤面、真っ赤な色で連環に鬱金皮の鎧を着て、百花袍の直垂に獅子の帯弓矢をかけ、手に紫金色の鉄の兜を携え、片手にはぐわ棹の方天戟を提げ、腰に開山斧を付け、松紋桐室の剣を佩き、連腮巻毛は左右に分かれ、そのあり様は鬼神のようであった。
雲中子がこれを指して言うには、西伯の知っている者であるという。
太公望は驚いてその理由を問う。
雲中子は答えて、
「紂王が西伯を召し出した時、燕山の下でにわかに大雨と雷が起こり、電光燦爛として林の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。西伯は急いで人を遣わし見て来させると、古墳の中に雷が落ちて棺は砕け、女の屍を破って赤ん坊の泣き声が聞こえた。取上げさせて見ると男の子で、生まれつき神聳異骨節奇稀の持ち主であった。この子は普通の子供ではなく、数里歩きながら乳母を尋ねて召させようと思っても見つからず、私もたまたまそこに至って西伯候に出会った。私は兼ねてより殷の都に妖邪があるのを知って紂王を諌めたが聞き入れられず、遍く天下に遊行して妖邪を倒せる者を探し求めていると、ある夜、ひとつの将星が落ちて、燕山の下に下るのを見て尋ねに行くと互いにふしぎなことだと語り合い、驚くばかりであった。『この子が大きくなったら殷の妖邪を祓うべきものであり、民間の者に育てられるべきではない』と私に預けひそかに養わせた。山中で育って大きくなるにつれて武器の使い方を教え、軍法を教えると一を聞いて十を悟り、しかも正直で実義を重んじ、剛力で、どんな男でも勝てないだろう。私が喜んで時が来るのを待っていると、今殷の歴数が尽きて聖君が西方に起こり、近いうちに殷を攻める兆しが天に現れたので、その時はこれを軍列に加わらせようと準備していたのだ。」と語るのを聞いて、太公望はため息をつき名前を聞くと、西伯と別れる時に「近く会うことがあれば、印とするために名前を付けよう」ということになったので、「雷によって子を得て、震は長男の卦なので雷震という名にしよう」と語ると太公望は限りなく喜び、出陣を近日中に定める。童は国に出て待つように礼謝して山を下って帰った。
雲中子は元は姓を夏、名を熊、字はてう里、道号を我鬼先生といった。終南山に隠れて気を練り、性を養って、奇異な方術を使い、四方の民は彼を尊び山深くに居を修理することは広大であった。
山に住んでから数年、ついに仙人となり、雲中子と呼ばれた。
周の武王、殷を伐って亡ぼす 太公望妖狐を斬らしむ
周の武王は殷の紂王を討とうと城南の郊野に御車を出させ、大いに天地を祀り、太公望を東征の大軍師として軍を統率させ、辛甲尹逸祁宏太顛閣沃南宮括をはじめとして一騎当千の武将を従え、御弟・姫旦の二人には国を守護させて、幼い御弟・姫叔度はお供に加える。
こうして岐州を出発し、雲中子仙人と約束していたように雷震を待たせてかくかくしかじかのことを話すと、武王は
「西伯が拾い上げた子は私の弟だと思って武将の列に加えれば殷の都に至るまでも戦功をあげるだろう」
衆軍は勇み進んで武王の乗った駕籠が洛陽に至る頃、道の傍らに二人の兄弟が拝伏していた。
武王が誰か問うと、伯夷叔斎と名乗った。
「今、紂王は非道といえども臣下が主君を討つのは忠義に反すると思い、殷の非道を避けて西伯の徳を慕いこの地に来た。しかし、今あなたが兵を率いて殷を攻めると聞いて一言諌めの言葉を送ろうと、死を覚悟してここに来た。願わくは御車を帰され、御父西伯侯の盛徳を汚しなさるな」と。
側近は大いに怒って主君の駕籠を支え、無礼を為す曲者を搦め捕ろうとするのを太公望が
「これは義の者である」と助けて逃した。
その後、周の天下となった時に「殷の民として周の粟を食べるのは義にあらず」と言って兄弟は首陽山に籠もり、蕨を取って食べていたが、ある人が難儀に思って「この天下において、周のものでないものはない。首陽の蕨も周に生えているのだ」というと、兄弟はついに餓死してしまった。古今まれにみる義士である。
殷の都には武王の大軍が風の矢を放つように、水の砂を衝くように軍を斬り、武将を捕らえ、道すがらの府城を悉く攻め落とし、はやくも孟津河を渡り、注進する馬は櫛の歯を挽くかのようだ。
諸臣は非常に切羽詰まって紂王に奏し、軍を出して防戦しようと思ったが、紂王は妲己を愛するばかりで淫酒をして昼夜快楽に耽り、耳にも聞き入れず、佞臣を費中をはじめこの事を隠して奏さなかった。
忠臣が諌めれば処罰されてしまうので、不忠不義でなくとも止むことはなく落ち失せ、あるいは周へ降参し、残って戦おうとする者がいても指揮する武将がおらず、薄氷を踏む危うさになったのは言うまでもない。
すでに国々の諸侯は呼ばれずとも武王の軍に加わり、大軍が殷の都に攻め近付くとともに、ようやく費仲が紂王に奏して鐘十才・史元格・姚文亮・劉公遠・趙公明の武勇に勝る五将を出して防戦させるが、紂王はひたすら妲己の笑顔に心を奪われ軍を指揮せず、五将もたちまち太公望の策略に陥り悉く戦死した。
都に攻め入ると紂王もさすがに驚いて崇慶彪を総大将として、彭挙彭・矯彭執・薛延陀・申屠豹を副将として防戦させたが武王の軍勢が強くてついに敗れ、妲己が呪文を唱えると悪鬼魔王が次々と現れ、雲を呼び風を起こし、霧霞をたなびかせて四方を覆い、白昼を闇となし大雨を降らせ、石砂を飛ばして防戦しようとしたが、元よりその顔を知っていた太公望は口の中で呪文を唱え、これを消滅させた。
殷の大軍に敗れ紂王自ら牧野で戦ったが、敵わないと思って城中に引き入るが武王の大軍が潮のようにかさみ来て逃げられない。
宮殿に火を放って焼き払い、その隙に自ら鹿台に上り、宝玉を身にまとって火の中に身を投じて死んだ。
成湯王、姓は子、名は履、字は天乙黄帝の孫で、夏の桀王を滅ぼし位に就き、殷の天下を興してから六百四十四年二十八代に渡って紂王の代で滅びるのは、是非もない。
しばらくして、太公望は佞臣・費仲・妖妃妲己を取り逃すなと摘星楼に入ると、妲己が一陣の怪風を起こして走り去ろうとするところへ、先の太子・殷郊は紂王の后の子として生まれたが、后は妲己の奸計によって紂王に殺され、自分は配流されてしまったので、今武王に降りて軍に従っていたが、妲己は母の仇だと走ってきて斬ろうとする。
妲己は金光燦爛として冷風が迫ってくるのを雷震が飛びついてこれを捕らえ、費仲を生け捕ってともに太公望の下知を待っているところへ
「紂王の暴悪はみな妲己の仕業である。軽々しく誅すべきではない。城外の市に出し人々に見せしめ、処刑せよ」と指揮した。
斬者が妲己の後ろに立ち回り剣を振り上げ首を打とうとすると、振り返って太刀取りを見て笑みをほころばせるさまは、何に例えられようか。
容色海棠の露を帯び、楊柳の春風にたわむれる粧いを見て心もそぞろに恍惚と気を奪われ、斬ることもできずに茫然としていた。
「何とかして助けてやろう」と猶予を与えると、太公望は「なぜ早く斬らないのだ」と罵る声に驚き、また剣を振りかざすと、妲己は再び振り返って笑って見せると太刀を取って討ち取ることができない。
茫然としていたので太公望は大いに怒り即座に斬者を処刑し、別の斬者を向かわせると畏まって立ちかかるが、これも同じく妲己の容貌の麗しさに魅せられ、このような美女が天下にいただろうかと思い、「無惨に討つべきではない」とためらったので、太公望はその斬者も処刑した。
三度このようにしたがみな討ち取ることはできず、かえって自ら誅戮を受けて太公望は何も言えなかった。
やがて、雲中子から受け取った照魔鏡を錦の袋から取り出して
「かつて妲己は妖怪であったと聞く。これを以て真の顔を映し出し、誅せよ」
とその鏡を妲己の顔に向けると、ふしぎなことだ、今まで美しかった妲己が白面金毛九尾の狐に変わり、鏡に映っているのを見て妲己は慌て驚き、巽に向かって一息啼くとにわかに黒雲が起こり魔風が吹いてきて、霧が立ち込めたちまち暗闇に覆われ、砂石を飛ばして九尾の狐となり、雲に乗って逃げようとすると、太公望が声を上げて
「誰か、この妖狐を斬れ」と叫ぶと殷郊が飛びかかり、宝剣を雲めがけて投げつけると狐に当たり、大地にどうと落ちた。すると、積雲はおさまり空も晴れ、風も止み霧も消えて太陽がきらきらと輝いた。
落ちた狐は、雷震が飛びかかって斬り、三截とする。
さてまた費仲は主君を惑わし国を滅ぼす賊臣だということで、へそを燃やして焼き殺した。
本当に、太公望がいなかったらどうやって悪狐を退治できただろうか。天晴れ名誉なりと感じない者はいなかった。
太公望はなおも
「この妖物は死してもその霊が祟りを為すだろう」と狐の屍を瓶に納め、これを鎮める地を探し求めると、夏の桀王の代に褒城という神人が二つの龍となり、宮廷に降りて桀王に言ったのは
「私は褒城の二君だというと桀王はこれを恐れて倒すと龍は泡を吹き、その精気を箱に納めて殷の世にこのような怪物を宮中に置いてはならないと郊野に埋めてその場所を記し、後代まで開かないように戒めた」
その地の傍らを一丈余り穿ち瓶を埋めて土で覆い、その上を石で固め、さらに一堆の碑を建て太公望自ら一行の銘を書いて彫刻する。その句はこうであった。
丁未五回 壷括自解 八九之後 幽室竟乱
殷が滅びたのは日本地神第5代日子波限建鵜草葺不合尊の即位より八十三万五千五百八十年丁未年の狐の星霜を経て滅ぶまでおおよそ八百億二百三十五万六千五百十二の余りを超えた。
殷を滅ぼした武王は帝位に就き、国を周と改め鎬に都を建てた。
この度は大いに諸侯を封じ、太公望の軍功は大きかったので、齊の国を賜り侯となる。
ここにおいて太公望は錦繍を身にまとい驢馬の車に乗って、大勢の臣下にかしづかれて国に入った。
この時、別れた妻の馬氏が非を悔やむのは限りなく、車の前に出て拝伏し「罪を許しもう一度妻にしてください」と嘆いたので、太公望は羽扇を携え悠然と座りにっこりと笑って、
「私は今年八十歳にして、出世の時が来た。これは私が釣り針を曲げず、餌を付けずして齊の国千里四方の地を釣り上げることができたので、お前の願いはもっともだ、器に水を盛ったので来い」と言ったが馬氏はその意味がわからず畏まって取りに来る。やがてその水を地にこぼさせ、
「この水が元のように器に入ったなら元の夫婦に戻ろう」と言い捨て、ゆっくりと車を押させて齊の国に入った。これを「覆水再び盆に返らず」という。
婦人は貧しいからといって賤しむべきではない。
白面金毛九尾の狐は一度退治されたとはいえ、なおその魂魄は残って一個の狐となり再び仇を討とうとしたが、当時周の武王は聖人にして群臣や賢人も多く、万機の政は廉直厳重で一点の隙もなかった。
万民を撫育するのは御父文王から変わりなく、殷の世に引き換えて天下は安穏に治まり、諸人は自分の仕事に専念し、鼓腹して生を楽しみ、万々歳を唱えて祝った。
武王が即位した年の乙酉、御歳九十三歳にしてお亡くなりになった。
太子は名を誦、位に就いて成王と称した。
叔父の周公旦は聖人にして政道を支え成王を導き、相続いて賢君であったため、良く国家を保った。
これによって悪狐は周に降りること叶わず、天竺に渡り彼の国を妨げ魔界にしようと企む。