平安時代

醍醐寺五重塔の歴史―醍醐天皇供養のために建てられた塔

醍醐寺五重塔ができるまでの歴史

醍醐寺五重塔は朱雀天皇が醍醐天皇の冥福を祈るために建てた塔で、現存する京都最古の木造建築物である。
承平六年(936)に着工し、村上天皇の御代の天暦五年(951)10月に完成した。

内部には両界曼荼羅・真言八祖像などの壁画がある。

基本情報

醍醐寺

貞観十六年(874)に聖宝理源大師が上醍醐山において地主横尾明神のお告げを受け、小堂宇を建てて観音像を安置したのが始まりである。
延喜七年(907)、醍醐天皇によって薬師堂が建てられた。
延長四年(926)には釈迦堂も建てられた。

年表~五重塔完成まで

清涼殿落雷事件が起こり、醍醐天皇が体調を崩して亡くなる

延長八年(930)6月26日 清涼殿落雷事件

延長八年(930)6月26日、平安京内裏の清涼殿南西の第一柱に雷が落ちた。
この落雷事件によって醍醐天皇は心労が重なり、体調が悪化して皇太子寛明親王(後の朱雀天皇)へ譲位することとなった。

清涼殿落雷事件
清涼殿落雷事件―菅原道真の怨霊による落雷の祟り

菅公の祟り 清涼殿落雷事件 清涼殿落雷事件は、延長八年(930)6月26日に平安京内裏の清涼殿南西の第一柱に雷が落ちた事件である。この日は清涼殿において干ばつによる雨乞いの実施について会議が予定されて ...

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延長八年(930)9月22日 譲位の儀が行われる

延長八年(930)9月22日壬午、麗景殿において醍醐天皇から寛明親王へ譲位の儀が行われた。(『日本紀略』『醍醐寺雑事記』ほか)

延長八年(930)9月27日 太上天皇が病状悪化のため、右近衛府大将曹司に移る

延長八年(930)9月27日丁亥、太上天皇(醍醐天皇)は病状が悪化したため、右近衛府大将曹司へ移った。(『日本紀略』『醍醐寺雑事記』ほか)

延長八年(930)9月29日 太上天皇が崩御

延長八年(930)9月29日己丑、太上天皇は出家ならびに崩御した。(『日本紀略』『醍醐寺雑事記』ほか)

代明親王の発案によって五重塔建立が始まる

承平元年(931)11月5日 代明親王が五重塔建立を発案

承平元年(931)11月5日、中務卿代明親王は「醍醐寺には堂宇はあるものの、塔はまだない」と言って五重塔の建立を発案した。(『醍醐寺雑事記』)

承平六年(936)3月4日 藤原仲平が醍醐寺の塔の心柱六枝を送る

承平六年(936)3月4日、中務卿代明親王は内舎人藤原繁遠を遣わして「右大臣藤原仲平が醍醐寺の塔に使用する心柱六枝を採り送った。その内の一本は大臣が引き送り、残りは諸王に会して引かせよ」と言った。(『醍醐寺雑事記』)

承平六年(936)3月13日 五重塔に用いる心柱を運ぶ

承平六年(936)3月13日、典薬允淡海常邦を遣わし、人夫300人余りが醍醐寺の塔に用いる心柱を曳いた。大臣は四柱、代明親王は一柱、家の使は一柱を曳いた。(『醍醐寺雑事記』)

これより先に、右大臣藤原仲平が五重塔の木材を送ろうとしていたので、代明親王は心柱をまだ採っていないと回答していた。

承平七年(937)3月29日 代明親王 薨去

承平七年(937)3月29日壬午、中務卿四品代明親王が薨去した。(『日本紀略』ほか)

五重塔の建立を発案した代明親王の薨去によって、五重塔建立は停滞する。

承平七年(937)8月3日 五重塔の建立を中止すべきか話し合いが行われる

承平七年(937)8月3日、醍醐寺上座延賀法師が重明親王に「代明親王の薨去によって、造塔を仕切る人がいなくなってしまいました。中止したほうがよいのではないでしょうか」と請願した。
しかし、重明親王は「朱雀天皇が先帝の御願を果たすべきだが、中止するのは難しい」と回答した。(『醍醐寺雑事記』)

五重塔が完成し、供養が行われる

天暦五年(951)10月 醍醐寺五重塔完成

天暦五年(951)10月、醍醐寺五重塔が完成した。朱雀天皇はこの月に供養を行う予定だったが、女御藤原慶子の卒去によって落慶供養は延期された。(『醍醐寺雑事記』)

天暦六年(952)12月2日 醍醐寺五重塔の供養が行われる

天暦六年(952)12月2日甲申、醍醐寺五重塔の供養が行われた。(『慶延記』)

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