『池亭記』は天元五年(982)10月頃に、慶滋保胤が著した随筆である。鴨長明の『方丈記』などの大きな影響を与えた。当時の平安京の様子や新居での生活について、保胤が晩年に建てた新居について記されている。(『扶桑略記』)
当時の平安京の様子や新居での生活についてくわしく記されている。
『池亭記』現代語訳
都の様子について語る
私は二十年余りこのかた東西の二京のあちこちを見て回ったが、右京には人家が少なく、ほとんど幽霊が住んでいるのではないかと思えるような場所だ。出ていく人はいても他所から来る人はおらず、家屋においては、倒壊することはあっても新しく造られることはない。引っ越して来たとしても住めるようなところはない。質素な生活を厭わない者か、隠居生活を楽しみ、まさに山に入り田に帰るような者はそのまま住み着く。自分で財産を蓄え、商売をしようと志す者は一日でさえも住んでいられないだろう。長らく、ひとつの東閣がある。華堂朱戸、竹樹泉石、まことにここはよい景色だ。ここの主人は諸事情によって左遷され、建物から火が出て燃えてしまった。その門客の近所に住んでいた数十の家も、主人とともに去っていった。後に主人が帰ると言っても、従わなかった。子孫は多いが、長くは住まなかった。棘や茨が門に絡みついており、狐狸が洞穴でくつろいでいる。こういった状態なので、西京が滅びても人間のせいではないことは明らかである。
左京の四条より北、乾・艮の二方は、貴賤の区別なく大勢の人々が群れ集まる場所である。高い家は門を並べて堂を連ね、小家は壁を隔てて軒がひしめき合っている。東隣の家で火事があったら、西隣の家は火が燃え移ってくるのを避けられないだろう。南方の家に盗賊が現れたら、北方の家は流れ矢を避けがたい。
南阮には貧しい人々が住んでおり、北阮には裕福な人々が住んでいる。裕福な者はいまだ徳を積んでおらず、貧しい者はなお恥がある。権勢を誇る家の近くに住んでいる者は、家屋が破れても葺くことはできず、垣が崩れても築くことはできない。楽しいことがあっても口を大きく開けて笑うことはできず、悲しいことがあっても声高に泣くことはできない。権力者の影響でどうなってしまうのかと思うと、心は休まらない。たとえるならば、雀が鷹に近づくようなものだ。どうして初めて邸宅を建て、門戸を広くすることができようか。小さな家は相合わせられ、訴え合う者が多い。子孫が父母の故郷を離れ、仙人が天上から追放されて人間に堕ちるようなものだ。そのもっとも酷いのは、狭き土を以て一家の愚民を滅ぼすようなものだ。あるいは東河のほとりで占って、もし洪水に襲われたら魚の骸と輩となり、あるいは北野の中に住んで、日照りに苦しみ喉が乾いたとしても水はない。かの両京の中に空いている土地はないのか。人の心の強情なこと甚だしい。また、その河辺や野外はただ家屋と戸を並べただけではなく、田畑にする。野菜を育てる農家は土地を得て、土を盛り上げて畝を開く。米を育てる農家は河をせき止め、その水を田に流す。毎年洪水が起こり、水があふれて堤防を突き破る。河を守っていた役人は昨日その功績を讃えられたにもかかわらず、今日は水の流れが堤防を破るのを見ているだけだ。左京の人々はほとんど水に溺れてしまったのではないだろうか。ひそかに格文を見ると、鴨川の西側では貴族のみが田を耕すことを認められており、庶民はみな禁じられている。水害が起こるのももっともなことだ。
それだけではない。東河の北の野は四郊の二つである。帝が儀式を行う場であり、お出ましになる場所である。もしそこに人がいてこの地に住みたい、田を耕したいと欲しても役人に制止される。庶民がこの地で遊びたいと言っても、夏に納涼をしにきた者は小鮎をとる岸もなく、秋に狩りをしに来た者は小鷹を狩る野もない。洛外では人々が先を争って住み着き、洛中は日に日に廃れていく。かの坊城の南方には、荒地がはるか向こうまで広がっている。住み慣れた都を離れ、洛外に移っていく。これは天の定めによるものか、それとも人間の狂気によるものなのか。元々、私には住む家がなく、上東門の家に身を寄せていた。
自宅について語る
常に損益を考え、自分の家を必要としなかった。たとえ求めても得られなかっただろう。二、三畝で千万銭もかかってしまうのだ。私は、六条より北に初めて自分の土地を所有し、四つの垣を築いて一つの門を建てた。蕭相国のように辺鄙な土地を選び、仲長統のように広々とした家に住みたいと思っていた。小さい山を作り、窪を穿ち小さな池を作った。池の西方には小さな阿弥陀堂を建て、池の東方には小さな書庫を建てて書籍を納めた。池の北方には低い家屋を建て、そこに妻子を住まわせた。全体を数えてみると、屋舎が十の四、池水が九の三、菜園が八の二、芹田が七の一。そのほか、緑松の島、白沙の汀、紅鯉白鷺、小橋小船。私が普段から好んでいるものすべてがここにある。春は東の岸に柳が生え、細い煙のような枝がしなやかに垂れている。夏は北の戸に竹が生え、清らかな風が颯爽と吹いている。秋は西の窓から月が見えて、その光の下で書物を読む。冬は南に日が昇り、背中を暖めてくれる。
私は五十歳になろうというとき、ようやく自分の家を持てた。かたつむりはその棲家で安らぎ、虱はその縫い目を楽しむ。かやくきは小枝に住み、広い林の中に住むことは望まない。蛙は井戸の中にいて、広い海を知らない。家主は内記の職に就いているといっても、心は山中に住んでいるようだ。官爵は天の公平な定めに任せ、寿命は天地に任せる。出世を望まず、隠遁生活も望まない。膝を屈め腰を折って、王侯将相に媚びへつらうこともしたくない。また、他人の言葉や顔色を気にすることを避けて深山幽谷に住むこともしたくない。
生活について語る
朝廷にいるときは帝に身を捧げ、家にいるときは仏に帰依する。私は外出する際、青草色の袍を着る。官位は低いけれども、自分の仕事には誇りを持っている。
家に入ると白紵の衣がある。春よりもあたたかく、雪よりも清い。手を洗ってから西堂に参り、阿弥陀の姿を思い浮かべ、法華経を読む。食事を終えたら東閣に入り、書物を開いて古の賢人たちに逢う。漢の文帝は時代を異にする主君である。倹約を好んで民の生活を安らげるからである。唐の白楽天は時代を異にする師である。詩句に長けて仏法に帰依したからである。晋朝の竹林の七賢は時代を異にする友である。朝廷に身を置きながら隠遁を志しているからである。書物の中で私は賢主に遇い、賢師に遇い、賢友に遇う。一日に三度の出逢いがあり、一生に三度の楽しみがある。
近代には、一つも楽しいことがない。人の師となる者は地位や富を優先し、学力で評価しない。もはや、師などいないほうがましだ。友人たちは権勢や利益を重んじ、損得勘定なしに交わることをしない。こんなことなら、友人などいなくてよい。私は門戸を閉ざし、家にこもって独りで和歌や漢詩を詠んでいる。気が向いたら童子と小船に乗り、舷を叩いて棹を動かす。暇なときは下僕を呼んで後園に入り、肥料をやったり水を注いでやる。私は我が家を愛し、他のことには興味がない。
家を建てることについて語る
応和年間から今まで、世の人々は豪邸を建てて節々に絵を描く。巨額を費やした割に、実際に住んでいるのはたった二、三年である。古くからの言い伝えで「造れる者おらず」という言葉がある。この言葉は本当だったのだ。私は晩年になって自分の家を建てた。自分の身分を考えると、本当に贅沢なことだ。上を見ては天を畏れ、下を見ては人に恥じ入る。
旅人が旅宿を造り、老いた蚕が独り繭を成すようなものだ。いったい、後どのくらいこの家に住めるだろう。嗚呼、聖賢は家を造る際に民に苦労させず、神に頼らない。仁義を以て棟梁となし、礼法を以て柱礎となし、道徳を以て門戸となし、慈愛を以て垣牆となし、好倹を以て家事となし、積善を以て家資となす。その家に住むものは火事に遇うこともなく、暴風に倒されることもなく、妖魔も姿を現さず、災いも訪れないだろう。鬼神が家を覗くこともなく、盗賊に物を盗まれることもない。その家は自然と裕福なり。家の主人は長寿を得る。官位は末永く続き、子孫にも恵まれる。慎まなければならない。
天元五年、孟冬十月、家主保胤、自ら作り自ら記す。