鎮宅とは、「宅(家屋)」の鬼神を鎮めることで、鎮宅霊符は鬼神を鎮めるための霊符である。
人間の住む家屋とその下の土地には鬼神がいると信じられていた。
鎮宅
『正一醮宅儀』によると、道士は五方(東西南北と中央)の宅神・四季歳月日時刑殺・太歳太陰将軍・門丞戸尉・井竈伏龍(井戸と竈に伏している龍)・庭堂屋吏などを座に招く。そこに香茶酒を供え、宅内に災いをもたらすものを除き、五色の神竜に鎮宅を祈願する。(『道教事典』)
鎮宅霊符神
鎮宅霊符神は、西嶽真人が変化したものとされている。
西嶽とは中国の五岳のうち、西を司る山である。
鎮宅霊符の逸話
安倍晴明と鎮宅霊符
源頼朝の仮の邸宅として知家事兼道の山内の邸宅を移築することになったが、その建物は安倍晴明が鎮宅の符を貼ったおかげで一度も火事に遭ったことがないと記されている。
治承四年(1180)10月9日戊子、源頼朝の邸宅の工事が始められたが、期日には間に合わなさそうなので知家事兼道の山内の邸宅を移築することになった。
この邸宅は正暦年間に建てられて安倍晴明が鎮宅の符を貼ったので、今まで火災に遭ったことがない。(『吾妻鏡』)
同じく治承四年(1180)十二月、鶴岡の東の方にある大倉郷に新しい御館を建てられる。
鶴岡八幡宮の時と同様、大庭景親が奉行役を務めた。
壮麗で広々とした館の建築を期間内に完成させるのは難しかったので、しばらくの間知家事兼道の住む山内の邸宅を移築した。
その昔、正暦年間にこの邸宅を建てた際に安倍晴明が鎮宅の符を貼ったおかげで今まで火災に遭うことがなかった。(『北条九代記』上「鎌倉新造の御館」)
安倍吉平と鎮宅霊符
『古事談』花散院の厭物のこと
康平六年(1063)7月、藤原師実が皇居の春宮町をまねて造らせた邸宅は、今まで火事に遭ったことがない。寝殿の横木に北斗七星の節目があるのと、安倍吉平が護符を貼ったからである。(『古事談』)
鎮宅霊符縁起集説
解説
第一 化現次第大意
そもそも、北辰尊星というのは、天が開闢されて万物が生まれたとき、その中に一点の神がいたのだが、神道ではこの神を国常立尊と名付けた。
この神が天の主であり、北辰尊星と呼ばれた。また、北辰尊星は陰陽を生み出した。日月がこれに当たる。さらに、北辰尊星は五つの星を生み出し、それらの星は五行となった。神道では、地神五代という。五行が生まれてから人間も生まれ、七つの星が生まれて七星となった。人間は、五星が変化して生まれたものなのだ。その根元は、太一という星の霊光が天から降りてきて、人間に命じた。孔子はこれを説き、人間の心は五常(仁・義・礼・智・信)を含んでいるとした。
第二 七情、一心より起こること
また、太一は七星を生み出した。七星は人間の身体に降りて、七情(喜・怒・憂・思・哀・悪・欲)となった。
人間は長らく天にいたのだから、天に従うものは生き長らえ、天に逆らうものは滅びる。そのため、北辰尊星を祀って天恩に報い、運気を高めるのが人間の大道といわれていた。
第三 霊符の法、漢の孝文帝、劉進平より伝授のこと
鎮宅霊符の法は、漢の孝文帝が劉進平という者から伝授されて世に広く伝わったものである。四海は静かに治まり、万民までも富が栄える妙法である。
第四 日本弘通の由来
その後、鎮宅霊符の法は日本にも伝わった。推古天皇の時代に百済国から聖明王の第三皇子琳聖太子が日本に渡ってきて、この法をもっぱら広めた。その後、儒仏神ともに執行したという。琳聖太子が渡来したのは、肥後国八代郡白木山神宮寺という。
第五 肥後国八代郡神宮寺霊符神、日本の始まり
肥後国八代郡白木山神宮寺に安置された霊符の尊像は、妙見菩薩である。
昔、漢の孝文帝が弘農県を訪れた際、最凶の家相である三愚の邸宅にもかかわらず、豊かな暮らしをしている家があった。不思議に思った孝文帝は、家の主である劉進平を呼んで理由を尋ねた。劉進平は「その昔、我が家では甚だしい禍災に見舞われておりましたが、どこからか書生が二人来て七十二符を渡してきました。それから『この札を受け取って法を修すれば、十年で大富豪となり、二十年で子孫が繁栄し、三十年で必ず白衣の天子が家を訪れるだろう』と言って門を出ていき、五十歩目まで歩いたところで何処かへ消えていき、そこには一道の白気が天に上っていました。その後、書生の言ったとおり霊符の効験はありましたが、未だ白衣の天子は訪れないのです」と答えた。孝文帝は七十二符の霊符を信敬し、世に伝えた。
第六 八代神宮寺霊符板の由来 并びに正平御免のこと
聖武天皇の時代である天平十二年(740)、肥後国八代郡白木山神宮寺において霊符の版が彫られた。だが、その時に彫られた板はもう残っていない。今使われている版は、南朝正平年間(1346~1370)に後醍醐天皇の第六皇子征西将軍懐良親王が八代郡高田郷に住んでいたときに作り、神宮寺に納めたものが今の霊符の曼荼羅である。
八代細工町の染革屋に、古来より伝わる二枚の版がある。一枚は中に「天平十二年八月」とあり、妙見菩薩の姿及び八幡の二字と梵字などが記されている。神仏の形が記されているため、商売に用いるのは避けられていたが、征西将軍が八代にいた南朝正平年間に別の板を彫らせて、商売できるようになった。そのため、正平御免革という。この版には正平六年六月とあり、神仏の形と梵字を除く唐草花を描いた。これが、諸国へ正平染が流布された始まりである。
第七 八代上官のこと
神宮寺の妙見菩薩は上宮・中宮・下宮・三宮にある。
上宮の妙見菩薩は、本地を大日如来としている。妙見菩薩の託宣曰く、釈迦・阿弥陀・観音・地蔵・金剛蔵王・虚空蔵・大威徳は妙見の分身である。ゆえに、この七体を妙見とする。
第八 七仏所説教北辰菩薩妙見のこと
七仏所説神呪経曰く「我は北辰菩薩であり、妙見である。今、神呪を説いて諸国を護ろうと欲す。閻浮提衆星の中にいう最勝神は、神仙の中の菩薩の大将である」という。
宋の天喜二年閏四月に真武の号を加え、東太一・西太一・中太一とした。
白氏文集に求仙を戒める詩に徐福の文が多くある。中国の道士の宗とすることを知るべきである。天においては、北斗尊星という。
第九 三台北斗神君のこと
太上感応編に「三台北斗神君は人間の頭上に在り、人の罪悪を記録し、その紀年を奪う」とある。抱朴子には「熒惑は火精・朱雀を生ず。辰星は水精・玄武を生ず。歳星は木精・青龍を生ず。太白は金精・白虎を生ず。鎮星は土精・乗黄を生ず」とある。今考えると、辰星は北斗尊星のことだ。漢土においては真武上帝として顕れるものだ。
第十 玄武すなわち亀蛇のこと
五雑組(五雜俎)に「真武は玄武である。朱雀・青龍・白虎と同様に四方を司る神である。後世に地を掘って亀蛇を得る。廟を建て北方に鎮められる。朱雀・白虎・青龍の神は滅びて祠はない。玄武のものだけが残っている」とある。
今考えると、玄武とは妙見のことだ。霊符の像の前に亀蛇を置いて玄武神となったのだ。
第十一 四神相応の形のこと
史記天官志に「北方の玄武は後の漢書に『玄武は北方の神・亀蛇が合体したもので、水神の名は文選の注によると亀と蛇が交わって玄武という北方の神獣になった。玄武は虚危星の形に似ているため、北方を玄武七星とした。東方は角房尾の形が龍に似ているため、青龍という。西方は奎婁の形が虎に似ているため、白虎という。南方は張翼の形が鳥に似ているため、朱雀という」とある。
宋名官言行録には「孔道輔原魯が寧州にいたとき、道士が真武の中から蛇を出して神異だと脅したが、原魯は笏で蛇を打ち殺して感を解いた」とある。
明州の津から亀蛇に乗って肥後国八代郡土北郷白木山八千把村竹原の津に着く。白鳳九年の天智天皇の時代から三年を経て、益城郡小隈野村千代松峯に移る。現在の場所は白木平という。九十年を経て宝亀二年、八代郡横嶽に移る。上宮とは、これである。
第十二 千歳の亀は無窮の蛇のこと
抱朴子に「玉策記によると、『千歳の亀は五色であり、額の上には角のような骨を生やしている。また、蛇は無窮の命であるため、尊星を敬うときは諸願成就して亀蛇と年を同じくする験がある』という」とある。
第十三 神宮寺造営始修復のこと
造営始は桓武天皇の時代、延暦十四年、再興修復は延暦十四年より四百三十一を経た土御門院の時代、建仁元年である。それから二十五年を経て修復を加え、後深草院の建長四年、亀山院の文永十年、後二条院の徳治二年に修復を加えた。そこには、大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三尊が祀られている。この宮寺は白木山神宮寺と名付けられ、妙見菩薩の霊符の版がお堂に納められた。
第十四 中宮・下宮・三宮のこと 付 近衛信尹公歌のこと
中宮は後白河院の時代、宣旨によって永暦元年に平清盛の家臣で肥後守平能三が三宝嶽の麓に中宮を建立し、田園四十町を寄付した。
その本尊は千手観音・愛染明王・毘沙門天である。その宮の前に流れている川を、中宮川という。天正年間に近衛信尹公が薩州に左遷されてこの地に来た。秋だったので、紅葉の影が谷水錦を染めているかのようだったので、信尹公は一首詠んだ。
「かけ見えて ちらでもしづむ 山川に 流れもやらぬ 村紅葉かな」
下宮の本尊は十一回観音と弁財天である。後鳥羽院の時代である文治二年十一月十五日に大江高房が勅命を蒙って造立した。
三宮の本尊は上宮・中宮・下宮の本尊を勧請し、安置している。二条院の時代である慶保元年八月二十三日に従五位下越前司平盛俊が妙見三所を宮の原に移し、田園を寄付したという。
第十五 周防国氷上山降臨のこと
当山星堂開基のことは、琳聖太子の五代目の孫にあたる茂村朝臣が氷上山に移された。百済国の聖明王の第三皇子が日本に来朝したのは、推古天皇五年三月二日のことである。卿相雲客・殿上人から百司百官百人余りを引き連れて周防国の多多良浜に着いた。その時、不思議な霊験があった。その由来を詳しく尋ねると、推古天皇三年九月十八日に当国都濃郡鷲頭庄青柳浦に大きな星が流れ落ちて松の木の上に留まり、七日七夜輝き続けたという。国民は奇異なことだと驚き、騒ぎあった。そして、巫人の託宣では「我は北辰妙見である。これより三年後の三月二日に百済国の聖王が日本に来朝する。太子を日本に留めて王法を修行し、国家を治めるのだ。これを聖徳太子に伝えよ」と託すと、天に帰っていった。やがて、国民はこのことを注奏した。これによって勅使が太子の来朝を待っていると、琳聖太子の乗った船が到着した。長門国大内県に御所をしつらえて待っていると奏上すると、太子は感激して長門県にしばらく滞在した。その後、鷲頭山に星宮を建立し、九月十八日が祭祀の日と定められた。
第十六 長門国桂木山影向のこと
その後、北辰尊星が天から降りてくることはなかった。
長門国桂木山に影向した。この時また、桂木の嶺に移された。
第十七 重ねて氷上山降臨のこと 付 星堂建立のこと
太子五代の後、再び氷上山に宮殿を移し、星堂には金銀を散りばめて本堂に釈迦三尊を脇に、四天王の像を四方の回廊と二階の楼門、東西の二塔、鐘楼、輪蔵、経蔵に護摩不断の如法経堂八幡社三十番神山王の社法界門十町余りに軒を並べ、五百の衆徒が百坊余りに住み、そのほか伶倫巫等は山の麓にいて、毎日の神供、四季の祭礼において管弦音楽の聲明や舞踏が断絶されることはなかった。
後土御門院の文明十八年、中納言実隆卿が当山の額宸翰を染めた。勅願寺とすべきだという宣旨があってから、天下安全豊穣の祈願を怠らず、日本で初めて尊星王の祭祀が行われた。推古天皇十九年に琳聖太子の百済の王法を説いて日本の官職を改め、冠位十二階の制度が定められた。これによって、その年、琳聖太子に王冠を賜って難波の京の生玉宮において北辰尊星供が行われた。それから千年余りを経て、多々良氏に綸旨を賜り、家伝にこれを行った。
昔、尊星太一が天から降りてきて数ヵ条の神制を示した。神制に背いた者は必ず滅びるというお告げがあった。
第十八 国司多々良二位義隆、神言に背き国を失い身を滅ぼすこと
周防国司多々良二位の義隆はこの神言に背いた。この時、星供司多々良正忠は義隆を諌めたが、義隆は聞き入れなかった。太一尊星が再び降臨することもなかったので、五百人の衆徒が七日七夜に渡って招請の壇法を修しても効果はなく、別当尊光法師も当山を辞めた。星供司正忠は当家の師範諫臣に定め置かれ、あまつさえ星供の検使代官であったので大いに憤り、遁世して高野山に入った。義隆も数代に渡って治めてきた国を失い、家臣に討たれた。
第十九 賢王・賢臣ともに尊星を信仰し奉るべきこと
神制を用いれば、普天の災難を退け凶事を祓うことができる。これもひとえに、妙見菩薩の威徳によるものである。
ゆえに、天下を治める賢王と賢臣は鎮宅霊符尊星を信仰し奉れば、あらゆる願いが成就する。
地神二代の主正哉吾勝尊は、星の神である。慈覚大師の神祇曰く「日神は天照大神であり、月神は鹿島巌島の神、星神は日本第二主正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊である」という。
北辰妙見菩薩は、宇賀神将でもある。宇賀神将は一切衆生にとっての福神である。今の霊符の真君である。霊符尊を信仰しなければ、大荒神となって災禍をもたらすだろう。だが、霊符尊を篤く信仰すれば、子孫に至るまで繁盛することは間違いない。
第二十 子孫の繁昌を祈ること
豊臣秀吉は先祖国吉の生国・江州浅井郡山門の僧侶が還俗して尾張国愛智郡中村に居住した。その昔、江州の竹生島に弁財天が籠居して千日間籠居した。その後、近江国荒神山に登って二十七日間断食し、鎮宅霊符の秘法を修行した。その願文には「衆生済度のために再び還俗し、天に祈る。言い伝えによると、霊符秘法は必ず白衣の天子がその宅に入り、子孫の中に必ず将軍となる者が現れる。ならば、たちまちに衆生を導こう」とあった。そうして、秀吉公の武威は異国にまで栄えた。これもひとえに、先祖の願いが叶ったのだ。また、罪を懺悔したいときは、この尊星を祀るべきである。
第二十一 罪を滅ぼすために尊星に祈ること
後三条院は、神皇正統記によると後朱雀院の第二皇子後冷泉院の太弟である。後朱雀院の遺詔を後冷泉院宮に納めた。ある日、成尊が天皇に北斗を拝しているか尋ねると、天皇は毎月拝していると答えた。
成尊は涙を流し「多くの人々は福寿を求めて北斗を拝するものだ。しかし、天皇は自らの罪を悔い改めるためだったのだ。」と思った。
天一の水は、北斗の精である。帝王編年集には、九月に外法とされたとある。
第二十二 日本熊野権現北辰妙見のこと
役行者の筆記によると、閻浮提を守護する四神は妙徳円満摩訶陀国正中にある。本地は阿弥陀如来は日本で證誠大菩薩と呼ばれた。北辰は閻浮提の北にいる。本地は薬師如来で、日本では熊野権現と呼ばれた。この二神は兄弟である。補陀落山に座している本地は、観世音菩薩である。日本では、那智権現と呼ばれている。
第二十三 江州三井寺の閼伽井を尊星水と名付けること
天下には、四ヵ寺の大法がある。その中に、三井寺の尊星供といって、他門にはまだ知られていない大法がある。これは北辰妙見の秘法で、天下の安全と国土の豊穣のために修する法である。その寺の閼伽井に影を垂れていたので、尊星水という。天上の星が落ちてきて井戸を穿ち、九頭竜王に変じて井戸を守護している。降龍の日は、正月七日・三月三日・四月八日・五月五日・夏至六月晦日・七月七日・八月朔日・九月九日・冬至の丑の刻を忌むべきとされている。三井記によると、九頭龍の加護がある日と聖降の日は同じなので、霊符尊星の影を移した池水だという。
第二十四 尊星を神武神仙と名付けること
天喜二年閏四月の詔に、醴泉所を六月詔の真武を加えて真武霊応真君と称した。
第二十五 尊星形像を円する由来
琅琊代酔編二十九によると、大和山真武の像は髪を洗われて永楽帝の時代に塑像が分からなくなったので、どのような風貌だったか請われた。
第二十六 三愚の地 并びに秘法釋義 并びに供物禁物
「三愚の宅」という大凶の地形がある。その三愚とは、一愚(宅の前方が高く、後方が低い)、二愚(北方に流水がある)、三愚(東南が高くて西北の方角が平地である)である。このような家は、忌み嫌われる。
霊符秘法のこと:総じて秘法というものには、さまざまな習いがある。あるいは、尊形を秘するものもある。あるいは、根元印明并びに種子を秘するもの、壇場を秘するもの、本尊を秘するものもみな秘法という。
この霊符の法も秘法であるからには、容易く授けてはならない。この法は大法略法八代流駒形流多々良の家伝の品々が伝来したものである。しっかりと伝授し、修行させなければならない。毎月聖降の日にこの法を行うときは、一間を道場として前日から掃除をして斎戒沐浴し、魚味や不浄を除き心身を清めて修し奉る。世間出世の願いを求めるところに従わなければならない。
供物の次第:梔子、木犀、松、梅花(花がないときは八千梅)、榧、上葉茶
右の六種は四季ともに究めて供する。その他には、御酒・礼酒・団餅・洗米・栗・柿・飴
その他にも適当なものを添えて供養する。
香りは沈・真盤などを用いる。
一生禁忌の物:鴈・亀・牛・犬・鰻・鼈・黒鯉・鰌など
自分の産穢・死穢は服忌令にある日と同じように慎まなければならない。踏合同火は行水次第である。
第二十七 七十二道霊符神
図上には七十二の符形がある。先天の八卦に後天の六十四卦を加えて建立したという。あるいは、七十二候を象ったともいわれている。これは、天に九天があり、地に九州の二十七宿を倍にして、八十一となったのを、天の九官を除いて七十二となった。天の七十二候を運んで一年となる。天に神道がなければ三光もなく、四時もない。地に神道がなければ、五行も万物もない。人に神道がなければ、命はなく、万法もない。第一に寿命、第二に無病、第三に福禄である。これらは、随身の三宝である。第一と第二は身内の宝で、第三は身外の宝である。寿命が第一なのは、命あってのものだからである。病気を治すのは、命を保つためである。財を求めるためには、寿命が第一である。無病が第二なのは、病気になったものは命の危険を恐れ、財宝の大切さを忘れるからである。無病が第二で福禄が第三なのは、命は身の根本であり、諸々の病気は身の枝葉で福禄は身の花実だからである。
北斗元霊経によると「真」とは神・正・直・化・聖である。