あらすじ
賀茂保憲は橘元方から娘葛子を引き渡すよう何度も命じられたが従わなかったため所領を没収され、相模国の藤沢駅に流されることになった。
保憲は悲しみながらも、秘書を隠している大元尊神の宮殿を形作ったものを守る者がいなくなってしまうことを深く嘆き、保名を呼んだ。
保名は、自分のことは気にせず葛子を差し出して構わないと保憲に伝えた。
保憲は、今回のことは元方と高明親王の策謀によるものであること、娘が保名と夫婦の契りを交わしたのは神のお告げに従っただけで、娘自身の願いではないと言った。
娘が元方のもとへ行けば親子は二度と会えなくなる上に、邪な理由だと察して娘をやるわけにはいかなかったのだ。
保名は涙に咽びながら別れの挨拶をして、帰郷する途中で密かに大元尊神の宮殿を持ち出した。
保名は安倍野の実家に帰ると、都では「賀茂保憲はお咎めによって親子ともに関東へ流された」という噂が流れていることを知った。
保名は悲しみのやり場もなく、妻の葛子を恋しく想い、師であり舅でもある保憲の恩を遥かに思いやった。
そうして三十日が過ぎた頃、夕暮れの田に一人の女がいた。
見ると女は葛子で、保名を恋しく想うあまり遥々東国から上ってきたのだという。
保名は嬉しく思いながらも怪しんだ。
夫恋しさに尋ねて上ってくるのはさることながら、父の苦労を見捨ててご老体をいたわることもしないとは、不孝の極みではないか。
妻を想うのは自分も同じだが、ご恩のある舅なのだから、自分の方から下るべきではないだろうか。
そうは思っても、荼枳尼天の宮殿を預かっているので、保名は渋々葛子を受け入れた。
葛子は涙を流しながら、
「父上のお側をほんの少しも離れ難かったのですが、父上が『自分のことはいいから、保名のもとへ行け』と言うので、やむなく上って来たのです」と言った。
保名は舅のご恩を無碍にはできないと思って、四年間葛子とともに過ごした。
おかしなことに、葛子は大元尊神の宮殿に近づき、鎖を解いて扉を開けようとしたので、保名は先祖代々に伝わる大事なものだからみだりに触れぬよう叱った。
そうして一日、また一日と日々を過ごしているうちに、とうとう葛子が身ごもった。
生まれた子は、掌中の玉のように大切に育てられた。
月日が経って、童子が生まれてから早くも四年が過ぎた。
近隣の住民が羨むほど美しい容貌であった。
ところが、この童子には虫を食べるという変わったところがあった。
保名はよくないことだと思って、妻に悪食を止めるように言った。
この悪食は前世の業か、あるいは親の業なのか。
もし悪食が止まらなければ、後にどんな災いを起こすかわからないから、いっそ今殺めてしまった方がよいのだろうか。
いやいや、それはあまりに不憫すぎる。
保名は涙に暮れた。
妻は我が子を側に引き寄せて、涙を流しながら言った。
「童子、そなたはどうして虫けらを喰らうのですか。父上が今しがた母の胸にひしひしと釘打つように言われました。この母の血筋を受け継ぐゆえに虫を喰らうのでしょうか。
もし母の素性が知れれば、愛しいそなたを捨て置いてここを去って行かねばならぬのです。その時の悲しみが今から思いやられます」
母は童子の髪を撫で下ろし、可愛い子や、どうか私の言葉を聞き分けておくれとばかりにさめざめと泣いたので、童子は母の膝の上にもたれかかって母の顔を見上げた。
「なぜ泣いているのですか。母上と離れ離れになりたいなど一日も思ったことはありませぬ。虫を食べるのは、口の中にて面白い動きをするから好んでしていたのですが、母上が悲しむのならもうやめます。どこへも行かないでください」
秋になって稲刈をしていた保名は、保憲と葛子の父娘が歩いているのを見た。
「小野義古公から許しを得て、密かに上ってきたのだ。そなただけが頼りだ。我々が流人の身で住居も伝えなかったから、文も書けなかったであろう。
五年の憂き苦労も私は堪えられたが、葛子はそなたが恋しくてたまらなかったようだ。
大元尊神もそなたも無事でよかった」
「ご機嫌よくお帰りになられてよかった。ご厚恩はつかの間も忘れたことはありません。
私は今も変わらず大元尊神にお仕えしております。
一つだけ奇妙なことがあります。それは、五年前にご息女の葛子姫が『自分は女の身であるゆえにお咎めもなくなった』と言って名を葛の葉と改め、この里に隠れて暮らしているうちに一子を設けてあなた様のお帰りを待ち、ともに荼枳尼天にお仕えしていたところに、こうして今また葛子姫が帰ってきたことです」
こうして、葛の葉は童子を残して保名の家から出ていった。
保憲父娘と保名が寝室に行ったところで、葛の葉はこっそり保名の部屋に忍び込み様子を窺った。
童子の側に近づくと、童子は「私が虫を食べていたせいで母上は私のもとを離れてしまったのだ」と泣いていた。
「母は今、胸が張り裂けそうです。今日をもっておまえに会えなくなるの我が身を悲しく思います。
今から母が話すことをよく聞き、お父上にこう伝えなさい。
『実は、私は人間ではありませぬ。信田の社に棲む、年を経た白狐なのです。
過ぎ去りし頃、狩人に命を狙われていたときに保名様に助けられてから、そのご恩を返したいと思っていました。
五年前、保憲様が災難に遭い葛子様とも思わぬ別れをなさって、保名様はとても辛そうでした。
母は保名様のお心を慰めようと思って葛子様の姿へと形を変え、この家に来たのです。
それから、私には二つの善いことと悪いことがありました。
善かったのは、保名様へご恩を返す仮の身にそなたを宿したことです。
畜生の身に人間の子を宿した不思議さに喜んでもなお余りある程でした。
姿を借りた葛子様へのご恩もあったけれど、どうしようもありませんでした。
今日、保憲様と葛子様が戻ってきてそなたとも今日を限りに会えなくなると思うと、そなたと過ごした日々をとても愛おしく感じます。
夕べまでそなたと別れることになるとは知らず、野干の通力もそなたを想うあまり闇に消えました。
我が子を想う悲しみは畜生と言えど人間の百倍です。
そもそも、母は日本のものではないのです。
かつては唐の玄宗皇帝に仕えた雍州の官人玄東の妻で、右将軍隆理の娘で隆生女という名前でした。
当時、日本の帝である元正天皇の勅命によって吉備大臣が遣唐使として唐に渡り、玄東と碁の勝負をしたときに吉備大臣の仁心に救われたのです。
親交の証として、玄宗皇帝は吉備大臣に簠簋内伝金烏玉兎集という書物を授けました。
帰朝の際、安禄山の計らいによって吉備大臣は命を狙われ自ら風渡の津に命を捨てました。
けれども、母は吉備大臣のご恩に報いるため霊魂の身となり、簠簋内伝金烏玉兎集に取り憑いてこの国へ渡りました。
日本は神国であるゆえ人間の体に乗り移るのは難しかったのですが、幸いにも信太の森の白狐の身に宿って年月を送ることができました。
かの金烏玉兎集には荼枳尼天の法が記されており、これを伝えて女官になろうと思いましたが、書物は賀茂の神祇の家にあったため近づくことは叶いませんでした。
そんな折、此度の災難があってこの家に至ったのは幸いなことです。
奥義を伝授し、我が身も女官に至り、九万九千の眷属の狐にも伝えようとこの家に近付いたのですが、保名様は私を葛子様と思って結び重なってからは愛情が芽生え、そなたを身ごもったときは元の願いも忘れて嬉しくなり、そなたを立派に育て上げようと心を尽くしました。
その甲斐もなくそなたを捨てて別れる悲しさは、何に例えられましょう。
そなたと別れる苦しみは、腸を断つ哀猿の思いに勝ります』」
安倍保名と保憲親子が出てくると、白狐の姿は消えてなくなった。
この物音で童子は目を覚まし、泣き叫びながら母親を探した。
保憲・保名・葛子も始終を聞いて哀れに思った。
保名は、ともに暮らして童子を育てようと声を上げた。
すると、向かいの障子に血文字が書き残されていた。
「恋しくは尋ねても見よ和泉なる信田の社の怨 葛の葉」
保憲親子も保名も呆然と立ち尽くしていたが、保名は童子を連れて泉州信田へ向かった。
保名は嘆きのあまりに葛の葉に向かって、「私は、そなたと夫婦の契りを交わして子を設けたことを決して恥ずべきことだとは思っていない。
なぜなら、古の伝承をたどれば、漢土の伏義は竜蛇であり、神農炎帝は牛の頭をもっている。我が国でも素盞鳴尊は牛頭天王とも考えられているし、地神の彦火火出見尊は龍女豊玉姫と契り、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊を生みなさった。ほかにも、古来より獣や蛇と契った例はたくさんあるのだ。
たとえ人間でも夫の目を盗んで他の男と逢う者もいる。そのような者は、人のかたちをした畜生も同然だ。
だが、そなたは畜生の身でありながら五年もの間貧しい家を支え、この子を育ててきた。その想いをどうして忘れられようか。
『恋しくは……』の歌を見て、私は信田へそなたを尋ねに行こうと思って、やっと信田の森にたどり着くと、秋の終わりの風が身にしみた。
幼子も母を焦がれて流した涙が葉に落ちて露となり、悲しみの中で私にこう言った。
「このようなところに、どうして母上がいらっしゃるのですか。人里へ探しに行きましょうよ」
保名は涙に暮れ、
「本当にそのとおりだ。だが、おまえの母はここにいる。声の限りに呼んでみよ。何の宛て所もないが、愛情につられて我が子を想う母親が姿を現してくれるだろう」と教えた。
童子は恋しい、乳が飲みたい、抱かれたいと声の限りに叫んだ。
幼子の父も涙を抑え、童子の母を我が妻と呼んでも、叫んでも、こだまのように響くだけで応える者もいなかった。
再び逢うことも姿を見せることもないとは、情のないことだと男泣きに泣いていると、程なくして日が暮れ、涼しい夕風に吹かれて心細くなった。
童子が声を泣き枯らし、保名が呆然としていると間近に狐火が見えた。
童子が母さまと抱きついて、母も元の姿そのままに童子をひしと抱きしめ、乳房を含め髪をなでて、母が恋しかったかと聞いた。
童子は「どうしてこんなところにいるのですか。狐にでも化かされたのですか。早く家に帰りましょう」と言った。
保名は葛の葉に声をかけた。
「そなたがどのような姿でも、童子にとってはたった一人の母親なのだ。せめて童子が十四、五歳になるまで家に帰って面倒を見てやってくれないか。」
葛の葉は答えた。
法の掟では、人に正体を見られたら少しの間でも寄り添ったり、逢ったりしてはいけません。もしこの掟を破れば、八百八狐の親属に見放され、九万九千の眷属に捨てられて永遠に神通力を失います。だから、別れたのです。
たとえ、今は姿が見えなくとも、この子の影身に寄り添って守り神となりましょう。
人の姿でいては、いつまでも名残は尽きぬでしょう。本当の姿をご覧になってください」
そう言ったかと思うと、在りし日のかたちは消え失せて、年老いた白狐が現れて草むら深くへ入っていった。
それでも保名は葛の葉を慕って追いかけ、「どのような姿であっても、契りは尽きぬ」と言ったが、葛の葉が再び姿を現すことはなかった。