粟津の戦いは、寿永三年(1184)1月20日に源頼朝が派遣した軍勢と木曽義仲の間で起こった戦いである。
背景
義仲追討の命令
頼朝の軍勢が接近
東国から源頼朝が派遣した数万騎もの軍勢がすでに美濃国に到着したという知らせを受けて、義仲は激しく動揺した。(『玉葉』同年1月6日条)
義仲が征夷大将軍になる
木曽義仲が鎮守府将軍と征夷大将軍を兼官した知らせが鎌倉に届いた。(『吾妻鏡』同年1月10日条)
『平家物語』によると、寿永三年(1184)1月11日、木曽義仲は院の御所に参上して平家追討のため西国へ出発することを報告した。
本来は13日に出発する予定だったが、東国から源頼朝が派遣した数万騎もの軍勢がすでに美濃国、伊勢国に到着したという知らせを受けて、自軍を宇治・勢田の二手に分けて派遣した。
実際は平家と和睦交渉の最中だった?
『玉葉』によると、義仲は前年に平氏との和睦交渉がまとまったと伝えられている。(『玉葉』同年1月9日条)
ところが、翌日の記事では「義仲は後白河法皇と公卿を連れて北陸に落ちる」とある。(『玉葉』同年1月10日条)
義仲の北陸下向は中止になり、13日に平氏が入京するので院を平氏に預け、義仲は近江国に下向することになった。(『玉葉』同年1月11日条)
聞くところによると、平氏は義仲のもとへ使者を派遣し、再三の起請によって和睦の会議を開いたという。(『玉葉』同年1月13日条)
勢田橋へは今井兼平に八百余騎を付けて派遣し、宇治橋へは仁科、高梨・山田次郎に五百騎を付けて派遣した。
経過
範頼・義経が入京
同年1月20日、義仲追討のため源範頼・源義経が数万騎を率いて上洛した。
範頼は勢田から入京し、義経は宇治から入京した。
これに対し義仲は源義弘・今井兼平らを勢田・宇治の両道に派遣して防戦させたが、どちらも敗北した。
範頼・義経は六条殿に参上し、後白河院の御所を警護した。
その間に一条忠頼らが戦い、近江国粟津付近で相模国住人石田次郎が義仲を討ち取った。
源義弘らは逃亡した。(『吾妻鏡』同年1月20日条)
なお、『愚管抄』では伊勢三郎という郎等が義仲を討ち取ったとされている。
義仲追討を奏聞
義経は義仲を討ち取ったことを朝廷に報告した。(『吾妻鏡』同年1月21日条)
樋口兼光を捕縛
樋口兼光は義仲の使者として源義賢を攻めるために河内国にいた。
その義賢が逃げたので帰京する途中、八幡の大渡付近で義仲が討ち取られたことを知った。
それでも入京したところを、義経の家人数人と戦い生け捕られた。(『吾妻鏡』同年1月21日条)
義仲らを梟首
26日、七条河原にて検非違使が義仲と高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を獄門前の木に吊るした。
樋口兼光の身柄も検非違使に預けられた。
上卿は藤原頼実、職事は藤原光雅が務めた。(『吾妻鏡』同年1月26日条)
義仲の首が都に運ばれたとき、後白河は御所の門まで来て大路を通っていく義仲の首を見たという。(『愚管抄』)
鎌倉に義仲追討を報告
27日未の刻、源範頼・源義経・安田義定・一条忠頼らの飛脚が鎌倉に到着し、20日の合戦で義仲とその仲間を討ち取ったことを報告した。
景時の詳細な報告
頼朝が合戦の詳細を聞いているところに、梶原景時の飛脚も到着した。
範頼らの飛脚は合戦の記録を持参していなかったが、景時の飛脚は合戦で討ち取った人々や囚人らの名簿を持参していた。
頼朝は景時の配慮に感心したという。(『吾妻鏡』同年1月27日条)
花絮
前代未聞の奇瑞
同年1月23日、常陸国鹿嶋社の禰宜たちが使者を鎌倉に派遣し、奇妙な事があったと報告してきた。
去る19日、社僧が『ここの神は義仲と平家を罰するために、都に赴かれる』という夢を見ました。
すると、20日の戌の刻に黒雲が社殿を覆って四方が暗くなり、御殿が大きく揺れました。
鹿や鶏がたくさん集まってきました。
しばらくして、その黒雲は西の方へ向かっていきました。
その雲の中に、一羽の鶏がいるのが見えました。これは前代未聞の奇瑞です。
頼朝はこれを聞くと、すぐに庭に出て鹿島社の方を拝んだ。
なお、鹿島社で奇瑞が起こっていたとき、京都と鎌倉ではともに雷鳴と地震が起こっていた。(『吾妻鏡』同日条)
参考資料
- 福田 豊彦 (編集)、関 幸彦 (編集)「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
- 杉本 圭三郎 (翻訳)「新版 平家物語(三) 全訳注」講談社、2017年