『吾妻鏡』は鎌倉時代後期(13世紀末〜14世紀初頭)に鎌倉幕府関係者の誰かが編纂したとされる、鎌倉幕府の歴史書。
鎌倉幕府研究の基本文献であり、以仁王・源頼朝が挙兵した治承四年(1180)から文永三年(1266)に六代将軍宗尊親王が鎌倉を追われて京都に送還されるまでの86年間が記されている。
編年体で日記形式で記載されており、各巻は将軍の実録や実話の形をとっているため、”関東記録”とも呼ばれた。
「吉川本」や「北条本」などのさまざまな『吾妻鏡』が存在するが、これらは何者かによって集められたものを右田弘詮と徳川家康が収集して復元したものだ。
そのため、『吾妻鏡』の原形を知ることは不可能となっている。
編纂者
北条氏一門あるいは得宗にあたる人物を中心に編纂されたと考えられている。
編纂にはさまざまな史料が活用された。
- 幕府奉行人が作成した行事記録・日記
- 幕府陰陽師・鶴岡八幡宮の記録
- 合戦記・申詞記
- 公家の日記・朝廷の文書
- 御家人・寺社が訴訟で提出した文書
- 幕府内部で作成した文書
- 伊勢神宮・善光寺の文書
複数人による編纂?
一人の編纂者が頼朝挙兵から宗尊親王送還までのできごとを記したとは考えにくく、編纂方法の違いから少なくとも①頼朝将軍記、②頼家将軍記・実朝将軍記・頼経将軍記・頼嗣将軍記、③宗尊将軍記の3つの編纂グループが同時進行で編纂にあたったと考えられている。
- 頼朝将軍記
- 頼家将軍記・実朝将軍記・頼経将軍記・頼嗣将軍記
- 宗尊将軍記
頼朝将軍記
頼朝将軍記は天候の記載が少なく、文書の引用が多い。
文書やその控えを引用しながら記事を作成したと思われる。
頼家・実朝・頼経・頼嗣将軍記
天候の記載が多く、文書の引用が少ない。
主に日記をもとに作成し、文書はほとんど用いなかったと思われる。
宗尊将軍記
天候の記載と文書の引用がともに多く見られる。
日記を活用しつつも、文章は元の史料からそのまま引用していたと思われる。
成立時期
『吾妻鏡』の成立時期は 鎌倉時代後期(13世紀末〜14世紀初頭) と考えられているが、詳細な時期は明らかになっていない。
しかし、永仁の徳政令に関する記事が多く見られることから、永仁五年(1297)以降に成立したと推測される。
注意点
北条氏の脚色
『吾妻鏡』は北条氏の全盛期に幕府の歴史を書き残したものとされているが、特に北条氏を賛美した記述をそのまま鵜呑みにするのは危険である。 『吾妻鏡』において北条氏は最初からほかの東国武士を圧倒する飛び抜けて強力な豪族であり、終始源頼朝を助け、常に御家人の中で最上位に位置したかのように読み取れるが、そんなことはない。
だからといって、『吾妻鏡』に書かれていることはすべて北条氏の悪辣な陰謀の成功の記録だと考えて読むのも、けして正しくない。
参考資料
- 田中大喜「図説 鎌倉幕府」戎光祥出版、2021年
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