角色 資料室 平安時代

安倍晴明

平安時代に陰陽道が成立し、数多の陰陽師が活躍した。
『今昔物語集』で晴明は卓越した呪力を持つ陰陽師として伝えられたが、その他にも陰陽道の達人や多数の民間陰陽師の話もあり、晴明はそのような陰陽師の一人にすぎなかった。

しかし、鎌倉時代以降、晴明は陰陽師の代名詞的存在として語られるようになった。

人物生平

『土御門家記録』には寛弘2年(1005)9月26日に没したとあり、『尊卑分脈』や『安倍氏系図』には享年が八十五歳となっていることから、延喜21年(921)に誕生したということになる。
伝承では、父は安倍保名(安名)、母は信太の森の狐・葛の葉とされている。
『尊卑分脈』では、父は右大臣安倍御主人から九代目の大膳大夫安倍益材ますき。母は不明。

出生地

晴明誕生の地についてはさまざまな説がある。
『大日本史料』所引の『讃岐国大日記』や『讃陽簪筆録さんようしんぴつろく』によると、晴明は讃岐国出身とある。
また、安倍晴明神社では祭神として晴明を祀り、社の前には「安倍晴明生誕伝承地」と書かれた標柱が建っている。
一方、『簠簋抄』では常陸国猫島の出身とされている。

狐の子として

特に芸能の世界において、晴明の父が狐を助けたことから、その狐が妻となって生まれた子が晴明であるとされ、晴明は狐の子という伝承が広まった。
有名なものとしては古浄瑠璃『しのだづまつりぎつね 付 あべノ晴明出生』が挙げられるが、『安倍晴明物語』や『蘆屋道満大内鑑』などにも同様の話が見られる。

古浄瑠璃『しのだづまつりぎつね 付 あべノ晴明出生』

晴明の父保名が、悪右衛門の手から狐を救った。
狐は女に化けて保名の妻となり、安倍童子(=後の晴明)を生んだ。

だが、正体を童子に見られたことから狐は泣く泣く信太の森へ帰っていった。
童子が父とともに母を尋ねて森をさまよううちに、母狐が現れて童子に霊力を授けたという。

やがて、童子は唐の伯道上人から陰陽道の秘伝書『金烏玉兎集』を授けられ、”晴明”と名乗るようになる。
悪右衛門の兄蘆屋道満は晴明と術くらべをして敗れ、保名を一条戻り橋で殺害した。
晴明は必死の祈祷で、父を蘇生させた―。

官人陰陽師として

40歳で歴史上に姿を表す

天徳4年(960)、内裏で大規模な火災があった。
天皇家累代の宝物が納められている温明殿も燃えて、大刀契だいとけいという霊剣が消失してしまった。
この霊剣は刀身に十二神、日月、五星の体が刻まれている天皇の護剣だったので、陰陽寮の天文部署に霊剣に刻まれた星々の文様を調査するよう宣旨が下された。
晴明は焼失した天皇の護剣の文様について調べた文書を朝廷に提出し、剣を作らせた。

このとき晴明は40歳で、天文得業生だった。

五帝祭

応和元年(961)6月28日、高尾山の神護寺で霊験を再鋳造するための五帝祭が行われた。
陰陽寮の者たちが取り仕切り、当時天文得業生だった晴明は師賀茂保憲の補佐をしている。

五帝

五星を神格化した「蒼帝霊威仰・赤帝赤熛怒・黄帝含枢紐・白帝白招拒・黒帝叶光紀」または「東方蒼帝東海君・南方赤帝南海君・西方白帝西海君・北方黒帝北海君・中央黄帝君」と考えられている。
※五星…歳星(木星)・熒惑星(火星)・鎮星(土星)・太白星(金星)・辰星(水星)

ついに陰陽師となる

『本朝世紀』によると、康保4年(967)6月23日に陰陽師として晴明が政始の日時を占った文書を朝廷に提出したことが記されている。
このとき、晴明は47歳だった。

天文博士も務める

天禄3年(972)12月6日、天文博士の晴明が天変を受けて天文奏を円融天皇に進上した。(『親信卿記』)
晴明は52歳だった。

『占事略決』の執筆

天元二年(979)、「天文博士安倍晴明」の名で六壬式占の著書『占事略決』を執筆。

天文博士五位下として卜占を行う

『本朝世紀』によると、寛和2年(986)2月16日に晴明が天文博士正五位下安倍朝臣晴明として卜占を行っている。

「主税寮出雲国正税返却帳」によると、長保2年(1000)と同4年(1002)に出雲国が従四位下安倍朝臣晴明位禄料穀参佰陸十斛玖斗陸升を支出しているため、少なくともこの時点で晴明は従四位下であったことになる。

「穀参佰陸十斛玖斗陸升」とは三百六十石九斗六升のことである。 当時は米が通貨の役割をしていたので、官人の給料も米で支払われていた。 庶民の日当が一升〜二升であったため、出雲国が晴明に支払った額は庶民が一生かけても稼ぎ出せないほどの額だったのである。

長徳三年(997)

大膳大夫への転任を申請

長徳三年(997)正月、晴明は主計権助かずえごんのすけから大膳大夫への転任を申請している。(『除目大成抄』)

長保二年(1000)

式部大輔の代役を務める

長保二年(1000)10月、晴明は叙位の儀において式部大輔の代役を務めた。(権記)

晩年の晴明

長保2年(1000)10月11日、一条天皇が新しい内裏に移り住む際に晴明が反閉を行った。(『権記』同日条)

長保3年(1001)閏12月22日、一条天皇の母東三条院が没したので年末の追儺が中止になった。
ところが、晴明が自宅で追儺を行ったので、洛中の人々も追儺を行った。(『政治要略』巻二十九)

寛弘元年(1004)7月、晴明は五龍祭を行って雨を降らせた功績により、天皇から褒美を与えられたという。(『御堂関白記』)

さまざまな説話

『今昔物語集』

幼少の頃、晴明は賀茂忠行に陰陽道を学んでいた。

ある夜、晴明は忠行と共に下京へ行った時、晴明は徒歩で車の後ろを歩いていたが、忠行は車の中で眠り込んでいた。
ふと前方を見ると、鬼たちが歩いてきた。
驚いた晴明が忠行にそのことを知らせると、忠行は術で自分とお供の者たちの姿を隠し、無事に事なきを得た。
忠行は幼くして鬼が見えた晴明には異能の力があると考え、自分の術をすべて教えた。
その様子は、瓶の水を他の容器に移すようであったという。

式神を自在に操る

式神とは、主人である陰陽師の命令のままに動く鬼神である。もちろん晴明も、式神を使役した。

『源平盛衰記』巻十によると、式神は十二神将であった。
晴明の妻が式神を怖がったので、晴明は式神を一条戻橋の下に隠し、必要なときだけ橋の下から呼び出して使っていたとある。
この橋で吉凶の橋占を行うと、式神が人の口を借りて善悪を示したという。

式神と道教

道教経典『太上六壬明鑑符陰経』巻四にはさまざまな呪符の書式・作成法が記述されているが、その一つに十二月符がある。
六壬の貴神(人)・騰蛇・朱雀・六合・勾陳・青龍・天后・太陰・玄武・大常・白狐・天空の十二天将に対し「神君はよく賊冠を破り、よく兵を匿隠し、よく万衆に入っても声を聞かしめず、吾に当たるものは死、吾を見るものは盲、急急如律令」と呪文を唱え、一定の法で十二の符を書くと百日の験があるとされた。
このような式盤の諸神を駆使して身を守る考え方を呪法が日本に伝えられた。

式神に門を開閉させる(『今昔物語集』巻二四の第一六)

『今昔物語集』巻二四の第一六「安倍晴明、忠行に随いて道を習う語」には、晴明が式神に門の開閉をさせて、晴明の死後も土御門家の家に住み着いたとされている。

自分を試しに来た僧の式神を隠す(『宇治拾遺物語』より)

晴明の家に、老いぼれの僧が十歳程の二人の少年を連れてやって来た。
晴明が「どちらさまですか」と聞くと、老僧は「私は播磨国から来ました。陰陽師になる方法を学びたいと思っていたところ、先生は特に陰陽道に優れていると伺ったので、教えを請いに来たのです」と言った。

晴明は「この法師は陰陽道に優れた者らしい。自分を試そうとしてやって来た者だ。そんな奴に技能が劣っていると見られては好ましくないだろう。この法師を少し痛めつけてやろう」と思って、お供の少年が式神ならば隠してしまえと心のなかで祈り、指を袖の中に入れて組み合わせ、密かに呪文を唱えた。
そして、法師に「早くお帰りください。あとで吉日を選んで、陰陽道のことを教えて差し上げましょう」と言うと、法師は「本当にありがたいことです」と言って、手を擦り合わせて額に当て、立ち上がって走っていった。

もう帰っただろうと晴明が思っていると、法師は立ち止まって少年が隠れていそうな場所や牛車を入れておく建物などを見て回り、晴明の前に戻ってきて「私の供として連れてきた少年が二人ともいなくなってしまいました。二人を返してください」と言うと、晴明は「お坊さんはおかしなことを言うお方ですね。私にどのような理由があって、人がお供にしている人を取ろうとするのでしょう」と言った。
法師は「けしてそんなことはありません。晴明様、当たり前ですが、ただただお許しください」と詫びた。
晴明は「わかったわかった。あなたが人を試そうとして、式神を使ってやって来たのがけしからぬことだと思って、他の人にはそのような相手と考えていいですが、何ゆえこの晴明にそのようなことをするのでしょうか」と言って、呪文を唱えるようにしてしばらくすると、外から二人の少年が走ってきて、法師の前に戻ってきた。
法師は「本当に晴明様を試し申し上げました。式神を使うのは簡単ですが、人が使っている式神を隠すのは容易ではありません。これからは、弟子となってお仕えしましょう」と言って、懐から名札を出して差し出した。

式神に蛙を潰させる(『宇治拾遺物語』より)

晴明が寛朝僧正の坊で談合していた時、若い公達や僧が「そなたは式神を使うらしいが、人を殺めることができるか」と問うた。
晴明は「そう簡単にはできないが、少し力を入れたら必ず仕留められます。ですが、生き返らせる術を知らないので罪づくりなことになります」と答えた。

ちょうど、庭先で五、六匹ほどの蛙が池の方に飛び跳ねていった。
それを見た公達が「あれをひとつ殺してみてくだされ」と言う。
晴明は「罪づくりな……」と言いながらも、自分を試すならばと指先で草の葉を摘み取り、呪文を唱えるようにして蛙の方へ投げやった。
草がちょうど蛙の上に掛かると同時に、蛙はぺしゃんこに潰れてしまった。
これを見た僧たちは顔色が変わり、恐ろしく思った。

天皇の譲位をいち早く察知する(『大鏡』より)

『大鏡』によると、寛名2年(986)6月23日、藤原兼家・道兼親子の策謀によって花山天皇が出家した。
道兼は言葉巧みに花山天皇を誘い出し、東山法化寺に向かった。天皇の象徴である剣璽はすでに一条天皇に渡していた。

途中、花山天皇が土御門北、西洞院東にある晴明宅の前を通り過ぎた。
すると晴明の声がして、「天皇が譲位したと見える。天変があったが、すでに譲位は成立してしまったらしい。ただちに参内する」と言っていた。
晴明が「とりあえず、式神が一人内裏へ参上せよ」と命じたところ、目には見えないものが戸を押し開け、天皇の後ろ姿を見て「ただ今、帝はここを通り過ぎて行かれるようです」と答えていたという。

蔵人少将を守る

『宇治拾遺物語』によると、ある日、晴明は蔵人少将が烏に糞をかけられるのを見た。
晴明はその烏の正体が式神であると分かり、少将にその旨を告げて祈祷することにした。
晴明は少将の身体を抱いて護身法を施し、一晩中呪文を唱えて加持祈祷を行った。

実は、同じ邸に少将の妻の姉妹の夫も住んでいたのだが、舅が蔵人少将ばかり可愛がるものだから、陰陽師に相談して式神に少将を調伏させようとしていたのである。
式神を使った陰陽師から使いの者が来て、「少将に式神を使って殺そうとしたが、少将の守護の力が強かったので、逆に式神が帰ってきて、私は式神に打たれて死んでしまいました」と告げてきた。

晴明はそれを聞いて使いの者に様子を見に行かせると、「陰陽師はそのまま死んでしまった」ということだった。

式神に図録を描かせる(『陰陽道旧記抄』より)

天徳4年(960)、内裏が火災に見舞われ、節刀四十二柄が灰燼となった。
四十柄は元のように鋳造できたのだが、二柄だけは剣に刻まれた図様が分からず、鋳造できずにいた。

そこで、晴明が式神に命じ神通力で図様を描かせ、これを天皇に進上した。
当初は疑っていた天皇もついにこれを認め、愛宕護山で大夫殿・晴明を行事として作らせた。

『陰陽道旧記抄』は安倍氏の子孫土御門家に伝来し、鎌倉時代前期、安倍泰親の孫で『陰陽博士安倍孝重勧進記』を後鳥羽上皇に献じた安倍孝重や、『養和二年記』の泰忠の頃には成立していたと考えられている。

神社に伝わる伝承

熊野那智大社

晴明は花山天皇のために那智の滝で魔神を封じる祈禱を行い、北斗七星を七木に勧請した。

泰山府君祭

『今昔物語集』巻第十九より

ある僧が大病を患い臨終を迎えた時、弟子の僧が身代わりになろうとして晴明に泰山府君祭を頼んだ。
しかし、泰山府君が弟子を憐れんだのか、師匠の僧も弟子の僧も助かった。

過去や未来を見抜く眼

花山天皇の前世を見る

『古事談』において晴明の前世は尊い大峯の行人で、晴明もまた那智に千日間籠もった行人で毎日2時間滝に打たれていたという。

ある時、花山天皇が頭痛を患い、雨の日は特に苦しんだ。さまざまな治療を施したが効果はなかった。
晴明は「花山天皇の前世は尊い行者で、大峰の宿で入滅されました。前世の行徳によって天子の身として生まれたけれども、前世の髑髏が岩の狭間に落ち挟まっていて、雨の時は岩が膨らんで間が詰まるので、このように痛むのです。大峰にある御首を取り出して広い場所に置けば、必ず治るでしょう」

晴明が髑髏は谷底にあると言ったので、花山天皇が人を遣わして見させたところ、晴明が言ったとおりであった。
花山天皇は御首を取り出してから、頭が痛くなることはなかったという。

鎮宅

在原業平の邸宅を封じる

鴨長明の『無名抄』によると、晴明が在原業平の家に加持祈祷を行ったので、業平の家は長い間火災に遭うことがなかったという。

山内宅に鎮宅の符を貼る

『吾妻鏡』治承四年(1180)10月9日に、安倍晴明が知家事兼道の山内の家に鎮宅の符を押していたため、火災に遭ったことがないという記述がある。

大庭平太景義が担当して、(頼朝の)御邸宅の工事が始められた。
ただし期日に間に合わせるのは難しいので、とりあえず知家事兼道の山内の家を点じて、その建物を移築される事にした。
この建物は正暦年間に建てて以来、火災に遭ったことがない。安倍晴明朝臣が鎮宅の符を押したからである。

陰陽道とともに晴明の名が関東の武士社会にまで広まっていったことを示している。

清明大神の石碑

神奈川県鎌倉市山ノ内には、晴明を祀る安倍清明大神の石碑(清明石)がある。

動物の言葉を理解する

鳥の話を聞いて天皇の病の原因を知る(『臥雲日件禄抜尤』より)

『臥雲日件禄抜尤』応永元年(1394)10月27日条で、晴明は天王寺で鳥の話を聞いて天皇の病の原因を知る。
病を治したことによって晴明は天下無双の陰陽師となった。

鳥の言葉を理解できるようになる(『簠簋抄』より)

安倍童子(晴明)が鹿島明神に百日の参籠を行った。その九十九日目にほかの童子たちが小蛇を殺そうとしているところに出くわし、蛇を買い取って放した。
百日目に一人の美女が鹿島宮の晴明のもとを訪れ、「自分は昨日助けてもらった蛇で、竜宮の乙姫である」と名乗り、彼を竜宮へ連れて行った。
晴明は竜宮で石膏と烏薬を授かり、鹿島に帰った。烏薬を耳に塗ると、鳥の言葉がわかるようになった。

ある時、鹿島の拝殿の上に東西から二羽の鳥が飛んできて、「都では天皇の寝殿の下で蛙と蛇が争い、そのために生じた炎が上にのぼって天皇の病の原因になっている。蛙と蛇を取り除けば、天皇の病気は平癒する」と伝えた。
晴明はすぐに都へ上り、鳥から聞いた話を参照して天皇の病因を当て、平癒させた。
これにより、晴明は四位・縫殿守に任じられた。

天文学士として

晴明は、賀茂忠行とその息子保憲に天文道を学んだ。
保憲は晴明に天文道を譲り、子の光栄に暦道を譲った。

安倍晴明 VS 蘆屋道満

参考安倍晴明VS蘆屋道満

室町時代前期に書かれた播磨国の地誌『峯相記』では、「晴明・道満は一条院の御宇、一双の陰陽の逸物なり」とある。道満は、一条天皇の時代を代表する優秀な陰陽師として安倍晴明と対をなす存在であった。 呪詛事件 ...

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晴明ゆかりの地

安倍晴明神社

寛弘四年(1007)創建。
応仁の乱以降、度々戦火に見舞われたのと豊臣秀吉の区画整理などが重なり、縮小の一途を辿っていたが、晴明九町組という氏子が中心となって整備改修が行われた。
昭和3年(1928)に本殿・社務所を新築。昭和25年(1950)には境内を拡張し、さらに整備が進んで現在に至る。

住所〒602-8222 京都府京都市上京区晴明町806(堀川通一条上ル)
電話番号075-441-6460 (午前9:00~午後5:00)
アクセスJR 京都駅より9番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩すぐ、阪急 烏丸駅、地下鉄 四条駅より12番「一条戻橋・晴明神社前」下車 徒歩すぐ、京阪 三条駅より12番または59番「堀川今出川」下車 徒歩約2分、今出川駅より徒歩約12分

晴明桔梗

晴明桔梗は晴明が作った陰陽道に用いられる呪符のひとつで、五芒星とも呼ばれる。

阿部王子神社

名前の「王子」は熊野参詣途中の休憩と遥拝の場を意味する。
元々は地元の豪族であった阿部氏の氏神に熊野神を合祀したからである。

晴明に関わる祭祀などは、境内の安倍晴明神社で執り行われている。
寛弘四年(1007)創建といわれているが、幕末の社家の没落とともに衰退していった。
しかし、明治末の再建運動によって、大正14年(1925)に総檜の鎌倉時代様式権現造の本殿が完成した。

安部山文殊院

大和三山の香久山の近くにある華厳宗別格本山。
天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊とともに日本三代文殊のひとつとされてきた。

大化の改新で左大臣となった阿倍内麻呂が、一族の氏寺として建立したのが始まりである。
子孫ということで、晴明の木像も祀られている。

境内には小高い丘があり、晴明をはじめ多くの天文を司る一族が天体観測を行ったという。

信太森葛葉稲荷神社

深い緑に囲まれ、社殿南の樹齢2000年を超える楠の大樹はいかにも超自然を感じさせる気を漂わせている。
姿見の井戸や白狐石、御霊石などもある。

稲荷神社からそう遠くない聖神社にも、葛の葉伝説が伝わっている。
安倍保名が葛の葉の病気平癒を祈願して参詣するところから始まり、助けた白狐が妻に代わって子供を宿すことになる。

参考資料

  • 繁田信一「陰陽師 安倍晴明と蘆屋道満」中公新書、2006年
  • 高平 鳴海「図解 陰陽師」新紀元社、2007年
  • 山下克明「陰陽道の発見」NHK出版、2010年
  • 菅原 正子「占いと中世人―政治・学問・合戦」講談社、2011年
  • 斎藤 英喜「陰陽師たちの日本史」KADOKAWA、2014年
  • 中村禎里「狐の日本史 古代・中世びとの祈りと呪術」戎光祥出版、2017年

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