室町時代、足利義満は朝廷のもつ国家的祈祷権を幕府のものにしようとする政策を進め、安倍氏や賀茂氏などの陰陽師を重用するようになる。
この頃から安倍氏嫡流は土御門家、賀茂氏嫡流は勘解由小路(かでのこうじ)家を名乗るようになる。
嫡流
氏族の本家を継承する家筋・家系。
「安倍」から「土御門」への変遷
室町時代の土御門家
鎌倉時代までは幕府や朝廷のものだった陰陽道は、室町時代に入ると一般にも普及し始める。
陰陽道の秘伝写本が出回るようになる。『簠簋内伝』が広まったのも室町時代である。
三代将軍足利義満の時代、安倍有世が陰陽家で初めて御所への昇殿を許されて従三位に叙せられた。
賀茂氏のほうも、遅れて従三位に叙せられた。
また、室町後期になると勘解由小路家直系の嗣子が没して後継が断絶したことにより、土御門家は造暦部門も所管し、天文博士と暦博士を兼ねるようになる。
戦国時代の土御門家
戦国時代に入ると、武将たちは自軍を士気を鼓舞するためのものとして陰陽道を利用しようとした。
織田信長は弟民部の娘と土御門久脩を結婚させた。
ところが、久脩は後に関白豊臣秀次の騒動に加担したとされ、秀吉に弾圧されて没落した。
その際、代々伝えられてきた陰陽道の家伝書も紛失した。
その後、久脩は徳川家康によって若狭国名田庄から京都に呼び戻され、土御門家を復興させ、断絶していた勘解由小路家の代わりとして賀茂氏の支流である幸徳井家当主友景を採用して再興した。
同時に、暦道を賀茂氏に戻した。
江戸時代の土御門家
慶長八年(1603)、久脩は徳川家康の将軍就任の際に身固めを行い、その後に天曹地府祭を奉仕している。
慶長十年(1605)の徳川秀忠や元和九年(1623)の徳川家光の際も同様である。
天和三年(1683)、徳川綱吉の時代に土御門家は朝廷・幕府から諸国の陰陽師を支配する権利を認められた。
朝廷は土御門久脩の曾孫泰福へ陰陽道支配を許した綸旨を出し、幕府もまた、諸国の陰陽師支配を認める朱印状を出している。
明治三年(1870)に維新政府によって廃止されるまで続いた。
三河万歳―万歳師と土御門家―
万歳とは、新年がよい年になることを願う正月の祝福芸である。
太夫と才蔵が二人一組となって檀家の屋敷に上がり込んで祝福を授け、その祝儀として米や金を受け取る。
十八世紀初めには江戸をはじめとする関東地方に得意先を持つようになり、広く知られるようになった。
やがて、万歳は正月の欠かせない風物詩として人々に親しまれるようになり、各地で万歳師が活躍した。
万歳師は土御門家に毎年貢納料を納め、土御門家は万歳師に職札を発行していた。
職札には、三河・尾張・遠江の土御門家配下の万歳師は寺社奉行の規則に従い万歳を勤めること、道中は助け合うこと、妨害を受けたら速やかに役人へ届け出ることなどが書かれている。
明治政府によって土御門家の諸国陰陽師支配が廃止されると、万歳師の中には廃業するものもいたが、独自の職札を発行したり神道教導職になって活動するものもいた。
土御門家の掟
土御門殿御条目
- 陰陽道を勤める者はみな、土御門家のもと兼職可
- 土御門家に所属していない者は、陰陽道を勤めてはならない
- 土御門家の職札を受けた者は、土御門家の作法を守ること
- 素行の悪いものは土御門家の組織に加入できない
- 陰陽道職は帯刀すべき職分なので、本所に届け出て帯刀すること
- 天下泰平・国家安穏の祈祷を真面目に務めること