安倍氏と賀茂氏
阿倍仲麻呂と吉備真備
安倍氏と阿倍仲麻呂
安倍氏は阿倍内麻呂(倉橋麻呂)の後裔とされていたが、後に遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂と同一視するようになった。
賀茂氏と吉備真備
賀茂氏の祖先は大和国葛城郡を本拠としていた豪族で、賀茂氏系図では賀茂吉備麻呂の後裔とされている。賀茂役君小角もこの一族である。
吉備麻呂は大宝二年(702)に遣唐使として唐に渡っており、名前と経歴が吉備真備と似ているため、子孫たちが混同した。
陰陽寮主要官職の独占
天喜三年(1055)に安倍章親が陰陽頭に補任して以後、約600年に渡り安倍・賀茂両氏が陰陽寮の頭・助を独占していた。
また、陰陽博士においても、天喜六年(1058)に安倍有行が権陰陽博士になり、康平六年(1063)に賀茂道平が陰陽博士になってからは安倍・賀茂両氏が陰陽博士を独占するようになる。
11世紀中頃からは天文博士も両氏が独占するようになったが、漏刻博士の独占が始まったのは建永二年(1207)の賀茂宣友以降と遅くなっている。
安倍氏と天文道
天禄三年(972)に安倍晴明が天文博士になってから安倍氏が天文博士に任じられるようになり、寛仁三年(1019)に安倍章親が任じられて以後、安倍氏が天文博士を独占した。
寛仁三年(1019)、天文博士だった安倍吉昌が没して以後、権天文博士の和気久邦も都を離れて伊予国におり、天文を学ぶよう宣旨を受けた者たちも覚えが悪いため、同年6月9日に安倍吉平が天文密奏の宣旨を受けた。
同年10月に吉平の子息章親が天文博士になり、長元八年(1035)に章親の弟奉親が権天文博士になってからは、安倍氏が天文博士を独占した。
賀茂氏と暦道
天暦四年(950)に賀茂保憲が暦博士となり、天延二年(974)に保憲の子息光栄が権暦博士になって以後、賀茂氏の多くが暦博士に任じられるようになる。
さらに、長和四年(1015)7月8日には「賀茂光栄が宿曜師の仁宗法師とともに造暦を行った先例に倣い、その息子である賀茂守道も仁統法師とともに造暦を行うべきだ」(『小右記』同日条)とある。
その後も賀茂氏と宿曜師が共同で造暦を行う関係は長暦二年(1038)まで続いた。
こうして、賀茂氏は造暦業務を独占していった。
天喜五年(1057)に賀茂道清が任じられてからは賀茂氏が暦博士を独占した。
安倍氏と賀茂氏の移り変わり

参考資料
- 山下 克明「平安時代の宗教文化と陰陽道」岩田書院、1996年
- 藤巻一保「秘説 陰陽道」戎光祥出版、2019年