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新訳平家物語. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
髭切・膝丸の成り立ち
そもそも我が朝には髭切・膝丸などの名刀が多い。
髭切・膝丸の由来は清和天皇の時代まで遡る。
源満仲は、天下を守るべきものは名刀を持たねばならぬと考え、数多の刀鍛冶を集めて太刀を打たせたが、気に入った刀はひとつもなかった。満仲が困っていると、ある人が「筑前国三笠郡土山に唐土から刀鍛冶が渡って来ております。彼をお召なされては如何でしょう」と言った。
満仲はその刀鍛冶を呼び刀を打たせたが、気に入った刀はできなかった。
刀鍛冶が神仏に祈祷しては如何でしょうと言ったので、満仲は八幡宮に参詣し、
「八幡大菩薩よ、願わくば我が心に叶う名刀を打たせ給え。さらば大菩薩の御器とも相成るでございましょう。」と願文を捧げて祈祷した。
7日目の夜、夢でお告げがあった。
「汝は真に不憫である。速やかに60日の間鉄を鍛えよ。最上の刀二口を與えるであろうぞよ。」
刀鍛冶は大願成就だと喜んで、60日間鍛えた結果、二口の太刀が出来上がった。
満仲は試しにこの刀で罪人を斬らせてみた。すると、一口の刀は罪人の髭までも斬った。このことから、”髭切”と名付けられた。もう一口の刀は罪人の膝までもきりさげた。そのため、”膝丸”と名付けられた。満仲はこの二口の名刀を以て天下を守護すると誓った。
宇治の橋姫
満仲の息子・源頼光の時代になると、不思議なことが多くなった。
第一の不思議は、屍人の行方が知れなくなった。この由来を探ると、嵯峨天皇の御代に、ある公卿の娘が嫉妬のあまり貴船の社に7日間籠もって自分を鬼神にして妬ましい女を殺すと祈った。貴船大明神は娘を不憫に思い、
「誠に鬼になりたくば、宇治の河瀬に赴き37日間水に浸れ。」とのお告げがあった。
こうして女は宇治川に浸り、生きながらにして鬼となった。
鬼となった彼女は妬ましい男女をはじめ、一族親類に至るまで取り殺した。
都中のものは夕刻になると戸締まりをし、外からは入れず、内からも出られないようにした。
その頃、頼光の配下に綱、公時、貞道、末武という武に長けた四天王がいた。
ある夜、四天王の一人・渡辺綱が頼光の使者として一条大宮まで行かねばならなかったので、頼光は綱に髭切を持たせた。綱は一条戻橋を渡りかけたが、その時橋を渡っていく女がいた。
女は綱に「この夜更けに心細くてなりませぬ。送っていただくことはなりますまいか。」と馴れ馴れしく声をかけた。綱は馬を飛び降り、「お安い御用さ。さあ、この馬に乗りなさい。」と女を馬に乗せてやった。町が近くなると女は振り返って「私の住処は洛外でございますが、そこまでお送りくださいますか。」綱は「どこまでもお送りしましょう。」と答えた。
すると、女は鬼の姿になって「いざ、我が行く先は愛宕山」と言いながら綱の髻を掴んで引っさげ、空高く飛んでいった。綱は髭切を抜いて鬼の腕を斬ると、鬼は腕を斬られながら愛宕山の方へ飛んでいった。
綱は切り取った鬼の腕を見ると、鉄のような真っ黒い手に銀の針のような毛が一面に生えていた。綱は腕を持ち帰って頼光に見せた。驚いた頼光は陰陽師・安倍晴明を呼んで、
「これは何だ」と相談すると、晴明は「綱には7日間外出を禁じよ。鬼の腕は厳重に保管し、祈祷のために仁王経を読ませなさい」と言った。
そうして5日が過ぎ、6日目の日暮れ頃、綱の伯母を名乗る女が訪ねて来た。
女は、綱が切り落とした鬼の腕はどのようなものか見たいと言うので、綱は鬼の腕を差し出した。女はたちまち鬼の姿となり、空へ舞い上がって逃げ失せた。
綱が鬼の腕を斬ったことで、髭切は”鬼丸”と名を改めた。
大蜘蛛退治
夏になって、頼光は毎日病苦に悩まされるようになった。
ある夜、頼光を看病していた四天王は頼光の病気がよくなったのを見て休息をしていた。
夜が更けると一人の法師が頼光に近づき、縄をかけようとしたので頼光は慌てて跳ね起きた。
膝丸で法師を斬りつけると、法師は跡形もなく消え失せた。燭台の下を見ると血の跡があったので、四天王とともに跡をたどっていった。血は北野の後ろにある大きな塚のところで消えていた。その塚には、巨大な山蜘蛛が傷を負って倒れていた。頼光は四天王に山蜘蛛を河原に立てさせた。これにより、膝丸は”蜘蛛切”と名を改めた。
そして、蜘蛛切は頼光から出羽守・頼基のもとへ渡った。
頼義から八幡太郎義家へ
天喜五年、頼光の弟頼信の嫡子・伊予守頼義は奥州で謀反の知らせがあったので、討手として奥州へ下され、陸奥守に任ぜられた。その時、頼基の手にあった鬼丸と蜘蛛切を頼義に贈った。頼義はこの刀とともに奥州へ向かい、ついに敵を滅ぼした。
さて、鬼丸と蜘蛛切の二口は頼義はから嫡子・八幡太郎義家のもとに渡った。出羽国山北金沢城に立てこもっていた武衡宗衡による謀反の知らせが届いたので、それを鎮めるために義家が討手として向かった。この謀反は3年後に鎮まった。頼義の9年間の戦いと義家の3年間の戦いを合わせて十二年の合戦ともいう。いずれも名刀の徳によって朝敵を滅ぼしたのである。
八幡太郎義家から源為義へ
やがて、鬼丸と蜘蛛切の二口は義家から四男の源為義に贈られた。
為義が14歳の時、伯父の美濃守義綱が謀反を起こした。為義は討手として向かった。これを聞いた義綱は髻を切って降参した。これもまた、刀の徳によるものであった。また、為義が18歳の時、南郡の衆徒、朝家を恨み数万人の大勢が京へ攻め上った。為義はわずか16騎を率いて栗子山へ向かい、南郡の大群を追い返した。これも刀の徳によるものであった。
ある日、為義が持った鬼丸と蜘蛛切が終夜吠えだした。
鬼丸の吠える音は獅子の鳴き声、蜘蛛切の吠える音は蛇の鳴き声のようだった。そこで鬼丸を”獅子の子”と名を改め、蜘蛛切は”吠丸”と名を改めた。
すると、やがて源平両家に不和が生じて合戦が起きる取沙汰が起こり、洛中のみの騒動で収まらず、遠国まで伝わった。為義は吠丸を熊野権現に奉納した。そして、刀鍛冶を召し寄せ獅子の子を手本に刀を作らせ、目貫に烏を入れ”小烏”と名付けた。ただ、小烏は獅子の子より二分長かった。
ある時、為義は二口の刀を抜いて障子に立て掛けておいたが、刀がガラガラと倒れる音が聞こえたので驚いて取り上げると、小烏が獅子の子と同じ長さになっていた。折れたのかと思って小烏を見たが、刀は折れておらず、目貫が折れていた。為義は獅子の子が目貫を食い切ったと思ったので、獅子の子を”友切”と名を改めた。
源為義から源義朝へ
まもなく、為義は二口の刀を嫡子・義朝に贈った。すると保元の乱が起こり、義朝は内裏に召され、為義は院の御所に召された。戦は新院(崇徳天皇)の敗北であった。為義は比叡山に登り出家して、子であれば見放しはしないと思い義朝のもとへ赴いたが、無残にも義朝に誅された。
源義朝から源頼朝へ
義朝は平治元年に謀反を起こし、多くの子供の中で三男・頼朝を将来の大将と見定めてか、殊に寵愛して生絹という鎧を授け友切を持たせたが、武運拙く敗戦に及び、終夜、
「昔はこの刀を以て敵を攻めれば、なびかぬ草木はなかったのに、世の末となって刀の精が失せましたのか、それとも大菩薩も見捨てさせ給うたのか。七代までは見捨てさせ給うまじと思いましたのに、義朝まではまだ三代でございまする。」
と八幡大菩薩を恨み奉った。
すると、その夜の夢に、
「我、汝を棄てるにあらず、汝が持つ友切は満仲が與えし刀なり。髭切・膝丸とて始めの通りならば刀の力も失うまじきを次第に名を替えるによって刀のせいも弱くなっていったのだ。
ことさら髭切は、友切と名付けられて敵を従えずして友切となった。保元の乱で為義が斬られ、子供らが皆滅ぼされたのもその友切という名のせいだ。此度の戦に負けたのも、友切という刀の性である。昔の名に戻すのがよかろう。」とのお告げがあった。
目覚めた義朝は驚き、獅子の子を元の”髭切”の名に戻した。
やがて義朝は暗殺され、頼朝も平家に捕らえられることとなる。
頼朝は源氏重代の刀を平家に取られるのは無念と思い、熱田神宮に髭切を奉納した。
そうして平家に捕らえられた頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流されることとなった。
そうして歳月が過ぎ、治承四年の夏、頼朝が以仁王の令旨を賜り挙兵した時、熱田神宮から髭切を申し受けて佩刀とした。これもひとえに髭切の徳であった。
頼朝の弟・義経もまた、兄の挙兵を聞いて大いに喜び、金澤にて頼朝達と合流した。今昔の物語、しばし時の経つのも忘れるほどであった。
殊に、木曽義仲も北陸道七ヶ国を打ち負かし、都に上って平家を西国へ攻め落とし、天下を我が物にしようと御所法住寺に押し寄せ、公卿たちとの争いの末御所を焼き払った。また、内裏に籠もっていた公卿たちを追放したため、公家から関東へ使者を遣り頼朝に知らせたところ、弟の範頼、義経を大将として軍を派遣し、義仲を追討した。
さて、熊野別当は吠丸を熊野権現の宝殿から持ってきて義経に渡した。義経は大いに喜び、この刀が熊野の春の山を分けて出たことから、”薄緑”と名付けた。
義経がこの刀を手にしてから、今までは平家に従っていた者たちも源氏に従ったのは不思議なことであった。
源氏は一ノ谷へ向かい軍平を分け、範頼は先陣の大将として、義経は後詰の大将として進み、平家は大敗して思い思いに落ち延びていった。
源氏は再び平家を攻め下った時、義経は大風をも恐れず屋島に渡った。義経は屋島の敵を焼き払って平家を西海に追いやり、長門国赤間関へ向かった。範頼は豊前国門司の関に向かい、平家を中に取り籠めて壇ノ浦で戦った。平家はまたもや大敗し、先帝は二位殿に抱かれて入水し、平宗盛以下38人が生け捕られた。義経が毎度の戦に勝利し全国に名を上げたのも、ひとえに名刀の力である。
かくして義経は南海、西海を鎮め、平家の捕虜を従え神器を持ち帰った。
ただし、三種の神器のうち宝剣は行方がわからず、都へ返したのは内侍所と神璽のみであった。そもそも、帝王の御宝に宝剣、内侍所、神璽の3つがある。
さて、義経は平家の捕虜を引き連れて関東へ向かったが、頼朝は梶原景時の讒言を信じ、腰越に関を据えて鎌倉に入ることを許さなかった。義経は起請文を書いて送ったが、受け取ってもらえず、都へ戻ることを余儀なくされた。また、都へ戻る際に箱根権現に参詣し兄弟の仲を和らげ給えと薄緑を奉納した。
関東より義経追討の軍が向かうと聞こえたので、義経は500余騎を従え西海へ落ちようとしたが、大風のため難波の浦に漂着した。静という白拍子を連れて吉野山に入り、その後北陸道より奥州へ落ち延びた。義経は藤原秀衡に頼んで3〜4年過ごしたが、藤原泰衡率いる500余騎に攻め入られ、女房、子供とともに自害した。兄弟の仲が直らなかったために、刀は権現に寄進しても運の定めはどうすることもできなかった。
曽我兄弟から源頼朝へ
その後、相模国で曽我兄弟が親の仇・工藤祐経を討った時、箱根別当より兵庫鎖の太刀を得て本望を遂げたというが、その時の太刀こそ、義経が権現に寄進した薄緑ー昔の膝丸である。親の仇を心のままに討ち果たして日本五幾七道に名を上げ賞められたのも、この刀の功徳であった。その後、膝丸は鎌倉殿に召し上げられた。
髭切と膝丸、二口の名刀は源満仲、八幡大菩薩より賜った源氏重代の刀であるから一時離れ離れになっても終には再びめぐり逢い、鎌倉殿の手に返ったのは誠にめでたいことであった。