陰陽道 鎌倉時代

鎌倉幕府と陰陽師

鎌倉幕府でも陰陽師は活躍したが、幕府専属の陰陽師が誕生したのは第三代将軍源実朝の代である。

鎌倉幕府に仕えた陰陽師のほとんどは安倍氏だったが、賀茂氏・伴氏・惟宗氏などもいた。

幕府専属陰陽師の誕生まで

頼朝と佐伯昌長

源頼朝が伊豆国に配流されていたのと同時期に、佐伯昌助という筑前国住吉社の神官も配流されていた。

頼朝専属の祈祷師

治承4年(1180)7月23日、昌助の弟昌長が頼朝と対面した。
これを機に、昌長は頼朝専属の祈祷師として仕えることとなった。

山木追討の機会を占う

同年8月6日、昌長は藤原邦通とともに山木兼隆追討の吉日を占った。
結果は8月17日の寅~卯の刻と出たが、前日雨が止まなかったので天気が良くなるよう祈祷を行った。
当日は快晴となって山木を討ち取ることができた。

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参考【源平合戦】山木兼隆館襲撃

【前回までのあらすじ】源頼政の敗北により、諸国に源氏追討令が下された。頼朝は逆に平氏を追討しようと考え、諸国の源氏たちに手紙を出して呼び寄せることにした。頼朝のもとに続々と御家人が集まってきた……。 ...

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頼朝と安倍資元

安倍資元すけもとは朝廷に仕える天文博士である。

建久6年(1195)10月3日、資元から9月に起こった太白の変について調べた書状が鎌倉に届いている。(『吾妻鏡』同日条)

太白の変

太白は金星(太白星)のこと。
この年の9月に金星と火星が太微に相犯したので、朝廷で祈祷が行われた。

その後も資元は頼朝の息子頼家の当年星祭を行ったり、実朝のために泰山府君祭を行って祈祷することもあった。

資元から安倍氏一族へ

承元4年(1210)10月16日、安倍泰貞が属星祭を行った。(『吾妻鏡』同日条)
また、建暦元年(1211)12月28日、翌年に厄年を迎える実朝のために安倍親職と安倍泰貞が天曹地府祭を行った。(『吾妻鏡』同日条)
さらに、健保元年(1213)4月28日、安部親職が天地災変祭、安倍泰貞が天曹地府祭、安倍宣賢が属星祭を務めた。(『吾妻鏡』同日条)

承久の乱で活躍

承久3年(1221)5月19日、北条政子は朝廷から出された北条義時追討の宣旨を読み上げた後、安倍親職・安倍宣賢・安倍晴吉らに吉凶を占わせた。
彼らはみな「関東は太平になるでしょう」と言った。

6月8日、鎌倉の義時邸にある釜殿で落雷があったので、大江広元は安倍親職・安倍泰貞・安倍宣賢に占わせたところ、最吉と出た。

参考承久の乱

承久の乱は鎌倉幕府と朝廷による合戦で、鎌倉幕府が勝利した。 この合戦を機に、政治の主導権は朝廷の貴族社会から幕府の武家社会に移り変わっていった。 『吾妻鏡』によると後鳥羽が北条義時追討の宣旨を発給した ...

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天変地異は悪政のせい

徳政の実施

古代中国では、天変地異は為政者が悪政を行ったことに対する天からの怒りだと考えられていた。
前漢の儒学者董仲舒は王が悪政を行えば天変地異が起こるという天人相関説を唱えた。

鎌倉幕府でも、天変が起きていないか陰陽師に観測させ、もし天変が起こっていた場合は徳政(良い政治)を実践した。
御成敗式目の制定や訴訟制度の充実はその一端だ。

陰陽師の祈祷

自然災害や疫病、飢饉なども為政者の悪政によるものだと解釈され、仏教僧や陰陽師が祈祷を行った。

怪異の退治

『吾妻鏡』でも怪異の発生は度々記述され、陰陽師に吉凶を占わせた。
占いの結果、凶兆と判断された場合は災厄を祓う祈祷を行った。

参考資料

  • 和田 英松「新訂 官職要解」講談社、1983年
  • 田中大喜「図説 鎌倉幕府」戎光祥出版、2021年
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やみみん

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