鎌倉時代

源頼朝が鎌倉を選んだ理由

治承四年(1180)10月、石橋山の戦いに敗れた頼朝たちは相模国へ行き、鎌倉に邸宅を建てた。

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源氏の都『鎌倉』

平忠常の乱

長元元年(1028)、上総国の平忠常安房守惟忠を殺害する事件があった。
所領経営などの問題をめぐって上総・下総の武士団と国司の対立は続いているなかで起こったできごとだった。

忠常が増長して上総国衙を占領したので、朝廷は平直方中原成通を追討使に任命して反乱の鎮圧に乗り出した。
二人はともに桓武平氏の一族だったが、直方と成通は不仲だったため追討はうまく行かなかった。

長元二年(1029)、朝廷は成通を追討使から解任し、翌長元三年(1030)7月、直方を呼び出した。
こうして9月に源頼信が新たな追討使に任命された。
忠常は以前から頼信に臣従していたので、頼信が東国に下向してくるや忠常は降伏した。

桓武平氏の平直方が追討に失敗し、清和源氏の源頼信の武名が高まったことで、東国における武士団統率の担い手は平氏から源氏の手に渡った。
直方は頼信の武芸に感服し、娘と頼信の子頼義を結婚させて自分の本拠地である「鎌倉の館」を頼信に譲った。

父義朝が鎌倉を継承

『保元物語』で源為義が「義朝こそ、坂東育ちのものにて」と述べており、文書史料において義朝が「上総御曹司源義朝」と記述されていることから、源義朝は東国出身と考えられている。
『吾妻鏡』によると、義朝は「鎌倉の楯」を受け継いだが、その場所は鎌倉の亀谷にあったという。
また、義朝の嫡男で頼朝の兄でもある義平は、「鎌倉悪源太」(鎌倉で生まれた源氏の長男で、激しい気性を持つ)と呼ばれていた。

だが、頼朝の時代には義朝の旧宅は荒れ果てて何ひとつ残っていなかった。

参考資料

  • 上杉和彦 (著)、 樋口州男 (著)、 歴史人編集部(編)「歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.5「源平合戦」」ABCアーク、2021年

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