平安時代

保元の乱

保元ほうげんの乱は、保元元年(1156)7月に鳥羽院没後の政治の主導権をめぐって起きた後白河天皇と崇徳上皇の戦いである。

後白河天皇が勝利し、後見となる藤原信西しんぜいを中心に新たな政治体制が敷かれた。

背景

譲位問題

久寿二年(1155)7月、近衛天皇が病没した。

近衛天皇には子がいなかったので、次の天皇を誰にするかという問題になった。

崇徳上皇は子の重仁親王を推し、鳥羽院の寵姫美福門院は養育していた守仁親王を推した。
後白河天皇の乳父信西は摂関家の藤原忠通ただみちと謀り、後白河天皇を強く推して即位させた。

また、東宮には守仁親王、関白に藤原忠通が選ばれた。

一方、崇徳上皇の望みは叶わず、忠通の弟藤原頼長も内覧を解任された。

久寿の飢饉

源為義の解官

鎮西では、源為義の子である源為朝をめぐった争いで為義が官職を解かれた。

謀反の疑い

同年7月2日、鳥羽院が没した。
崇徳上皇は鳥羽院が危篤だと聞いて駆けつけたが、面会することは叶わず、謀反の疑いまでかけられた。
崇徳は源為義や興福寺の悪僧を呼んだ。

経過

両軍の軍勢

後白河天皇の高松殿に集まった武士は、東国の武士を率いる源義朝や畿内近国の武士を率いる平清盛をはじめとした大軍だった。

一方、崇徳上皇の白河殿に集まった武士は源為義とその子頼賢・為朝らと平忠正ら少数の平氏だった。

後白河方の夜討ち

7月10日、後白河方は白河殿の夜襲を決行した。
これは、源義朝が信西に提案したものだった。

崇徳も頼長に夜襲を提案していたが、却下されてしまった。
それどころか、東国に逃げようと進言された。

結局、わずか数時間で合戦は後白河方の勝利に終わった。

頼長は父藤原忠実を頼りに行く途中で討ち取られ、崇徳上皇は生け捕られて讃岐国へ流された。

影響

死罪の復活

保元の乱を機に、約300年途絶えていた死罪が復活した。

崇徳方に付いた武士の多くが死罪となり、日本中に大きな衝撃を与えた。

参考資料

  • 福田 豊彦 (編集)、関 幸彦 (編集)「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年

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